それが砂の道の聖者だって? 4++/私が犠牲と信じたすべてに相応しい報いを与える唯一の道だから。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

この記事の前に2つほど書いたけど、

それらは完成に至らなかったのか、
何かしら他の理由や意図があってのことかはまだわからないし、
(という感じの扱いや認識になっている)
未だに公開に至っていない。



……それらの断片としての記録、
こんな感じのソレとか、
もう因業と呼ぶしかない生きる道や使命感としての意志とか。



なんかそんな物……ひたすら報われず虚しく悔しく哀しい想いを思い出したり味わったり噛み締めたりしながらここ数日は涙を流したりして過ごしていたのです。



もちろんついさっきマギレコストーリーの記憶に蘇ってきた部分とかも見直したりしながら😋


なんかここら辺もブログ素材として使って一生懸命書いた記憶があります。



私も思ったことでしょう……
そんなにもひどい結果になるのだと知っていたら大それた夢や理想なんて抱かずに凡人のまま生きて死ねばよかったのだと!!

一番守りたかったはずのたった1つさえ守れやしないのだと知っていたらそんな物は絶対に選ばなかったのに!!


私は自らも他者をも傷付け犠牲を強いて、
それは真に求め望まれたはずの、それにさえ辿り着けたならそれまでの痛みと犠牲のすべては報われ救われるはずと信じられるほどの理想のために私はそのためにそんな道を進んできたはずなのに……

それなのに私にはそれができないなんて。
……そんなのはあまりに悲しくて虚しい。

私は本物にはなれないのか……。


そんな過去の悪夢の残像な絶望の想いを涙を流し見つめながら通り越していって、、、


今まで見ないままにしていたマニュアルにおける“犠牲”の意味も見てきて、
私は確信したのかもしれない。

そして私はふと、
素朴な疑問として思ったのです。



……果たして人間は赦しなんてものは真の絶望無くして受け入れることなんてできるのだろうか?


……少なくとも私という人間は全くそうではなかったように思うし、
それほどの想いでもなければカタチの世界としてのあらゆる現実を諦め手放すことなど不可能なのではないだろうか?

それは当然のことなんじゃないのか?


……………………
そんなことを、


それは当然のことなんじゃないのか?


というように感じたのです。




そんな私が遭遇した動画がコレでした。


ブログではかなり久しぶりの非二元チャンネル😃💡
……心が救われるいいタイトル。わかる。



もちろん見ました。

恐らくこの人は私とは違ってかなり要領の良いお人だったのでしょうね。それゆえにスピリチュアルな探求からノンデュアリティ的な意識への覚醒まで早熟なように思えます。

それに建築の道に進めるってことは私とは違って理系的なセンスも高いでしょうし。


……まぁ実際に本人がどのくらいの艱難辛苦を味わったのかは他人には絶対にわからない物だから憶測でしかないのだし、その程度や量が大いからってなんの自慢にならないしそれこそ比べる意味なんてほとんどないようなものなんだろうけど(笑)



でもたぶん今の私はまさにこういうことが知りたいんだろうなって感じる。

悟りや赦しや非二元ノンデュアリティの覚醒に至った人間は、どんな体験やきっかけがあってそこに到達することができたのか?


これは純粋な好奇心と共に、
“同じ道の人間”としての仲間がどのように生きてそこにまで辿り着いたのかを知りたいと私は感じている。


そこまで辿り着いた仲間のことを私はもっと知りたい!!



そんな風に私がずっと感じていたことにようやく気付いた。

……なかなかその意識にさえ気付けなかった理由とかってのが前回とか前々回の記事の中とかで記されていたんだとわかる。
そしてその状態から抜け出し変化する直接的なきっかけとなった取り組み

過去を追体験し必要なだけ涙を流すという
感情的な癒し。


それだったのだとわかる。


……実際、涙を流すのは難しい。
現代の世の中が男とは泣かぬものと考えられているからか私が個人的にそう信じているかは知らないけれど、

涙を流して泣くということは通常ではまず起こらないし選ぶこともしないから。




だから私は、今の自分が必要としていることが何なのかわかった。


それは、

もうこれ以上自分を傷付けることなく生きる


というような言葉で表せる意思。


……私は特にほとんどの自分自身を“偽物”と決め付けて見つける限りは殺し消滅させようと繰り返してきた。それは上にも記されているように、

その犠牲と献身の道を選んででも成し遂げるに値すると信じた可能性があったから。


そして私はその可能性の1つである赦しを自ら受け入れることができるようになった。


……だからもう犠牲の道は選べないのだし、

私はもうほんの少しもそんな生き方を選びたくはないし2度と自分を無闇に傷付けるような真似を許す気もないのだとわかった。


だからそれが私にとっての癒しの道であるということもわかってきてる。


今の私はもう十分にわかってる。
何を選び何を望むことが自らを傷付ける選択になるのか、それから逃れるためには何を選び何を望めばいいのか。




私は何も報われてなんかいないし!
だから私は何も幸せなんかじゃないし!
だから私は何も楽しくなんかなかった!!


……たぶんその想いに気付くことはとても虚しく哀しいことだったのだろう。
だから私の心はひたすらに虚しさや悲しみで満たされていたから涙を流し泣きたいとずっと望んでいたのだろう。




だから私にはそれが癒しの道だとわかる。

もうこれまでと同じように自分を傷付けるような生き方は選べない……なぜならそれこそが癒しを妨げる間違った選択であり自らを傷付けない選択としての本当に正しい生き方を学んでいくことこそが今の私に必要だとわかるから。

だから私にはそれこそが癒しの道であるということがわかるんだよ。




これでようやく私は答えを得た。

赦しにまで辿り着いたことで何かが大きく変わってしまった気がしている……
これからの私はどうすればいいのか?



その問いに答えが出せた。


自らを傷付けずにいられるやり方=真に癒しの道を進むこと。


それこそが今までの私には許されず与えられなかったからこそ私の人生上で欠損し何よりも必要としているものだとわかったから。



……そう、この時になって初めて私は本当に自分のために生きることが可能になったということに気付いたんだよ。

これまでは“そう信じ込もうとしていた”と言った方が正しい。……何しろ本当の意味では自由なんて全く許されず果たすべき役割や使命に殉ずることだけが求められ許されていた状態の私が

全然自分のために生きられてなどいないから幸せも喜びも祝福も有り得ない!!


……そう気付くことはできなかったから。



これまでの私はあまり本気で考えていなかったけれど、私も非二元でノンデュアリティな方向や色の強い人間としてやっていこうかと思ってる。

……だってそれが実際に私の人生だったし?


もし私が“犠牲”と信じたすべての記憶を越えて行くことができたならそれも現実的なことになると思えるから。



それにやっぱり私はこれまでのやり方を続けることはないと思う。
だってそれは信じられないくらいに自らに負荷を強いるやり方だったから……。

だからもし本当にそんなことしなくてよくなったのだとしたらそんな悪夢的悪魔的なやり方を絶対に選ぶわけないってわかるから!!


それが、人間としての私が幸せじゃなかった理由だし、これまでの私が幸せになれなかった理由のすべてなんだと思う。


使命に生きるために
使命のために死ね!


本物の自分を生かすため
偽物の自分は死ね!!


ずっと私はそんな存在だったから。。。


私が“砂の道の聖者”みたいにそれを歩き通せることができたなら、もしかしたらその先には本当にオアシスみたいなものがあるかもしれないからね☆




私は、カタチとしては自分が何をどうするのかを決めるつもりはたぶん全く無い。それは無駄に自分を傷付ける選択だと知ったから。


私が望むのはこれまでに繰り返し見続けてきた痛みや苦しみではなく、これまでは許されず与えられなかった癒しや慰め。

私はそれを受け取る権利がある。
なぜなら私自身がそれを求め許すから。


……これまでは憎み滅ぼすべきだけだった世界や自分も愛し楽しむことができる。


そのためにたった1つの条件、
赦しを自ら望み受け入れるということさえできたなら、

それらはすべて私のものだから。



だから私はそうやって痛みや苦しみの果てに絶望に辿り着く道じゃなくて、癒しや慰めがあって幸福を自らに与えられるような可能性こそを選ぶよ。

それがもうこれ以上自分を傷付けることになる選択を許さない理由。


……これまで私が犠牲と信じたすべてに相応しい報いを与える唯一の術だから。






今さらだけど、私の見てたり生きてきた世界観て随分とドラマチックだよね(笑)
そんな私はもはや何かの物語の登場人物くらいに思っておいた方がよほどやりやすいと感じられるし、だからこそ唯一無二の道を受け入れるノンデュアリティも私にとっては救いや安心できる物になるんだろうなって。



だからきっとこれは、
過ぎ去って完成してみれば楽しい思い出となるに違いないんだろうね。


……その可能性を既に知るならその喜びを後回しにする必要もないでしょ。

それが私という人間が赦しを喜んで受け入れる理由と価値なんだね。これはもう全く意味不明なんかじゃない、何よりも明確で何よりも信頼できる証拠そのものなんだよ。