たぶん私はこれまでにも前回のような質の記事や表現という物を月に一回くらいは行ってきてるんだと思う。
記憶にある物としては恐らく前回のやつがこれだったんじゃないかと、そう感じてる。
たぶん今の私が“こういう記事”と呼んでいるそのような私の表現や体感というのは1つの大きな区切りになっているんだと思う。
そしてそう、
だから“こういう記事”である前回の記事を書き終えた私はやっぱり同じようなこと……きっとこういう深い闇の側面の自己受容を果たした時に大きく意識がシフトするんだろうなということを感じたのです。
そんな感じで私は思うようになりました。
過去の私の罪深さと信じたものはもう許されていいのだろうし、だから私は自分のことを許そうと思う。
きっとそういう時期を迎えたのだろうし、
奇跡のコース的な実践においてもこの先にそのようなものは1つも持ち込めないから、
すべて、
ここに、
置いていく必要がある。
そのことに気付いてるのでしょうね。
あとそれと同じような物として、
エゴの思考体系だったり、
それを選ぶことによって必ず幻を掴み損ね失望し喪失を味わうことになるはずだった虚無性の形あるすべて……
それらエゴの道具や証拠だったはずの物も聖霊の道具として使わせてもらうことで何のペナルティも無く自分の願いや喜びを体験することができるのだとわかったのです!
それこそが私の表現で言う聖なる幻想とか神聖魔術と呼んでいたものの中身だったのだとわかりました。
それは確かコースの中では聖霊の幻想というような名前で示されていたというようなことも程なくして私は思い出したのです💡
だから、
もうエゴであり幻想である自分を絶対に認めずに根絶やしにして消滅させようとしなくていいのですね(笑)
もうその必要は無くなったのです。
エゴの虚無性や分離の幻想の証拠として生まれ存在していた自己に絶望する必要は無いのです。
そのことも確かコースの中で示されていたような記憶があるのですが、たぶん私が理解できたり実感できたのは初めてなのでしょう。
肉体を持つ人間としての自己イメージ……
それは分離の何よりの証明であり、
神聖さを由来とするものではないのは確かだけれど、
しかしそれは本来意味を持たない“無”と呼べるような物だから、
それをエゴの道具として使うか、
それを聖霊の道具として使うか、
どちらの主に奉仕させる道具とするかによって人間としての自分や肉体が神聖な物であるか虚無で無価値な物であるかを自ら選択することができる。
みたいな言葉で語られていたように思います。
肉体こそが分離の証拠でありそのような意味において肉体とは闇の祭壇のようなもので
この世界においてただ1つ例外として肉体の中に閉じ込められた神の子にだけは神の愛と光が届かないようになっている
みたいな話があったと思うのですよ。
そこら辺の細かい正確な表現とかはあまり覚えてないのですが(*ノ・∀・`)
あらゆる分離の幻想は本来意味を成さないものでだからそれ自体には善も悪も聖も邪も持たないものだからこそ、
エゴに使わせるか聖霊に使わせるかで人間としての自己を虚無で狂気さの器とするか神の器として愛の表現のために使うかを自らが選択する必要がある。
っていう意味の話だったと思うのです。
また言うけど、
私がその言葉の意味が理解できたのはつい昨日くらいのことなのですね(笑)
リアルタイムでその言葉に触れていたのは一度だけ頑張ってコースのテキストを一通り読んだ6年前なのですが。
だから私は↑のような言葉の意味が理解できてすごく嬉しかったり安心したのだと思うのですよ(*´ Δ`* )
だって聖霊に自分のすべてを扱わせることができたなら、
これまでは分離の幻想であり虚無を選ぶから必ず喪失で絶望にしか行き着かなかったはずの選択が、
喪失や絶望や失望に行き着かない、
そればかりか神の子たる自分に相応しい神がそうであるようにと意図したとされる愛とか祝福とか喜びとか、
そういう神の王国の財(この表現あんまり良く知らない)のすべてを受け取ることができるのだとわかったから!!!
こんなの喜ばないわけないのですよ(笑)
だからそれを理解できてしまった私は、
もう自分に絶望する必要は無いのです。
それは必要ないことだとわかったから。
それは全く不必要で、そしておよそ有り得ない可能性だと知ったから。
そんな非実在を理解した私とそれを理解する前の私が同じものではいられないのです。
だからここから先にはそれを連れていくことはできないのだし、
別の表現をするなら、
もうそんなものは存在してないので
私はそれを真に受けることが非常に難しくなったと感じているのです👻
(ほぼ不可能という感覚)
実際アレですし。
“非実在”らしいものを私がそうと知らずに
見る=選ぼうとすると、
なんかこう、
停止することになるのです。
たぶんそれが“無”を見てる=存在してると信じて頑張って選ぼうとしている(?)感覚だったのでしょうね(笑)
そしてそれ自体は、
私にとっては非常~~~に馴染み深かったり付き合いの長いものだとわかるのですよ。
私はこの人生の中で時に自ら望んで、時に全く望まないながらにその感覚を味わうことが何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もあったので。
本当に私にとってはそのくらい身近な感覚だったのですよ。恐らく非実在を選ぼうとしている時の感覚というものが。
……非実在ですからね。
選べるわけないんですよ。
存在してないから!!
だからできるのは、
“選ぼうとする”
ことだけなのです!!💥😆
……それが選べるってんなら義理として付き合ってやることは私個人の感覚として決して嫌なことじゃない。
私はこう見えて割と義理堅い方だから。
情やしがらみは無視するけどね?
でも存在しないから不可能って理解してしまった以上はそんなもの選べるわけないじゃないですか!!😂
いやだって存在してないし!!!!
だから自己断罪の儀式は終わりです(笑)
実際、密かに続けてるワークブックの方で出てくるレッスンでもそういう選択を続けながらレッスンに真剣に取り組むことはできないと感じるようになってきたし。
それにもうそれは終わったのです。
具体的には前回の記事によってエゴの追悼式は既に終わっているのです✝️
だからいまさら┐(´∀`)┌
もう既に終わってるんだし😃
そして私は、理解したのです。
私はきっと神の教師たちの中にあっても十分以上に異彩なんだろうな。
地上の人々の世の中でも、
スピリチュアルピーポーの中でも、
神の教師たちの中でも、
十分以上に変わってるんだろうなって。
だって、たぶん、
エゴの追悼式とかそういう言葉や概念を好んで使ったり必要とする人間ってほとんど私くらいなものだと思うから(笑)
私にはそれらの言葉を好んで使ったり実際には必要とする理由ってのがあるんだよ。
私が作る作品も同じこと。
私という人間にはあのような作品だったりそれを構築するための更にいくつもの独特な言葉や概念てのが必要だったんだよ。
そういう意味で私と同じような表現や作品をつくる者はほとんど居ないって思う理由は極めて単純なもので、
だってあなたは
そのような概念を
必要としていない。
そうでしょう???
私と同じ表現をするということは、
私と同じ作品を生み出すということは、
私が認識して見て実感しているそれらいくつもの概念を必要とするということなんだよ。
エゴの追悼式も
浄練の炎も
至高の一角も
エリシアンワールドプロジェクトも
聖炎の柱ヒーリングも
ディバインクリスタライズプロジェクトも
ディバインマジックも
魂の牢獄も
天と地を貫く者も
それらの概念をすべて必要としたから、
私は今のような私の質で存在してる。
それを必要としないのだとしたら、
私が見てるものとは違うんだよ、全く。
私には必要だった。
それが私が独自の概念を構築して独自の道であろうものを願い開拓していく理由なんだよ。
必要だったんだよそのすべてが。
エゴの追悼式なんてのは、
最初は全く言うことを聞かなくて恨み憎み呪ってばかりだったエゴちゃんでも、何度か死んだり消えたりして再び戻ってくる中で少しずつ自分の中でその性質を変えるようになってやっぱり狂ってるままなのは変わらないんだけど一応の整合性や神聖さを理解し始めているとさえ感じられるような面白さを感じさせてくれる相棒みたいな存在になってしまって今では割と悪く思ってなかったりむしろ感謝してたりするから、
だからこその追悼式なんだよ。
だからその言葉を使う人間てのは同じようなものを認識してるような者なんだよ。
変な表現かもしれないけどさ?
でも、
そもそも私が好んで使う言葉や概念で変じゃないものなんて無かったのかもしれない
じゃん?(*ノ・∀・`)
これはもしかしたら、
私はあなたとは違う!!
っていうような、
まさにエゴのエゴたる主張そのものなのかもしれないけど(笑)
たぶんソレが本当の意味で可能になるのはこの時期段階に入ってからなんだよ🍀
だってきっと私はそのようなエゴを炸裂させるような表現をしていたとしても、
実際にはそれを聖霊の目的のために、古くは神聖さのためにずっと使ってきたんだから。
今の私にはそれがわかるんだよ。
たとえ一見して誰かを傷つけることがあるように見えたり実際にそうだったとしても、
より大きな視点……霊性の視点から見ればそれらは全く異なる意図で選択されているという可能性に気付けるようになる。
肉体の眼で見えるものを見過ごして、
聖なる(キリストの??)ビジョンを選ぶ
私はそういう時期を迎えているのだと気付いているから。
だからもう、
実際にそう見えるもの
というものもこの先には連れていけない。
正確にはそれらすべても聖霊に捧げ完全に正しく使わせてもらうこと無しにその先を体験することはできないとわかる。
だから私は自らが握り締めたままの形ある世界への執着や思いのすべてを置いていく。
それが必要で必然だから。
だから私はここで初めて、
絶対に認めたくないと固く握り締めていたあらゆる想いを手放せるようになるのだし、
それら失いたくないと握り締めていた想いを手放すからこそ真にそれらを必要である限り完全に自分の聖なる権利として受け取ることができるようになるんだよ。
手放すことで受け取り保つこと。
それもまた神の教師の資質の中で語られていたものの1つだったと私は認識してる。
実際に私はこの場ではそのような特定の言葉で表現したり扱うことはほとんど無かったけれど教師のためのマニュアルの神の教師の資質のことを忘れたことは無い。
なぜならそれこそが人間としてこの生涯の中で熟達を目指し獲得すべき神聖さのおよそすべてだと言える物だと感じているから。
だから以後の私はそれを忘れたことは無いんだよ。
文字通り教師のためのマニュアルの中で示された進歩した神の教師像というものは私にとっての生きる道となっていたんだよ。
私はこれ以上不必要な非実在性を握り締めていることを望んでいない。
だからすべてここに置いていく。
……そしてそれは時期段階ごとに私が何度も何度も何度も何度も何度も繰り返してきたことだから別に特別な儀式でもない。
ただたったの一度だけ、
そのようなものは神の子たるわたしには相応しくないのだし存在していたことも無いのだと知るために、
あらゆるエゴ的なリアリティーであるものを晒して置き去っていくんだよ。
それが真なる解放のために本来は不当で有り得ないはずの罪業性を自らに積極的に認め受け入れるような選択をすることの理由。
強いて言うなら、
私はそれこそ最も価値あり役に立つ叡知として差し出すことを望んでいるんだと思う。
だから私はそのような表現をこのブログで非公開にせずに続けてきたんだよ👌✨
そう、
実際には私は自分に差し出せる最も価値あると信じられる物を示していたに過ぎない。
……実際にはそのほとんどが狂気と混乱に満ちていて必死だったけど😂
でもそれは眼で見える形の話★
だから私はこうして自分で文字を入力して自動書記のように書かれてゆくものを眺めている時と、
それらがすべて書き上がってから再び見直す時にはかなり違うことを思ってたり感じていたりする。
それはもう時を待たずとも全体像が理解できるようになった段階で一連の流れとしての話として見るのと、
まだまだ話の流れや意図もわからないままに体感し書き進められてゆくものを眺める心境
が同じであるわけがない
というようなことなんだよ🌠
そう、もしかしたら、
私はようやく
私はすごい!!
というような考えを認めたい気分になってきたのかもしれない(笑)
そしてたぶんそれは神の子的なリアリティーを選ぶための必要であり必然なんだと思う。
……つまり私は、
神の子的な完全無欠で無垢なままの自己になるまでは
絶対に自分のことを真には認めず祝福せず愛さない人間だった!!
それは私には不可能だった。
なぜならそれこそが神の教師たる資質と呼べるものだから。
……ってことだったんじゃないかなって、
そう感じてる。
かつて私が“神なる正義”とか呼んだものってそういうことだったんじゃないかな。
あの言葉が示すように↓
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240506/13/st-lettuce/a8/d7/j/o0810108015435152013.jpg?caw=800)
たぶん本当に、
神に受け入れられないものは神の教師にも受け入れることはできないってことなんじゃないかと思うんだよ。
実際私はその言葉や考えで非常に多くの疑問や謎だったものが解決する┐(´∀`)┌
それなら仕方ない。
それなら無理もない。
それなら超自然だね☆
って感じで。
そんな私が喜んで神の教師としての自分を受け入れるのは当然のこと。
だって本来そうであったはずの自分として目覚め受け入れることであらゆる違和感や不調和や問題は最初から存在しなかったように消し飛ぶんだから。
そしてそれこそが奇跡のコースの言うミラクルと同じなんだろうなって
(未だに正確に理解してないので)
だからきっと私は本来そうであったように神の教師たる自己意識に目覚めてそれを喜んで受け入れてそうやって生きることにしたんだと思うんだ。
そうすることで初めて本当の自分と世界であったものが取り戻されるだろうから。
強いて言うなら、
それこそが神のとしての私と神の約束のようなものだったのだろうと。
そういうことだったんだな~って。
だから私はそれ以前に見ていたすべてはここに置いていくよ。今までもそうしてきたように最初からそうであったように。
そうやって初めて形ある現実として開かれる願い望まれ続けた可能性があると私は知っているから喜んでそうするんだよ。
だから私が認識し理解する自分と世界のすべてを喜んで聖霊に差し出し真に神聖な自己として復活させてもらおうじゃないか。
そうして永遠に失われていた私と私の世界は真に蘇り復活する可能性を取り戻したのだった~
そう、私は思い出したんだよ。
(わざわざ許可をとらずに)
自分が認識する自分の世界に存在するすべての人間も例外なく聖霊の聖なる道具として使わせてもらうために勝手に全捧げするということをしていた過去があったことを!!
この私が、神の教師として目覚め神の子としてのリアリティーを選ぶってのはそういうことなんだよ。
つまり神の子としての自己を選択して悪夢から完全に救ってもらうってそういうことなんだよ。
おっと許可はとらないぜ?
なぜなら私が用があるのは目の前のお前ではなくて内なる神の子の兄弟だからな!!
最初から人間それ自体なんて相手にしてなかったんだね☆
……っていうこの感じが、
エゴの僕であったものを聖霊の道具として使わせてもらうってことなんだと思うよ。
そう、私の言う超皮肉みたいな温度感のことだね😁
見る者は見ればいいし、
見る気がないやつは永遠の時の果てまで悪夢に欺かれてればいいんだよ。
私のように!!
だって私こそが
そういう人間だったからね!!
その愚かな選択を私は許そうじゃないか。
自分を愛するようにのみ他者を愛せる
というのはそういうことだからね★
(超皮肉100%)
これを本気で思えるのが
私という人間の持ち味なんだろうなって😌
実際これはどっちにも受け取れるし、
私はどっちもかなり本気でそう思ってる節がある(*ノ・∀・`)
だからこその超皮肉なんだよ★
ただの嫌味なだけの皮肉じゃないんだね。
そう、私はこの領域においては超皮肉屋だったのである。
↕️
たぶんそれに対応するのが
スピリチュアルジョークってやつ。
そっちは皮肉って思ってなくて、
もう笑うしかないと思ってる😆
やめてよねそんなひどい勘違い、
……もう笑わせに来てるでしょ?
そう、私はちゃんと神の子的なリアリティーみたいなものに沿っているのである。
誰かを攻撃し断罪する時には自らも同時に攻撃され断罪されることを証明する。
だから私はちゃんと同時に自分も攻撃し断罪しているんだよ。
それこそが私(エゴ)の
一応の誠実さであり愛だから!
そう、私はとても誠実な人間なのです。
(その思考体系の中においては)
誰も救われない話でしょう?┐(´∀`)┌
だからそれは終わりが無く不毛なんだよ。
私はそういう反面教師としての神の教師たる役割を果たす術にも熟達しているんだよ。なぜなら未熟な神の教師ができることってそれくらいだからね。
私はひたすらそれを繰り返してマスターしたということなのかもしれないね(笑)
そんなことばっかりやってきた私だからもうなんかこの世界的な色々なことが超皮肉だってわかっちゃうんだよ。
そのことがよく理解できたら、
笑えばいいと思うよ。いやホントに。
悪い冗談だぜ……
強いて言うなら目覚めて
=聖霊の視点で見えるその世界観てのはかなりタチの悪い冗談そのものなんだよ。
そしてそうまでしてでも私は自分=他者を攻撃し断罪したいという誘惑を越えることはなかなかなかなかできなかったということなんだよ(*´ Δ`* )
わかったら本当に狂気なんだけどね。
……まぁ割と楽しいっちゃ楽しいし?(狂気)
心がヒリヒリする感覚とか止められねぇのかもしれねぇ。
っていう感じの、
私のこの一人劇場みたいな物が誰かの役に立つならそれは嬉しいことだね、
なぜならそれこそが今の私が引き受けている聖なるお仕事というやつだから。
これは自己神託であり
セルフオラクルであり
神の教師としての割と素晴らしい仕事……
反面教師的な自己像を使いながら、
でも究極的には実在性だからすべてわかった上で楽しく演じているだけだよ☆
というその紙一重な境界面を体現して見せるというギリギリのバランス感!!
これこそが
エゴを飼い慣らすということだ!!
飽くまで便宜的な表現だろうけどね(笑)
悪意的には詭弁に見えると思う、
たぶん👁️
でもさ、自分独自のユニークでオリジナルな聖なる道でのお仕事ってそういうことだと思うんだよ。
便宜だろうが詭弁だろうが聖霊の道具として使われるならどんな物だって必ず神聖さの証明になるんだよ。だってそれこそが非実在は存在せずに実在性のみが実在するってことなんだから。
それを示すには私という人材はこの上なく素晴らしい性質をしてると思う。
もちろん超皮肉込みで(笑)
“この世界”は狂気で悪意に満ちてるけど、
地上の天国は愛で光な神だけなんだよ。
私はそういう風に表現するね、
だって“この世界”超キライだろうから★
たぶんコレがそういうことなんだよ
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240506/13/st-lettuce/8a/4c/j/o0573108015435152048.jpg?caw=800)
別に私自身は神の教師たちの中にあって異彩を放つ存在じゃなくてもいいんだけど、
なんかね……自分の特に優れてる資質というものを正しく認められないと他の人間に対しても“そのくらいのこと”は当然できるはずだと求めることになってしまうらしい。
だって別にすごいわけじゃない自分にできることは誰にだってできるはずなんだから。
……それは、困るでしょ?
人それぞれの資質や得手不得手がある中でその人だけが自分の能力の高さを理解しておらずに当然のように同レベルを求めてくる人……
めちゃくちゃ困るでしょう?😂
でも多いでしょそういう人!!
(たぶん私も。)
そういう意味でも自分の鍛えられた能力や素晴らしさってのは正しく認めることは他の者を有りもしない可能性から解放することでもあるんだよ。
たぶん私はそのことをこの段階になって初めて理解できるようになったんだよ🌸
だって神の教師として高い資質を持つ私というのはつまり真逆の認識に反転する非実在のリアリティーの中では誰よりも無能に近くどうしようもないゴミみたいな自己像を認識することになってしまうから。
だから同じような人間はすべからく神の教師として立てばいいと私は思う。
それが世界のためになるだろうからね。
そんな感じで私は実在性の自分に戻って初めて理解できたり扱える可能性ってのがたぶんすごく多いんだろうなってわかったのでここからが私の人生の本番だってそう思ってたりするのかもしれない😃🌠
(超曖昧)
そろそろ地上の天国が見え始めるくらいの時期なのかもしれない。
かもしれない。
(超曖昧)