このやり方でしか叶えられないと気付く時、誰しもがそれを受け入れる~GOD is がわかり始める時 | 本当の自分=最高の可能性と真の世界の可能性を求めて悟りや赦しやノンデュアリティを求め受け入れてゆく自称聖者な私のブログ

本当の自分=最高の可能性と真の世界の可能性を求めて悟りや赦しやノンデュアリティを求め受け入れてゆく自称聖者な私のブログ

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったもの。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意です★

はい。


そんな感じで、
現在の私は6年ぶりくらいに奇跡のコースの実践状態に戻っているのでした。


たぶんもう6年前のこのブログを知っている人は居ない……というかそもそも連続して呼んでくれてる人が居たのかもわからないですからね。
何しろあの時期はホラ……完全に降伏して降参して燃え尽きて灰になってから生き直すとかそんなタイミングなわけで(*ノ・∀・`)


そんなのヒトサマに見せるようなもんじゃないというか、
見ても全く楽しくなかったと思います。

そういう意味では、
今の私が書いてるコレというのは実は想像以上に一貫性があったりブレない意図があったりするので十分に理解も共感も起こり得る程度の練度があるのです既に。

だって理解可能なことだから。
……ひたすらどこにも行き着かないエゴの思考を垂れ流しにして行き着かないままに1つや2つ3つの記事が決着する(?)というようなことがザラだった時代に比べたら、


今の私のブログはよほど知性的でスピリチュアリティの実践の形の1つとしてわかりやすいものだと思います。なぜなら書き手でもある私自身が本当は何をしているのかを完全には忘れなくなっているから👌✨

6年前はそうじゃなかった。
望まずとも死に損なってしまった自分を生かすことだけで手一杯だったのです。

他のことなんてほとんど何も考えられるわけないのです。
何て言うかスピリチュアル的じゃない表現をするならPTSD患者みたいな状態だったと思うのですよ私は。


自分の信じた、守りたかったはずの可能性が1つ1つ自らの過ちや裏切りによって崩れさってゆく人生状況を眺め続けさせられるというのは耐え難い恐怖と苦痛だったのです。
あれを絶望感と呼ぶのでしょう。

もちろんその際にも内なる灯火は無くならなかったのですが。
たぶんそれがあったから私は一応精神崩壊せずに人格を保っていられるのでしょう内なる灯火が無かったら廃人だったと思うのですね👻

これぞ神聖性の加護ってやつですね☆



あ~、うん、そうですね。
たぶんそういうことです💡

以後はその“ここで生きるかここで死ぬか”みたいな記憶として認識されてる時期の記憶のことは、
この人生でのスピリチュアリティの実践における不可避のPTSD的な記憶でありその中身とは神の教師としての基礎となる信頼を一定レベルで獲得するための極めて困難なプロセスがあった…………


というような扱いになると思います。


前回(だっけ?)の記事にも書いたように、


この先には連れていけないリアリティー

だからですね☆


飽くまで“反証的素材”として出てくることはあったとしても、その当時に感じていた恐れや苦痛や絶望失望破滅願望な狂気的なものそれ自体は以後は出てこなくなると思われるのですよ。
“使用不可”になるという感じ。


まぁそれも本当にPTSD的に記憶に蘇ってくる度に何度も思い出したりしては噛み締め味わい尽くしたのでさすがに味わいも薄れてきたということかもしれません(笑)




✝️死に損なった者への祈り✝️

非実在が本当に非実在だというのなら、
あらゆる苦しみや非実在性であるリアリティーのすべてはやがて消え去るに違いない……。

ならば私はその可能性にのみ期待して生きることを受け入れよう。なぜならそれこそが死に損なってしまった私に残された唯一の救いや希望であると共に生きる理由であるに違いないのだから。


いいだろう、私のすべてを神聖性とか聖霊とやらに使わせてやろうじゃないか。もし本当に私のこの苦しみから救い出してくれるならそれくらい安いものだ。

っていう神聖性への祈りとか取引が成立したみたいな感じ。
私個人としてはそれのことを奇跡と認識しているのかもしれない。
そのくらい完全に手詰まりでお手上げだったんだよ。だから私は知っている。私が自らの力で全身全霊を尽くすよりも聖霊に委ねた方がはるかに多くの可能性を持ち得ると。





だからきっとこれでも私は償いや贖罪のために生きてきたのでしょうね。

恐らくこのブログもその1つだったに違いないのです。だからこれは祈りの場であり心の聖域だったのです。
もし同じほどの苦しみを味わった誰かがこの場に辿り着いた時にそのようにして救われることができるのだと可能性を示したかったのでしょう。

そう、だからこれは、
過ちの償いのための場であり贖罪そのものでもあるのです。

罪深いと信じた私がそれでも唯一失わずに持ち得ると思えた神聖性とはそのようなものだけだったから。
だから私は自らのために喜んで赦しや救いという物を願い望み受け入れるのです。

何しろコレはもう一度死んだような状態の後でも不思議と生かされてる余生のようなものでもあるのでしょうから(*´ Δ`* )🍵
そんな私には色々と世界は違って見えるのかもしれませんね。




そういう意味では私のエゴであるものはそうなる前の状態の物とは既にかなり違っているのでしょうね。
……面白い反応を見せてくれるわけです(笑)



まぁそんな感じで実はたぶんその時から私の全存在は聖霊の道具なんですね。

私は長らく過去のもう既に消え去ってしまった悪夢の記憶をフラッシュバックし続けていただけのスピリチュアルなPTSDの患者に過ぎなかったということにようやく気付いた!!

たぶんそんな気分なのです今は(゜Δ ゜)


だからもし同じほどの完全な救いを求めるようになった誰かが私の辿った道の後……軌跡に辿り着いたのなら同じように救われた方がいいと思っているのですよ。

たぶんコレはそういう物です。
強いて言うのなら本当にそういう者にだけは神の聖性による赦しと救いを受け入れることによって完全に救われ復活して有り得た本当の自分を取り戻して欲しいと思うから。


……それ以外の者には別に奇跡のコース的なものを特別に強く進めたりしないと思います。だってあれは何度でも明言したいけど、

永遠の個としての輪廻転生の中でやがていつしか必ず取り組むことになる神へ戻る道


だから、
別に今生やらなくていいと思うから(笑)


もちろん仲間は歓迎するけど、
……少なくとも私という人間の場合はそうまででもしないと選べない究極的な可能性だったんじゃないかと思うからなぁ。

(それは不可避のエゴの性質による必ず真逆になる表現や意識ってやつなのかもしれないけれど)


別にあなたには、
奇跡のコースとか究極的な実践、
必要ないんじゃないかな?



……ってようなことを語りたい気がするんだよなぁ私は(*´ Δ`* )💖
なんだろうね。それが正解って感じるんだよ私という存在にとってのこの件に関する使い方とか答えとしては、ね☆

このタイトルも同じことだと思うの。
別にあなたには、
神の教師として生きることって、
必要ないんじゃないかな?



って感じの表現が正解と感じるんだよ。
(いや内心では個人的な私がどう思っているかは別だとしてもね?)

わかる者ならわかってくれるでしょう?
私は無理をしてわかって欲しくないの。
それは絶対に違うから。


私はそれを超自然で当然のこととしてわかってほしいんだから☆



だから私はきっと必ず語るんだよ。


それは確かにこの上なく素晴らしいものなのかもしれないけれどでもそれは本当にあなたという存在にとっての唯一の真実であり正解なのかしら???

あなたが真にスピリチュアリティの実践者であるというのならこの言葉の意味がわかりますね?


っていうくらいに、
釘を刺して釘を刺して釘を刺すくらいの確認をするのが私は結構好きだから。

具体的には最低3回だね。
それにコレは割と伝統的な法則性とされる物の1つでもある誰何の法則に沿ったものかもしれないし。

非二元領域にまで踏み込む必要のない精神世界の住人にはテキメンに効くんだと思うの★


違うよ嫌がらせとか皮肉じゃないよ?
好きな人間にはちょお~っとだけイジワルしたくなる気持ちみたいなアレだよ😁💖


そして私は各層……波動領域やリアリティーごとに応じて意味が成立し通用する言葉や表現をよく心得ていると思うから👍️✨
私の密かなスピリチュアル的能力やセンスである次元変換能力(仮)みたいなやつなのかと。

その各層の全部を認識できる人にはかなり面白い聞こえかたとか感覚がするんじゃないかな。
それこそスピリチュアルジョークと嫌味と皮肉を同時に喋ってる多重音声みたいなね(笑)


誰何の法則は精神世界領域の認識をする存在には意味と強制力を成すけどスピリット的には全く意味ない確認だろうから。


ぜひ私の存在感の面白さや色を共感してもらえたら私としてもすごく嬉しいよ🌸
ハイアーセルフな自分とかはあらゆるすべてを楽しんでるってことだね☆



もしかしたら、
エゴの必ず真逆の表現や認識をすることになる状態=時間の中でまだあんまり進歩してない神の教師として果たせる神聖さの表現や自己の使い方というのは
本当にそういうものなのかもしれないなって気付き始めてる気がする(*´ Δ`* )💖



だって私のエゴは必ず超よそよそしかったり無駄に攻撃的だったり悪意的で常にPTSDみたいになってるけど😂

また別の層では違った私がある。


そしてそのどれもを認識するというのは極めて負荷が大きく難しいし……つまりそれは聞き手である者も同じくらいの変換能力ってのがあるってことになるだろうから。

それは十分に稀有なことで既にチャネラーというかミーディアムとしての資質なんだと思うんだよ。

実際に私はチャネラーとしてはほぼ機能しないしさせるつもりもないけど💥

自己神託としてオラクルはできるから。
だから変換能力は十分にあるんだよ。




その上で、
すべての領域に対応させるというのは非現実的だと思うの。

実際にそれをやると文節ごとに波動がズレてたり異なってたりして非常~に波動的に読みにくい理解しにくいことこの上なしな表現になっちゃうだろうから。


……まぁそれを好き好んでやってるのが私なんだと思ってるんだけどね!!😆



だって楽しいじゃない。
自分の持って生まれた力なんだからなるべくそれを有意義に、
特にそれが自分の役割なのだとしたら楽しんで取り組まないと
そんなの拷問でしかない
でしょう?



私はもうそういうのは要らない。
もうそれは学びにもならないしだから確実に楽しくないし極めて無価値なやり方だから。






そうだねぇ、
強いて言うなら、

そういうより多くの層に対応できる自分ってのは楽しいと思うよ✨


っていうことは示したいのかもしれない。
なぜなら苦痛じゃなくて楽しいから!

理由なんてそんなのでいいんだよ。
だって私は飽きて瞬時に投げ棄てたくなる程度にはそういう悪夢的苦しみな体験をし終えてるから┐(´∀`)┌


エゴじゃなくて聖霊を選ぶってあんまりやたらにスピリチュアリティの実践ぽく語らなければそういう物だと思うよ😃☀️




たぶん今の私は……


別に私自身が非実在を選んでたりもう既にそんなものがあると信じてるはいないけど、

見た目にはそういう意思や表現を示してそれを見た自分や誰かが分離の幻想な罠に引っかかったり引っかからなかったりする様を感じたりして
二元性の面白さをもっと楽しみたいんだと思うの。


たぶんそういうことなんだよアレ↑↓は🙆


別にあなたには、
奇跡のコースとか究極的な実践、
必要ないんじゃないかな?


という領域にまで達した者(仮)には、


じゃあ
別にあなたには、
神の教師として生きることって(さすがに)、
必要ないんじゃないかな?


みたいなことを語り示すわけです。
“じゃあ”って最初にわざとらしく言っちゃう感じで(笑)


いやいやいや、
さすがに君でもそこまでの真摯なスピリチュアリティの実践は必要ないんじゃないの?



と私は語るのです。



……なんでかって?




…………………………なんでですかね???😃



神の教師 だから???
見極める係 だから???
それが自称マスターごっこ だから???


……どれもなんか違う気がするし、
たぶん今の私にはわからんです┐(´∀`)┌



でも私は確認したいのですよ。
その者の意思を本心を、スピリットを!!




……もしかしたらそれも神の教師の持ち得る聖なる属性みたいな物がエゴ的なリアリティーに歪められた状態でも名残として残っているものの表れなのかもしれません。

→同種として前回の記事で扱ったものの

エゴの一応の誠実さや愛


みたいな考え方と同じやつですね😃💡


たぶん残るんですよ。

実在性の名残みたいな物
非実在の幻想の中にあってさえ必ず。


……それが原型を留めているかどうかはわからないけどね?(*ノ・∀・`)


実在性ですからね。
私の知ってる説明としてはアレです、

たとえどれほどの悪夢で絶望で心が染まることがあったとしてもそれは99.9999999%が闇に覆われることであって完全に光であるものが消え去ることでは決してない。

みたいなやつ💡


なぜなら実在性が非実在性によって……真に存在しているものが存在していないなにかによって脅かされることは有り得ないから。


奇跡のコースの基礎であり土台であり根源でありそのものである

GOD is = 神在り

の説明の1つですね。

真に実在するもの=神だけが実在し、
存在しないものに脅かされることはない、
ここに平和=愛=救いがある



ある人が言ってました。
たったそれだけのことを説明するための解説書が奇跡のコースの分厚いテキスト
なのだと。


だから一度でも真に理解さえしてしまえばそれはたった3行のその説明をあらゆる角度から割とノリノリな表現で語られているということなのです。

真実というのはこの上なくシンプルなものだからこの世界を生きる人間にはすぐには理解できない(?)のですね(*ノ・∀・`)


ちなみにソレ自体は私の現段階でも既に十分に理解可能なことです🙆
実践を通して得た実感と目撃がそれを私に現実として理解させたからですね。






……私はきっと、内心思いました。

ようやく
神在り=GOD is 
の所まで話が進んで来た~!!

進むまでが長い、長いよこの話っ!!
進むのが遅い、遅いよこの話っ!!




一度この話さえできてしまえば、
後はもう超コンパクトに扱うことができるのですね☆

だって奇跡のコースの中身はたったあれだけのことを説明してるだけだから。

たとえそれが理解できないから死ぬほど難しく思えることがあったとしても理解さえできてしまえばそれだけのことなのですから☆

わぉ、イッツァミラクル!


って感じですよね。
そして超、気が楽になります(*´ Δ`* )🍵


だってわざわざアレ=奇跡のコースとして示されてる輪廻転生の果てにいつしか自ら選択することになる魂の宿題みたいなものやたら大げさに扱ったり長ったらしく説明したりする↑

というような時間的エネルギー的に負荷の大きいことをしなくてよくなるのですから!!


まさにこれを“時間を省く”と呼ばずに他に何と呼べというのでしょうか。


う~ん、ミラクルミラクル。




そして私はたぶん同じようなことを可能とする
時間(とエネルギー)を省く

ために、
自らの必要とした概念である物を1つ1つ構築してそれを骨組みやパーツとして更に大きな概念を組み立てていくというようなこと、

もっと具体的には、


私が自ら造語を作ってそれを喜んで使っている理由はそういうものなのです。

時間とエネルギーを大きく省略するための
自分用ツールなのです。


それはもしかしたらプログラミング言語?みたいな物に近いのかもしれません。

感覚的にはまだ存在してないけど特定の意味や意図を表す概念というものがあったり、更にその概念を自由に組み換えたりして使いこなすことができたら画期的に楽になる!

みたいな感じのことなのです。
そして私には概念を構築するという才やセンスがあったように思うのですよ。その必要性をめちゃくちゃ強く感じるからですね(笑)

それをエゴな感覚で表現すると、



どうしてこの世界には“ソレ”というものが存在していないんだ!!
そんなの許せないし困る!!
だから私が自らのために作る!!


私にはマスタービルダーとしての高い資質は無かったのかもしれないけど
(思考回路が理系じゃないし目の前の物を見たり扱うのはかなり苦手なので🙅)


でもそれを非物質的な領域で行うというような内なるマスタービルダー(?)みたいな才能はあったんじゃないかと。


実際に私は(元パートナーの影響によって獲得され開花したらしい)製作的なことを生業の1つにしているのですが、
しかしながら実際に“モノづくり”と呼ばれるような能力は非常に乏しく思うのです……😂


より具体的には採寸したり計算したり正確に緻密に目の前の道具や素材を扱うというような仕事や作業のことですね。


……苦手というか、
そもそも基本的に
目の前のモノ=対象物がまともに見えている気がしないというような感覚であることが多いし
実際にかなり眼が悪いのですよ┐(´∀`)┌



なんかこう、

とにかく見えない!!

みたいな感覚が基本状態とでも言えばいいんですかね。


なので私が何かを作る時に頼りになるのは根性や執念によって鍛え上げたセンス(仮)と波動的なやり方くらいの物なのです。

そういう意味で私はそもそも
“この世界的なもの”を見たり扱うことが全く得意ではないのですよ。


上手く見えないから!!


そういう意味で言うなら、
たぶん精神世界でもスピリチュアリティで形而上学的なものでも非物質領域のものの方が馴染みがあったり認識しやすいんだと思います。

目の前の物質的な世界があんまり見えてないから
必然としてそっちが見えやすくなるように思うのですよ。だってそっちは視力なくても見えるからね(笑)



それもあってのことなんですかね、

“形を見ない”

というような形而上学的な考え方というのは私にとっては無理のない感覚なのです。
何しろ肉体の眼であるものがあまりあてにならないのですから普通にそっちを頼った方がいいんじゃないかと思うのですよ┐(´∀`)┌


それもプラスもマイナスもあるようなある種のスピリチュアル的な才能ってやつなのかもしれません。


だって実際に、目の前の世界が視力的に見えようと見えなかろうと波動的体感的なリアリティーってのはほぼ関係ないように思うし、


本当に見る


ことができなければ、
たとえ視力を増強(?)しても、
やっぱり“見えない”という感覚自体が無くなることは無いように思うから。




それに、ちょっと思うし。

“実相世界”においては私の眼は完全に視力や視角的な意味においても見えるようになるんじゃないかなって。

この“常に見えない不快さ”みたいな物が本当に取り除けるというのなら喜んで真に見るということを選びたいとも感じるわけですよ。

他の人間がどうなのかはわからないけど私自身はかなりの頻度で“見えない”というようなことを感じているのもあってか、

肉体の眼で見るのを止めて聖なるビジョンという物を選ぶのは私の立場としては決してやぶさかではないというか(笑)


形がよく見える

という人間はそれが本物ではないと理解することは難しいのかもしれません。
それは肉眼で物質的なものを見るという意味だけじゃなく
霊能力で霊的存在=形を見るというのも本質としては全く同じことだと思うのです👁️



だから“どっちもよく見えない私”というのはある意味ではとても形而上のものを見るのには都合の良い視覚をしている……そういう生まれながらだったり肉体的なセンスを持っているということなんじゃないかと感じたりもしているのです👌✨

きっとこれも“眼が悪い”という要素をエゴの目的ではなく聖霊の目的のために実在性に相応しい意味を与えて見ることを選択するということなんじゃないかと思うのです。



あまりにも目の前の形の世界が見えないのなら形を越えた実相世界というものを見ればいいじゃない!!


みたいな感じですね。
私のたまに使う


◯◯ができないなら
☆☆すればいいじゃない!!


のやつですね(笑)
元ネタはなんでしょうね?
お菓子とかケーキの人ではないと思うけど。


だって実際そう思うもん。

無い物ねだりは地獄の秘訣


有りもしない可能性に期待することは必ず失望する未来を約束する

→→非実在を選択することは虚無を掴みに行くことで喪失を得る(?)という地獄の選択



私は既にそのことが本当だと理解できる程度にはあらゆるこれと信じた偶像に手を伸ばして掴み損ねては失敗したり十分以上に痛い目を見てるわけですから!!😆💥

私だって(霊的に)若い頃の苦労は買ってでもしたわけですニヤリ

おかげで無事に自我が昇天できました✝️
本当にありがとうございました!!
(もちろん超皮肉)




これで話は終わりですかね?
じゃあ後は好きにしていいですかね?😃✨


(恐らく聖霊からの固有のお導きとして)

マギレコのとあるイベントストーリーを今朝方に見たのですね。
(なんか最近ちゃんと朝方に目が覚めたり朝型に寝ても午前中に目が覚める人生になったっぽいのですよ……これも聖霊のお導きというやつなのでしょうか?)

その中でこれぞという言葉がこれでした。


マギアレコード イベント
ピュエラヒストリア ヴィークのワルキューレ遍 
より

(去年開催されたやつ。全然興味なくてほぼ見てなかったけどこのタイミングで初めて見たり使われるとは。)
オルガ(左の子)がヴァルキリーなデザインの服装とか装備してる理由がようやくわかりました。


……そうなのよね。
私はそれが知りたい。

それに“この世界”と信じたものが消え去るってんなら私は死ぬ必要は無い。

エゴ=この世界が告げる

目覚めた者にこの世界での居場所は無いのだから死ね。


という言葉は、
確かにそれを真逆……上手く反転させて正しく解釈してやるなら、

一度偽りの自己像をすべて捨てて=
死んで生まれ変わり復活して真の世界と自己を生きなさい



という意味だったのだとしたら、
全く間違ってないとも言える👍️✨

これこそ詭弁てやつかもしれない(笑)
でもあらゆる非実在性の証だった物も聖なる幻想として再利用したり本当の意味を知ることができるってんならさ、

そっちの方が断然いいと思わない?
かつて呪い嘆き憎んだすべてであるものがそれだけじゃなくて反対側の喜び感謝し笑えてしまうような聖なる幻想として復活するってんなら、

それ以上に面白くて満足度の高い人生って他にないと思うの。

だってどうせなら“すべて”欲しいでしょ?
ただ非実在を幻として捨て去ってしまうなんてもったいないし無価値のものなんてないんだよって教えてもらえた方がよっぽど幸せな体験になると思うの。


永遠の輪廻転生の果てにやがて選ぶことになる究極の選択(仮)なんだからそれくらいの見返りや報酬が有るのは当然のことだと私は思うんだよ😁✨



だからもう私が自らの神聖性とか聖なる流れや力や実在の神というものを拒むことは絶対に有り得ないんだってわかる。

だってそれを望んだからこそ私は再起したわけで、そしてそうなる前から自分という存在と経験のあらゆる本当の意味や価値を知ることを望んで生きていたと知ってるから。


もう満場一致なんだね!



だからそう……今の私は全く奇跡のコースとか神の教師として生きることを勧めたりはしないしむしろ逆のひたすら試すようなことばかりを語り示すだろうけど、

そのことを理解したら誰しもが喜んでそっちを選ぶようになることはわかってるんだよ。

それこそがまさに実在性の光であり神の奇跡って呼ぶに相応しいからね。


じゃあ来世頑張ればいいんじゃないの?

とか、

でも君は違うよね???

とか、



二元性の罠(イリュージョン)を展開して時には自分や誰かを惑わしたり確認したりして極性を心から楽しみたいんだよ今の私は(笑)


だって今の私はまだまだ時間の中で進歩した神の教師じゃないんだから進歩してゆくためには自らの必要と信じた意思を試し見極め成長していかなくてはならないから。

そしてそれが最短ルートであり、
そして必然なんだよ。


そしてその一見して邪心に満ちた私のエゴな欲望だって聖霊の、どちらかと言えば神の計画の中では最も素晴らしい形で組み込んで使わせてもらえるってんだから、

これはある意味で自らの神聖さではなく邪悪さを信じる者にとっては非常に理解しやすい可能性や考え方でもあるんだよ。

だから実は“フツー”の人間よりも聖邪に意識が傾いてる者の方がよほどその資質が高いと言える。
私はそう思っているよ(笑)


だから私みたいなそのどちらもに魅了されてる者は間違いなくその選択をするとわかるんだよ。

強いて言うなら“それ以外に思える人間”に対しては無条件に神聖性の意思を試すようなことをしたくなっちゃうのはそういう理由だったり私のマスター性としての個性や趣味嗜好レベルのことかもしれないなって思います。


だって楽しいでしょう?


本質的な私はあらゆる意味で楽しければそれでいいと思ってるんだろうなって思うよ。

それはエゴな領域では邪悪さでも、
スピリットな実在性の領域においては必ず神聖さであり祝福となる意思なんだよ。


そうそう、
やっぱり私はそのすべてを知っているようなものとそういうリアリティーを楽しみたいと望んでるんだろうなぁって。

だからきっと確認しちゃうんだね、



あなたは私が願い望む楽しく祝福に満ちた世界を共に生きられるお人ですか?
って。




まだ神の教師として未熟で若いからついそういうことしちゃうんだと思うよ┐(´∀`)┌
完全には間違ってないんだけどね。

もっと上手いやり方はいくらでもあるんだろうけどそれができるようになるのはまだまだ先の話なんだよ🌠



私は個人の欲望や願いのレベルにおいては何一つ諦める気がない……だからそういう使い方をさせてもらってるという感じなんだね。そしてそれが可能なんだよ聖霊に神の子としての自分を見させてもらうってやり方なら

実質的にエゴな欲望も満たされるというような体験ができるんだよ。



たぶんそれはこのやり方でしか叶えられないのだと気付く時、誰しもが喜んでほぼ無条件にそれを受け入れるようになるんだよ。

真に神聖なものはそういうものなんだね。




そして私も回を重ね経験を積み重ねるほどにこんな長~いプロセスや思考を辿らなくてもそういう感覚や理解が自然になる。
それこそが時間の中での進歩だし今の時間の中での私は何よりそれが欲しいんだよ。

そのすべては満たされ叶えられているということなんだね。

もはや言うこともない。
それで終わり☆




つまりコレ、

極性を楽しむってことだよ。


かつては憎しみであり呪いと絶望の源でしかなかったエゴの世界の産物も、
真なる意識と世界(実相世界?)においてはあらゆるすべてが神の愛であり祝福の表現に変わるのです。


このときに初めて!!

あらゆるネガティビティを恐れずに楽しんで遊ぶことができるようになる。

なぜなら非実在は消え去り、
聖なるネガティビティとして復活した神聖な幻は恐れることなくイリュージョンの1つとして扱うことができるから。


そしてその者の奇異な様はまだ二元性の世界にあって非実在をイリュージョンではなくリアルな物と信じている兄弟たちにもわずかばかりの実在性の光を感じさせるもの(啓示って言うんだっけ?)にも成り得る。

それは未熟ながらも実相世界に触れてあらゆる悪夢が過ぎ去ったことを一度でも目撃したことがある少し先を行く兄弟からの贈り物になる

というような感じだと思うの😃✨


だから確か啓示を示す?分かち合う?ということは比較的簡単なこととしてテキストの中で説明されてた気がするんだよ💡
(そろそろテキスト読み直せそうな気もしてきてる。)




今回は以上です🌠