4月になりましたね~。
この地もすっかり春(夜中には気温がマイナスになったりするけど)めいてきてます😃☀️
さて、このブログの方はと言えば、
聖なる天上の光を持ち帰る~
というテーマが終わって、
次なる流れとか、
もっと具体的には
“次なるこのブログ上でのテーマ”
みたいな物が垣間見えているような気がしている状態だったりします。
ここ最近の記事、
特に最新の3つほど↓
このセイクレッドクリエイターオラクルがサムネになってる記事たち、
確かにそれらしく話の流れとか扱っている質が切り替わっているし、
いくつかのそれらしいキーワードであろう物も散見している状態だと思ってます🍀
例えば
想いの循環 とか
想いを循環させる という概念や言葉。
たぶんコレらはテーマ分類名に入っている言葉だと思うのですね👌✨
想いの循環 ですか。
それは私が無意識レベルでも強く封じていたような側面の一つなのでしょう。
元より私は確かに繊細な人間なので、
人の感情には敏感なのですが、
その
人の想いを正確に汲み取る
ということができるか?
という点に関しては、
かなり苦手だったように思います(*´ Δ`* )
というのも、
なんかこう一般的というか実際的な人間の想いって想像以上に複雑だったり真っ直ぐじゃなかったりするじゃないですか、
地上で何十年と人間やってきた者=仲間である私たちであればそれは当然のように実感していることだと思うのです💓
だからそう、
よく認識の食い違いが起きていたように思うのですね、少なくとも私の人生上では🍀
例えばそれは、
こんなことなんて言いたくないけど
でも仕方ないから私が言ってあげる
というような枕詞だったり(笑)
……若い頃の私は思ったものです。
いや、嫌なら言わないでくださいよ。
こっちだって頼んでないんだし。
って思ってたりしたものです┐(´∀`)┌
私は“問題児”とか“異端児”みたいな独特な空気感のある目立っちゃう系の人間らしいので
割と面倒見の良い人間
みたいな人に目を付けられるというか、
良くも悪くも(?)気にかけられたり度々注意されたりしたと感じてます⚡
その度に、
……なんか相手の見てるものと私が見てる物が根本的に違う気がするけど
それは一体なんなのだろうか???
って思ったり感じたりしたんですよ。
見てるものが違う
ってことなんだと今ならわかります。
そうですね、
私は感傷的な人間だったようにも思うし、
やっぱり先に相手の感情であるものが入ってくるわけですよ、
怒られたり叱られたりしてる時とか特に。
だから、
当然のように疑問に思うわけです。
なんかこの人思ってることと言ってることがズレてるっていうかちぐはぐな状態になってる……
嘘ついてるのか……??
とか、
対人恐怖症とか人間不信気味だったりした私は当然のようにそう感じるわけですよ🤔
しかし実際には人間てのは面倒なもんで、
思いやりとか怒りとかやるせなさとか
なんかそういう本人でも気付いてないであろう感覚や感情がすべてないまぜになったわかりにくい愛としてぶつけられている!!
というような表現が近いかと思います!
それもやっぱり、
ちょ~っとエンパシーな人間とかスピリチュアル系の資質ある者なら当然のように遭遇しては度々困惑したであろう
地上の洗礼みたいな物の一つじゃないかと私は思っているわけです😌
コレはわかる人多いと思うんよね。
いわゆる、
思ってること(感情)と考えてることが違った状態で話をされると、
コイツ何言ってんだ???
ってなる、
困惑とか疑念とか不自然さとかが混ざったようなあの気持ち悪い感覚とか!!
いわゆるアレですよね、
先に感情=ほぼエネルギーとか波動である物が先に伝わってきて本心はバレてるのに、
それを誤魔化したり取り繕ったりするかのように良さげだったり悪くなさそうなことを口走っている人間とかに対面すると、
……なんだコイツ信用ならねぇな?
とか条件反射的に思っちゃうのも、
やっぱりエンパス~スピリチュアル系あるあるだと思うのですよ。
そしてその感性が上がるほどに、
どうやら悪意は無いらしいのだが……
感覚と思考が矛盾しているから
エネルギー波動的にすごく面倒な人間!!
コイツをどう捌いていくのか?
感受性が一定レベルまで上がってしまったのにエネルギー波動的には鈍感だったり何もわかってないという意味で混沌とした人々に囲まれて生きる
という状態にある人は多いんだろうなって思うし、
私はもうほぼ世俗離れしてる引きこもりな隠者みたいな“社会”から弾き出されるように
既にドロップアウトした人間だから
好き放題言えるんでしょ?
あなたも同じ立場なら
そうはならないんじゃないの?
あなたの言葉はただの理想論で、
現実的じゃない。
って、
世の中でやってる多くのスピリチュアル民は思ってるんだろうな~って、
実際はどうか知らんけど
私自身はそう考えてらしいんだよ。
この私は元々かなり否定的な考え方で、
特に自己批判的な人間ですからね。
自罰的
と言った方が正しいかもしれません。
他者を裁くってのは越権行為かもしれないけれど、
じゃあ自分ならいくら断罪したって“誰か”に迷惑をかけるわけじゃないんだからいいよね?
みたいな思考の人間なのですよ。
たぶんそれも変質した“優しさ”ってやつなのでしょう。
他者を裁けない分だけ
自身を裁く。
堕ちた神聖性みたいなものってのは難儀なもんですよね💥┐(´∀`)┌💥
そしてコレ、
他者を裁かないで自分を裁くだけなら誰の迷惑にもならないからいくらやったっていいでしょう?
私が苦しんだからって他の誰かが苦しむわけじゃないんだからいいでしょう?
誰かの迷惑にならないなら何をしたっていいじゃない!!
どれだけ自分を雑に酷な扱い方をしたって自分のことなんだからいいじゃない!!
みたいな信念ってのは、
確かに、そう思えるんだけど、
いわゆる波動的エネルギー的には、
およそ最悪の悪業!!
っていう事実があるんですねぇ。。。
そういう意味で私は
愛のない人間。
だったわけですよ、確かに。
虚無さとか厭世感に囚われてる人間だからそうなるのも無理ないのですが(*ノ・∀・`)
そしてそうなると、
必ず波動的に反射されるわけで。
やがていつしか、
“誰か”を愛した……
愛そうとした時なんかに、
すんごい邪魔になる!!
ということに気付くわけです、
自己否定ってのは。
映し出されちゃうんですね、
愛の欠如した意識が、
愛そうとしてる“誰か”に。
そこで、気付くわけですよ。
確かに自己否定なら誰の迷惑にもならないんだから好きにやってもいいって考え方は間違ってないように見えるけど、
実際には愛とか思いやりに満ちた関係性を築こうとした際にこの上なく邪魔になる!!
それは結果的に、
自分からだけじゃなくて関係する誰かからも愛や思いやりのある素晴らしい体験ができる可能性を
奪い取っている!!
という事実に気付く瞬間てのがやってくるわけですよ、
癒しとか解放とかを進めていって真剣に自己に直面し続けていくと必ず。
そしてこうなった時に
自分なんだからいくらぞんざいに扱ったって誰の迷惑にはならない
とか思ってた私みたいな人間でも、
自らが愛する者との幸福な可能性を破壊している!!
というとてもとても虚しく悲しい事実に気付くわけです。
だからきっとそこで初めて、
自分ならいくら傷ついても構わない!!
私は耐えられる!!
そう信じていた人間だからこそ、
自分以外の誰か……特に、
自分が愛したいと思える者に与える望まぬ悲しみみたいな物が理由になって初めて自己の考えを改める気になったりするものなのですよ🍀
そしてそのような理由から、
あるがままの自分を受け入れるとは、
無条件に自分を愛するとは、
真に愛することとは何か?
そんなことを考え始めるわけです。
そしてそれは計らずも
“誰かのための愛”なのですよ。
不思議なことに。
………………そういう意味では、
私という人間も元々は、
真に“誰か”を愛するために
自分自身を完全に愛する!
という取り組みや学びや癒しの道を生きていた者だったのですよ、
本来は。
そうですね、
別にそれを意図的に封じていたとかそういうわけではないのですが、
時期タイミング的に
完全に忘れさせられていた!!
って感じなのですよ(*´ Δ`* )
どういうことなのかと言えば、
ようやく例えとして相応しいと思えるものを見つけたので書いていきますね🙋✨
例えば最初の方に載せたコレ
この最新の3つの記事はすべて
セイクレッドクリエイターオラクルのカードがサムネになっているし、
実際にそれに相応しい学びという物に取り組んでいるかのような内容になっているし、
もっと言えばその下の記事だってわかりやすくするならサムネはこっちが相応しいのです。
そしてこのような表現……
極めて内面的で紆余曲折あって順番にストーリーや言葉が一つ一つ紡がれ展開されてゆくという意味や波動的な制限で内容や本筋を非常に捉えにくいこのブログでも、
自分が本筋や学びのテーマとして現在何に取り組んでいるのか覚えていられる助けになったり
学びの“シンボル”として
わかりやすいもの!!
であるのが、
私にとってのセイクレッドクリエイターオラクルというデッキなのです❇️
そしてそれは、
つい最近(たぶん一年以内)になってようやくアプリ版で配信され始めたり、
具現化され生み出されたもの
なのですよ。
もっと簡単に言うと、
2019年や2020年の時点では
まだ存在していなかった物
なのですね。
だからその当時の私は、
セイクレッドクリエイターオラクルという素晴らしくわかりやすく様々な神聖な学びや資質を扱ったものを扱えないのです。
当たり前ですね、
まだ存在していないから。
だから私は実際に、
異なるカードをメインに今と同じような様々な霊的な学びや神聖性の獲得を目指してこのようなブログを書いていたし、
超具体的にはコレ=ラブアンドライトディバインガイダンスカードとか
スターシードオラクルとか
コレらを使っていたのです。
実際にそれはその時々の私に相応しく最大限効果的な学びの道しるべとなってくれていたように思います。
……しかし、私は思うのです。
セイクレッドクリエイターオラクルほどの物があれば私ももっと違ったかもしれない!!
って。
……まぁ実際には前提となる神聖さの学びや知識の獲得があまりにも足りなくて
今みたいに使いこなすことはできないとわかるのですが(*ノ・∀・`)
それでも、
あれほどの叡知の結晶や塊のような情報源があれば学ぶ効率は大きく変化したのは確かでしょう。
しかしそれが実際にこの世界に出現するのはまだまだ先……数年先のことだったのです。
それはある意味で
時期タイミングを待っていた
と言えるものなのですよ。
……やがて時の流れの中ではセイクレッドクリエイターオラクルを越えるほど私にとって絶好で至高と思えるカードデッキも現れてくる
のかもしれない。
しかしそれは
まだ存在していないのです。
少なくともそれが事実であり現実。
………………
…………
……
そういうことなんですよ!!
(説明を放棄)
私は特に2年前なんかに
鎧武者みたいな自分
をやめた!!
と実感してたけど、
しかしながら実際には、
身を守るための鎧は手放したけど、
一応の武器は手放さなかった!!
なんかそんな感じなのかもな~って、
ここ最近の自分の記事とか書きながら読んでいて思ったのですよ。
何て言うんですかね~、
一応は
男性らしくしてる!
つもり。
というか(笑)
それは上に書いたような
一応の武器
って言葉と同じ意味です。
こけおどし? って言うんですかね。
(虚仮威し って書くそうです📝)
見た目だけはそれらしく見せている
みたいな感じ
◯◯という体
ってのに近いですね(笑)
そしてそれは、
そっちの方が都合が良さそうだから、
そっちの方が比較的しっかりして見えそうだから、
どちらかで言えば女性的よりも
“男性的”な存在感の方が
何かと役に立ちそうだから。
だからそう“見せてる”だけなんじゃないかなって?
それはまるで“擬態”のような👁️
前々回の記事からでしたっけ?
私は
自我を鍛えることが必要だ!!
今の世の中の人間と対等に渡り合ってゆける者となるために強い人格が必要だ!
と奮起したらしく、
その結果仕上がったのが、
このブログ上ではメインな人格や表現となってる割と攻撃的だったりするけど超合理的で有能そうな私という自己イメージや振る舞いなのです。
……なんでって?
“地上の洗礼”に負けて世の中から敗走してしまわないためにです!!
特に“男社会”とかでね😏
いや私は男性なんだけど、
多少粗っぽかったり雑な感じの方が
空気感として馴染みやすいのです。
繊細すぎいくない🙅
って感じなのですよ、
私が生きてきた世界観では。
そういう理由ですかね、
私がそういう比較的強そうな人格を好んで扱っているのは🍀
今の世の中では断然!!
優しさより強さ!!
↕️
弱さより激しさ!!
そんな風に私は思っているので。
“優しさ”とか“思いやり”とかさ?
キリがないじゃん?
やっぱりエンパス~スピリチュアル民ならわかると思うけど、
自分が持つ洞察力とか直感で先回りして相手を助けようとした結果とかって、
たいてい調和的にならないじゃん???
自分が思うほど相手は
自分を気遣ってくれない
みたいな感覚とかさ?
キリがないじゃん?
不毛そのものじゃん?
私はソレが心底嫌になったんだろうね。キレたんだと思う💥
……どうして思いやりとか優しさとか愛であったはずの自分の想いがいつの間にか変質して結局は怒りや憎しみや不満に変わって相手に向けなきゃならない現実があるのか?
そんなクソみたいな“思いやりや優しさ”なんて物があっていいわけがない!!
そんなのは偽りの思いやりとか優しさなんだしそんなの愛じゃねぇ!!
だから、そういう自分をやめた。
でもそれは結局は擬態の一種でしかない。
超自然的な物では ない。
非現実的で、
空想的で、
理想主義的で、
まず基本的に周りの人間と溶け合うことができないしいらぬ摩擦を生み出しやすいと過去の経験から知っているから
それらの純粋で透明で柔らかな想いは内側に秘めたものとして固く守り🔒️🔒️
地上の洗礼にも耐え得る=強い!
自己イメージ
それを使ってるのが今の私……。。。
そのことにまた一段と気付く時期がやってきたらしい。
だから私は、
またそれを脱ぎ捨ててゆくのだろうし、
やがては一応の武器さえも手放す時もあるかもしれない。
しかしそれは、
今すぐではないのだろう。
時代が、
時が、
世が、
人生状況が、
宿命が、
天の計画が、
それを許さないから。
そういう意味で私もまだまだ重たいんだよね~。
とりあえず、
人間らしい強い自己像
を演じるために
一瞬悩んでみるフリをするような
思考が起こる
とか(笑)
うん~、
でもやっぱり“嘘”なんだよね。
そういう体でやってる
ってだけなんだよなぁ。
だから私は疑問に思い始めてる。
なんかもう“男性的な何か”を演じなくても
“天の女神性”くらいなレベルで女性的になったらなんの問題もないんじゃなかろうか?🤔
無理矢理男性っぽい自己像を使う必要って
実はもう今の段階で既に無くなっているのでは???
とか思うわけなんだよ。
というわけで、
この件……私擬態疑惑?に関して
セイクレッドクリエイターオラクルで相応しいカードをもらったわけですが、
出ましたね~、
ユーアーリビングポエットリー
なやつ。
つまり前回のコレ↓
……出るんだよねぇ、同じカード(゜Δ ゜)
オラクルってすごいんだぜ?
気が済むまで引き続けると同じカードが出たり似たような同じ意味のカードとか出たりするんだよ
あ~、うん、
というわけで見直しました👁️
今はココかなって
それらの感情と向き合い、
共有し、変化させていきましょう。
……そのための“共有”ってのが、実はこのブログを私が公開する形でずっと続けてる理由だったのかもしれないと感じるのですね。
そしてコレは“想いの循環”と同じ意味の言葉だと感じるのです🌸
……そう考えていくとさ、
私はこうやってブログな表現内で過去を悔いたり呪ったり懺悔したり時には感謝したりしながら確かに
自分の感情と向き合い
変化させて癒してゆく
ってことをしてる。
それがこういう特定の誰かに向けられた表現や言葉じゃなかったとしても
“想いをシェアすること”の良さなのかもしれないなって、
“心閉ざし人”みたいな人間でもある私はだからこそ深く実感してそう思うんだよ😌
それに実際コレは懺悔でもあると私は思っていたりする。
……私はこんなにも身勝手で混沌としていて扱いづらい人間だから自他の境を持たずに傷付け大切にできず愛を恐れ人の想いを無視しながら必死になんとか生きてきただけの人間かもしれない。
そんな私が許され救われるためにはどうすればいいのか?
こんな私でも赦されあるがままの自己として愛され祝福され生きてゆくことは可能なのだろうか???
もしもそんな奇跡のような道があるのだとしたらどうか私に教え示して欲しい……
って感じだったりする😂
ほら、超自罰的人間だから。
己の望まぬ罪深さを自覚すればこそ、
そうではない可能性を願い深く強く真剣に求めるようになる……。
そう、私の持ち得る神聖性とは超自罰的な人間であることの裏返しでもあったりするのだ✝️
知ってるか?
実はこのブログって
まともな人間として生きられないと深く苦悩しながらも、それらの葛藤を含むすべてがそのまま完全さの証明として救い上げられてゆくという奇跡と祝福を受け取り生き直すための聖なる祈りの場でもあるんだぜ?
コレが“心の聖域”と呼ばれるゆえんだね。
……そしてそう、
こんなものはシェアしてもしなくても、
公開しても秘したとしても、
そもそも認めてゆくのが難しい。
誰だって己の罪深さなんてものはなんのきっかけもなしに認めたいもんじゃないし、
それを認めることへの恐れを救われたいという想いが勝ったからこそ成され開かれる聖なる道でもあるわけで。
そりゃここまで辿り着けたなら自力でも他力でも癒しは当然起こるさ。
そしてだからこそ私は、
“同じような誰か”のためにこの道を記し共有されることを望むんだよ。
それこそがまさに神聖さの計らい。
自分が許され救われるために、
赦しを求め他者も同じように救われることを望むようになるってんだから、
まぁ業が深いというか、
深い業があるというか(笑)
あ~、うん、
そういうことだよ。
それが私の隠してる弱さだ。
そして不思議なことにその最も闇の深そうな所のすぐ側に神聖性ってのがあるもんさ。
本当に不思議なことに。
強いて言うなら、
私はコレを示し共有したい。
このようにして超自罰的で望まぬ罪深さを抱えてしまった私みたいな人間は救われることができるのだと。
まぁそんな奥深くまで来る必要がある人間なんて滅多に居ないだろうから本当に役に立つのかは私にはわからんのだけどね。
ただ、
どうせならさ、
神聖性とは真逆にありそうなものをいっぱいもらうことになっちまった私みたいな人間であればこそ得られるかもしれない、
そのすべてが聖なるギフトとなり祝福となりすべてに感謝し涙を流せるようなそんなミラクルな幸福とか大逆転ちっくな可能性ってのがあるなら
どうせなら欲しいじゃん!
もうここまで来てしまったら望まぬ罪深さも神聖性も全部もらうしかねぇ!!
……そうして文字通り“すべて”を自ら受け入れ受け取ろうとする意思ってのが
あるがままの自分を認め愛すること
なのだとしたら、
なんかもうすごくよくできたストーリーだなって!!
呪ってるのか喜んでるのか不幸なのか幸運なのかもわかんなくなるなって!!😂
だからたぶん、私が示したいのはココに来れるまでの道。
ココにまで来れた者は勝手に救われ癒されてゆくんだから。
強いて言うなら、
そんな聖なる道を示す可能性が私が持つあらゆるネガティブな属性を神聖性へと救い上げる唯一のカギだと言える。
だから私はそのカギを配って回る。
私が探し求めたソレを届けてくれる、
そして私が持つカギを必要としてる誰かがあってもいいように。
そう、
これは聖なる鍵と鍵穴を持つ私たちが出会うための道しるべでもあるんだよ。
その時に聖なるギフトは受け取れるから。
それを一緒に同時に受け取るために私は自らの罪深さも祝福や豊かさとなりえる鍵として差し出しているということなのです。
他のすべての人間にはわからんくても、
実際に私が持つカギを必要としてる人間には必ず届く。
だから私は自己を隠さない。
隠者であり超内省型人間であり超自罰的な人間でありながらも自らを表現し続けることの価値を知っているから。
そしてそれはまだ可能性に過ぎない。
しかしそれはやがて起こるだろう。
だから私は、
カギを配ってまわるというようなことをしながら時を待っている。
つまりそれが想いの循環。
やがて愛となり祝福となり分かち合われる可能性を持つ物を自ら分かち合うという意思。
……時が満ちるまでそれは罪業の証でしかないのかもしれない。しかし信じる価値はある。
そしてそれは私だけのためじゃない。
私というカギを必要としているどこかの誰かのためでもある。
そう、
私は待ち人を探しているのだし、
私自身も“聖なるお人”を待っているのだ。
それが私に見える聖なる流れや聖なる共鳴で回る世界の可能性とそのカギとなる想いの循環の真価。
不思議なことに、
真に自らの幸福を願い望み求め生きればのそ自分以外の誰かの幸福も同時に満たされるような完全な可能性を自ら望むことになる。
だからこその神聖性。
真に自らのために生きる時には必ず誰かの幸福のためにも生きることになる。
私はそれが知りたい。
私はそれが本当なのだと知りたい。
そのための私の持つすべて。
そのために私が持ち得た可能性のすべてがあったのだと知って感謝し涙を流したいのかもしれない。
これが私の祈りです。