今現在このブログはテーマ分類も未定のままで何かしら必要であろう物が書き記されてゆくというような扱いになってる。
たぶん今の私がやってるのは、
分離の悪夢的な闘いの記憶を癒す
というような物だと感じてるんだけど、
でも今はとりあえずそういう明確なテーマ分類とか付けないままにしておいてる。
そう、留保ってやつだ。
保留じゃなくて留保。
字の並びが逆になっただけのように思えたりもするけれど、調べてみたら割と明確に違う言葉だとわかった📝
一番最初に出た説明はこれでした。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240517/19/st-lettuce/50/84/j/o1080101815439939397.jpg?caw=800)
……わかるだろうか。
いかにも私が好みそうな概念とか
私の世界観に一致したやり方!!
そう、私の言う所での
“立ち回り”とか“ポジション”みたいなニュアンスに近い感じの意味の言葉!!
たぶん、私はそれが苦手だった。
だって正攻法じゃないから。
私はこう見えて実直な気質の人間でもあるので実際に可能なら正攻法で筋を通したり義理を果たしたいと思うことは実は非常に多い。
私は常々思っている。
情には全く流されず、しかし
義理を果たせる人間でありたいと。
……しかし私のスピリチュアルスピリチュアリティ的な性質もあってか実際に引き受けることになるポジションや役割における正解としては基本的にそんな“わかりやすいやり方”を使えることはほとんどない。
そういう意味で私の言う預言者ポジションだとか前回の記事から採用された世界の裏方気取りの役回りの人間としては、
もっとこう全く表っぽくないむしろ裏側で他者には知られなかったり意図的に気付かれず勘づかれないように動くというようなやり方が日常的に必要になるのが現実である(゜Δ ゜)
その点において私はやはり思っている。
必要なら私の役回りとしては相手に誤解させてやるのも仕事の1つ
だと。
これは少し前の記事で出てきた、
嫌われることも私の役割の半分
みたいな物に近い感覚だけど、
それよりは幾分も大分もマシに思う(笑)
しかし実際このような立ち位置……大きな流れとか霊的な学びだとかそんな物を当然のように認識する自分になればわかる。
人生ってのは基本的に人間ドラマとか呼ばれるような物で、その多くは一時的な解釈違いや誤解によってのみ成立する悲哀的なストーリー要素のような体験を多く含むものらしいんだ。
……そして実際に自分が関わる誰かがそのような悲哀的な一時的に誤解しすれ違うような体験を通して学ぶというような現実感と必要性があったのだとしたら、
それに気付く私は当然それを引き受けることになる可能性が高いし、そのような一時的な誤解やすれ違いな体験の協力者としての私である状態では当然のように私も同じ温度感や波動的な質で関わり参加することになる。
……これがめんどくさい┐(´∀`)┌
これがめんどくさいということに私は気付いてしまったらしい。なのでそのような役回りから引き上げることにした。
……そしてその際にそのような役回りの卒業試験のような物として前回の記事で少しばかり記されたような、
。
私は、思う。
この家では賢い人間は育たぬ。
……しかしもしそれが事実だとして、
そもそも私がその件に介入することは果たして本当に必要なのだろうか?
今までの私は“自称バランサー”としていくらなんでもバランスを欠いてるだろ!と感じられる部分に積極的に介入してきたけれど、
しかしその動機とは何だっただろうか?
……もしもそのバランサーとして自ら引き受けることを望んだそのような善意に思える意識の根底に無意識レベルでの恐れによるコントロールを望む意識があったとしたら?
私はその可能性に気付いてそれでもなお自らの意思で介入しバランスを保つことを望むのだろうか???
……しかしきっとそのやり方は、私が願い望んだ可能性へ辿り着くものではない。なぜならそれは赦しではなくコントロールだから。
そこに私が見ているのは無意識の恐れだということにきっと今の私は気付いているから。
そんなことを、思ったりしたのです。
……強いて言うなら、
そういう感覚があったからこそ私はアダルトチルドレンなスケープゴート+ロストワン的な立ち回りを選んだってことなんだろう。
だって私は実際にそのような現実感を嫌だと感じて否定し調和へと近づけることを望んでいたし、
その意識の奥底には確かに不快感や恐れを感じたくないという気持ちがあったことにも気付けるようになったから。
いじめられる側にも責任がある
そんな言葉や考え方があるけれど、
ちょうどそれと同じような温度感の物として私はアダルトチルドレンとしての自己の存在感や立場を望まぬながら引き受ける者にも責任はあると思うんだよ。
だってそれは本当に無意識の恐れから状況を支配しコントロールして自分が思う良い状態もっとマシな状態に整えてやろうって考え方だから。
少なくとも私はそうだった。
確かにそれは“マシな状態”に連れていくことはできるに違いない。でもそれだけ。
いつしか自分が本当に望んでいた結果には辿り着かないやり方だと気付く時が来る。
無意識の恐れが愛を動機とした選択と同じ結果を連れてくることは、きっと無い。
霊的な教えの中で語られる情報による知識に加えて私は自ら試行錯誤し試して確認してきたような経験からもそう感じてる。
だから私は、
その役割から降りることにした。
そもそもそれは私が望んでいた物ではないのかもしれないし、
もし仮にかつての私が自らの存在証明の足しになればと信じて選んだ自分に価値を見出だすための試みだったとしたらそれは少なからず成功したのだとも思える。
しかし残念ながら今の私にとってそのようなやり方は得られるものよりも失うものの方が圧倒的に多くなってしまった。
かつては存在証明の足しとなっていて自らの無意味さ無価値さを軽減し喜びを得られていたかもしれないやり方も今ではすっかりただの重荷になってしまったということ。
そんな物を引きずってゆく気は無いし、
そんななんの慰めにもならない慰めなんて私は絶対に許せないと感じる。
慰めってのは、ちゃんと自分の心を慰めることができるからそう呼ぶんだ。
なんの慰めにもならず無駄に自分を傷付けることは慰めなんて言わない、
そんなのはただの自傷行為でしかない。
そんなものは不愉快だ!!
だから私はその役割を……自らの存在感や価値の足しになればと無意識の恐れや無価値感から望んでいたあらゆる選択を1つ1つ拒否し捨て去ってゆくことを選んでゆくだろう。
……それはなぜかって?
すごく適当な丸投げみたいな表現を使わせてもらうなら、
それこそがキリスト意識みたいな物でもあるから。
そして何より、
私が気に入らないからだ!!!
慰めだってんならちゃんと本当に心の慰めになるものだけにしろよ!?
慰めとか言って無駄に自分を傷付けるようなやり方を私は絶対に認めない。
そんなやり方、心底不愉快だ。
私は不必要に他者や自分を否定したり傷付けるつもりは無いけれど、
でも必要ならそれでもやる。
私は無駄に闘いを長引かせるための闘いなんて嫌いだけど、闘いを真に終わらせるための闘いであれば何だってやる。
それが、一番早いから。
だから私は最後には必ず赦しこそを最も相応しい選択して自ら受け入れる。
それがあればこそ私は自らや他者を必要と信じて否定し傷付けるようなやり方も受け入れることができたのだから。
自分との約束を、
誓いを違えるような真似はしない。
そのためなら真逆に見えることだって選んでみせるし、
それでも私は本当の意思を見失わずに居られるのだと知っているはずのものを信じたいし証明したいから!!
そのための犠牲であり献身だと知るのなら必ずしも悪いものではないだろう?
それがどう見えるかは知らないし、
そもそも私自身その意識をどれだけ保ち続けられるのかもわからんけど┐(´∀`)┌
だからって忘れるわけない。
それを忘れるわけがないんだよ。
……それが迷いながら私の選んだ自分。
そして本当の私として選ばされた道。
……それをさ~、
キリスト意識っ!!
なんてそんな安っぽい(?)一言で片付けられたら怒りも湧いてきそうなもんでしょ?(笑)
はぁ?
俺ぁキリストでもジーザスでもイエズスでもねぇんだよ!!
そんなの知ったことか!!
自己犠牲なんて絶対にごめんだね!!
私は絶対にそうならない!
……っていうこの言葉、
私は絶対にそうはならない!!
……この言葉もまたファミリーカルマ的な所で見かける物だってんだから、私がそこら辺に同じものを見たり感じたりしてるのも無理のないことなのかもしれないし、
もしかしたらちょうど波動的に同じ帯域にある思考や思いなのかもしれないなって思ったりしてる😃💡
それは多分同じような感じで、
アダルトチルドレン的なものとスターシード的なものの温度感や波動感?みたいな物も縮図というかミクロマクロ的な感じでちょうど同じところらへんのことなんだろうなって感じたりしてる所なのです😌
スピリチュアルな探求とスピリチュアリティの実践をしばらく平行して続けていくと
絶対に相容れず混ぜるな危険て感じな部分と同じような概念を違う言葉で説明されてると感じるような部分があるって気付くじゃん?
まぁそれも実践者じゃないとわからないんだろうけどそれはこの話の中では当然の前提知識★
今の私は、
もし私が本心で何かを選ぶとしたら赦しとかそこら辺のものであることは間違いない。
という赦しは必然の選択という感覚までは忘れずに居られる状態になったのですが、
しかし分離の悪夢……過去の自分が見たり体験してきた時の感覚や感情が蘇って表に出てきてる時には赦しは非常に遠いもので、それを選ぶのは当然だという理解だけが残っているけどそれは全く思い出せないというような状態になるのは避けられないのですね、
困ったことです┐(´∀`)┌
だから先にそれらの過去の分離の悪夢的な想いや思いを追体験して認め受け入れることによって手放すということが急務ということになるのですが……
私はようやく理解したらしいのです。
そのことを正しく認識し理解することができるようになるのはこのタイミング……赦しやそれに通じるゆるしを無条件に選ぶことは必ず自分を幸せにするための選択であり必須条件であるともう忘れなくなった状態。
この時になって初めて、
自らを傷付けることになる選択を手放して止めて癒しを選択するということは、
あらゆる望まなかった悪夢的な感覚感情を追体験し認めてやることで可能になる、
自分を過去の悪夢や傷付ける選択から解放してやるためにはあるがままにネガティブで嫌だと感じられる感覚感情を認め受け入れ抱き締めてやることが必要、
ゆるしを受け入れ過去を手放す
とかそんな言葉で表現されていたソレとはそのような物だったのだと!!
私はようやく明確に認識し理解できるようになったと気付いたのです(゜Δ ゜)!!
過去を手放す
ために=イコール
あるがままを認め受け入れる
その言葉が示していたのは
コレだったのかと!!
だからそれを理解した私は速やかに過去の感覚感情を認め追体験し受け入れ手放すということを選ぶようになったのです。
だから私はわかったのです。
それさえできれば癒しを受け入れることは決して難しくないのだしたったそれだけに思えるものが信じられないくらい難しいと。
それさえできたなら、
自分や他者を癒すことができるのです。
たったそれだけのことが、
ただの1度もできていないから、
いつまでも過去の悪夢と喪失感を握り締めたまま引きずり続けているとわかるから。
それだけなのです。
ただそれだけのことが、
たった一度でもできていたなら……
私も喪失者として失われた可能性を探し求める必要は無かったし、家族や誰かを恨み憎むことはしなくてよかったのだと……。
確か私は初めてそんな現実感にはっきりと気付いた時にその原因や身近な表れの1つであるファミリーカルマというものを自らの意思で引きちぎり断ち切りたくなったのです。
だってそんなのは悲しすぎるでしょう。
本来は愛であったはずのものが歪められてそうならざるを得なくなってしまったから私や他のすべての者も喪失者として苦しむことになってしまったと気付くなら、
そんなのなんとかしたくなるでしょう?
だってあまりにもバカバカしいじゃない。
自分が恨み憎んだはずの誰かも同じように苦しんでいたと知るなら、
もう自分が誰を恨み憎めばいいのかもわからなくなっちゃうでしょう?
だからそんなことに気付いてしまった私がキリスト意識なんてもんに導かれ進んでゆくことになったのだと理解するなら、
そうなんだろうなって思うもん。
確かに私はキリスト意識なんて宗教要素多めの無駄の多そうな概念や言葉としてのそれは大っ嫌いだけど、
でもこの文脈で示されてるキリスト意識ってのは確かに私の意思に適っていて見て感じてきた物と完全に一致してるとわかる。
別の言葉で表すならそれは慈悲って感覚なのかもしれない。
だってむなしすぎるでしょう。
そんなのは、あまりにかなしすぎる。
そんなの、嫌でしょ?
少なくとも私は嫌なんだよそんなのは。
だからそんなのは腹立たしく思えるし不愉快に感じられるし絶対に認められないし許す必要性も感じない。
強いて言うならそれが神の拒絶ってやつでこれの言葉が示してることだと思うの↓
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240517/19/st-lettuce/eb/b6/j/o0810108015439939440.jpg?caw=800)
だから私はその真実に照らし合わせて正解でないと知る物は必ず拒否することになると知ってるし、
仮にその過程で誰かを傷付けるような現実感を避けられないとしても、もうそんな一時的な困難に負けて絶望する必要なんて無いとも思ってる。
だって私には赦しがあるから。
私は少し時間がかかってもそれを必ず自らの意思としてわたしたちと知ったもののために選ぶと知ってるから。
だから私は過去の悪夢と信じたすべてを洗い流し解放してゆけるし、私と意識を重ねる者があったなら同じように赦しの光を受けて救われることもできると思えるから。
たぶんそれはもう既に約束の場所みたいなものに近い所なんだと思える。
そんな状態にあって今の私は………………
そう、留保してる。
今の私にはまだあまり状況がよく見えていないのだし、それに私が次なるもっと調和的という意味で負荷が少なく望ましい役割を引き受けるためにも今は闘いの記憶みたいな物を癒して満たすことが最優先だとわかる。
いままでの私は自らの持てる資質や力のすべてを糧となる体験のために使ってきた。
もし仮に、そのすべてを自らの癒しや解放のために使えるのだとしたら私がすごい速さで癒されたり変化したように見えたとしてもそんなに不思議じゃない。
実際、たぶんキリスト意識の体得みたいなのはその言葉の扱いにくさ厄介さ以上の便利さや癒しや解放のための価値みたいなのがある物だとも思えるし🌸
そう、そう思うんだけど、
私はその使い道みたいな物を積極的に決めようとは思ってないのです(ヾノ・∀・`)
だから、留保。
……この状況には今の私では見切ることができていないもっと隠された意図や可能性というものが既に存在してるように見えるし、
それを認識するためには私の内側から浮かび上がってくる今までは癒し解放することができなかったすべてを癒し解放し自分を入れ換えてやる必要がある。
だから私は今は自らの意思で決めない。
それが留保の意味と価値。
元よりこの旅はもう既に急ぎではなくなっているのだし、その上で何かしら急ぎたくなったとしたらそれはほぼ確実に無意識の恐れによるコントロールへの衝動に違いないと気付いているから。
私はそれを見逃さない。
もし他者にそれを見ても私は自らの内側でそれを手放すことを速やかに選択することを望むだろうから。
だってもう私は、忘れなくなったから。
たとえそれが一時的に見えなくなったとしても忘れることはないんだよ。
その私ならこれまでよりも圧倒的に容易に赦しやそれに通じる癒しやそれに繋げる慰めも正しく受け止め活用できる。
私は、特に困ってない。
ちょうどそんな感じ。
なぜならそれを選ばなくなってるから。
苦しみを、その原因となる恐れを見たならそれを速やかに手放せばいい。今すぐにそれができないのだと気付くならそれに繋げるための取り組みをすればいい。
そういう意味で私はもう多分真の自分みたいな物を見失うことは無い。
……まぁそういうのもキリスト意識ってやつなのかもしれないし?(笑)
犠牲とか献身の意味とか、
私は今すぐにその正しい意味であるものを知りたいとは思ってない。
必要なら知ることになるし、
どちらかと言えば真に最も相応しいタイミングでそれを知ることになるというたった一度きりの幸運を受け取るための聖なる贈り物みたいな感じで使いたいし!!
わざわざそれを台無しにするような真似を私がするわけない(ヾノ・∀・`)
そういう意味で私はよくわかってるし、
だから別に今すぐにはわからなくても何も困らないとも思ってる。
たぶんコレこそが信頼が確かなものに育ったという感覚なんだと思うよ。
だから今の私はそれを獲得するまではできなかったからずっとおあずけされてた体験を楽しんでいるとも言えるのかもしれない。
それをそれらしく言うのなら、
今の私はこれまでの何度も死ぬような想いをして文字通り必死こいて得た神聖性の証であるキリスト意識に守られてるからこの先は神の子として安心安全に生きられる予感
みたいな感じなんだと思う、
なんかまだ認識は混沌としてるけど💥
というか、
キリスト意識なんてものが神の子の証にならないわけがない。
どっちかと言えばそっちだと思うの。
私は苦難と幸福を選べるようになった。
一言で表すならそんな感じだと思う。
まだ完璧じゃないにしても実際に選ぶことは十分に可能になったし?😃✨
たぶんそれはこんな感じで文字で語り示すこと以上には素晴らしいことだと思う。
でもそれはまだ先の話。
せっかくだから私は保留じゃなくて留保を選ぶことにするよ!!
……その価値は何かって?
それを知るために選ぶんだよ~。今の私にそれがわかるわけないし今すぐわかってしまったら何も面白くないでしょ!
……そう、コレはアレに似てる……
かつて私がまだ年齢が一桁の子供だった時代に祖母と遊んだしちならべ……“七並べ”をしていた時の感覚によく似ている気がする。
つまり、
留保とは戦術(?)であり戦略である。
……なんか面白そうだし楽しいじゃん?
軍師ごっこみたいで☆
なんでもかんでも今すぐに知ることが真の幸せや望みだとは限らないし、むしろ真に知るべきタイミングを、最も素晴らしい贈り物を得られるその時まで辛抱強く待つことが一番満足度の高い選択だと私は思う。
それは我慢ではなく忍耐である。
だから忍耐は当然の選択だし、たぶん幸せに生きるためには実はすごく重要な資質。
内なる信頼の感覚が立派に育って、
もはや勇気を使う必要が無くなった時、
忍耐は苦しいものじゃなくなる。
たぶんそういうことなんだと思う。
それはいわゆる予祝の考え方によく似てるんじゃないかな?
予祝とか、あらゆる祝福的な属性も喪失者であった私には知ってるけど扱えない概念に過ぎなかっただろうけど、
もし私の知ったキリスト意識なんてものが本物だったとしたならば!!
(まだ信じきってない)
あらゆる祝福の属性や権利?みたいなものは当然のように私に与えられるしそれを受け取ることも当然になる。
……さぁ果たしてそれは本当だろうか?
今はまだそんな状態なんだろうけどね(笑)
何にせよこれらはすべて分離の悪夢が消え去った状態で初めて本物に成り得る可能性を持つもの。だからそれを知る私は無条件に無意識の恐れやコントロールを手放していくことになる。
それが最優先で、
それが終わるまで私はたぶん留保されてることになると思う😃
今の私は羽化したばかりのものか、
羽化する直前かのどちらか。
芋虫が蝶になって変容する!(?)的なアレなんだと思う。実際に喪失者としての私と神の子的な私は文字通り真逆の性質や意思を示すだろうから。
……つまりそれは、私がかつて自らの罪業と信じたすべてがなんかすごく神聖でいいかんじのものになるということである!!
何にせよすぐには使えない(ヾノ・∀・`)
そういう意味で今の私は隠され守られているくらいがちょうどいいとわかる。
私は、私のアンチ(?)というような人間にネット上で遭遇したことは無いし、スピリチュアルとかスピリチュアリティな論争を心行くまで楽しみたいと思っていた時にもそんな挑戦者は現れてくれなかった……(*´ Δ`* )
それなのに私は自分は否定されたり理解されなくて当然だと感じていた。
……これは、割と奇妙である。
でもその比較的早い時期的な原因としてアダルトチルドレン的な家庭環境や宿命的必然となる体験に由来してると知るのなら、
そこら辺を伝手に真意や本筋みたいなのを辿ってゆくことは十分に可能だし、
その行き着くものがキリスト意識だったと認めることになるなら、
じゃあキリスト意識ってのはファミリーカルマを断ち切るために役に立つその学びの果てに見つかる概念ということになる。
そんな理由で私は謎の?
調べたらよくわかるような?
そんな無意識レベルでの無価値感や不可避の自己肯定感の非常な低さというような側面に癒しの手を加える(?)というようなことをしている。
私はキリスト意識とか赦しを知ることを必然とする者だったからそれでいいんだけどそうではない他の多くの人間はそれには辿り着かないのだとしたら何かしら別のやり方が必要になるのかもしれない。
……その部分は私には想像し得る可能性としてしかわからんのだけどね?
それにそもそも私がそれらの赦しには及ばないリアリティーを扱うのかどうかもわからない(ヾノ・∀・`)
確かに私は一時的にはスターシードとかアダルトチルドレン的なものを扱うけど、それらは飽くまで究極のスープであり赦しとかキリスト意識に辿り着く自分を仕上げるためのダシみたいなものだから私はすぐにそれを見なくなるのだし🌠
確か、若い頃の私は思っていた。
わかりあえないことなんてない!!
私はすごく理想主義的な人間で、
それが内なる神聖性に由来していたと知るのならすべては必然だと思える。
……そうよね、私がずっと感じていた自分の可能性だとか自称マスターとか聖者とかそれらの一時的な取り組みが嘘だったり的外れだったわけじゃないならやがてはそれらを本当に理解することになるのも自然なこと。
だから私はようやく自分がすごいのだと認める気になったらしい。私が自分がすごいと認める判断基準は導かれ続けていた学びの本命である赦しやキリスト意識を体得できているかどうかだったとわかるから。
だから私はきっと全く同じように他者を見ることになる。
その人間がスピリチュアル界隈的な意味ですごいかどうか判断するその基準は赦しとかキリスト意識を体得できているかどうか。
私はそれができてる人間ならすごいって思うんだろうしそれができてない人間なら別にすごくないって思うんだろうなって🙆
だって人間は自分を見るようにしか他者を見られないのだし他者を見るようにしか自分を見られないんだから。
……そしてそんなことを考えてる私は神の子じゃないロストワン症候群な私か、あるいはもしかしたら意図的に目覚めてないフリをしてるだけの私に違いない(笑)
なんでそんなことするかって?
そりゃ簡単。
楽しいからだよ!!
確かにね?
悪意を持って幻術に相手をはめるのは良くないことだと思う。でも悪意が無いなら別にいいんじゃないの?
本当に悪意が無いなら、
そういうことなんだろうし?
なんにせよそういう話や楽しみが成立するのも赦しを受け入れて恐れを全く見なくなった者だけ。それを私が赦しの光を投射するやり方じゃなくて自分で辿り着いた者とだけ私はそれを楽しめるんだとわかる。
あそうそう、
例によってエリコ先生のリーディング動画の中でちょうど私が認識してる物に近いやつがまたあって、
スターシードっていう概念とか要素の組み込み方というか話全体としての扱いのちょうどいい割合?みたいな物が掴めていいなって💡
これのAの話ですね。
もし同じ道を辿った人が居たら聞いてて嬉しく感じると思うの。わかってもらえること少ないでしょう?
これもAの話。
もし本当にそんな者があるとしたら人生をすごく楽しめそうだからね☆
それでその人も赦しとかキリスト意識に類するものを体得してるんですか???
そんな感じで(?)私は思ったんだよ
スターシードじゃなくて
マスターシードって概念を作ってやっていけばいいんじゃないの?
必要ならいくらでも新しい(?)概念を構築できるから。だって私は内なるマスタービルダーだから!!
今の私は気付いてる。
かつてお相手様と呼んだそのお人に私はその可能性の影を見ていたのだと。
恐れず執着せず。
そうなった時にその先の可能性を初めて生きることができるって、そして今の私は十分それが可能に成り得るんだってわかるから。
こんなの喜ばないわけない。
……えっと、何だっけ?
じゃあ、どうしようか。
キリスト意識に目覚めた私はそれで、3
みたいな話として、どうしよっか。
本にはそれらしい立派な表紙があった方がいいしブログ記事にもそれらしいタイトルがあった方がいいから……
この流れじゃまだマスターシードの話は扱えないだろうし?(゜Δ ゜)
この記事も散らかってるなぁ……でも綺麗に話を終わらせることが目的じゃないから別にいっか。