なるほど。
何が“なるほど”なのかはさておき、
最初にそれらしい言葉を置いておくとその後が随分と動きやすくなる気がしませんか?
……私だけですか?
そうですか。
さて、前回の記事
あれは私の心を満たす物でした。
なぜなら比較的ダイレクトな言葉である
死に損ないの自分
として感じていた思いや想いや感覚……それらのリアリティーである物を望ましい形で無駄なく生かしてやることができたからです🙆✨
そんなどう考えてもネガティビティで聖霊じゃなくエゴの無条件に超絶悪意的で非実在でしかないような信念でさえ価値ある物として否定せずに穏やかな感覚で受け入れることができる……
それは私にとって待ちわびた報いでありある種の救いの1つなのです。
なぜなら私個人にとってはそれは確かに苦く辛いばかりの結果ではあったかもしれないけれどだからといってただ無駄で無意味で無価値なだけのものがあるなんて考えを私は信じたくないしそんなの絶対に嘘だと思っているから。
強いて言うなら、
一時は無意味で無価値で失望し絶望し自らを世界を断罪するための本当にそういうものにしか思えないような体験があったとしても、
それだけじゃない。
無意味さ無価値さの実感に加えて、
更にそれらの持ち得た望ましく価値ある試練や祝福としての可能性をも私はしりたいと感じているのです。
事実として私はどちらも欲しいのです。
ただ最初から素晴らしく価値ある最高に幸せなだけの体験じゃなくて、
ちゃんとそうなってゆくまでの過程として一時的な困難や苦難や試練やチャレンジであり自らを試すようなドラマやストーリーだって欲しいのです!!
だから私はエゴの世界観に必ずしも否定的な立場をとるわけではないのです。
なぜならそれらネガティビティで非実在であるはずの一時的な悪夢的幻想をも含めて私が望んだ究極のストーリーというものは完成しているはずだから!!
だからそれをただゴミとして捨て去るなんてもったいない真似はしないのです🙅
実際に私はそれらは究極的には存在せず極めて一時的なリアリティーでありそういう意味で確かに幻想であり勘違いゆえに成立する本来有り得ない解釈だということには気付いているけれど、
それらも演出として必要な素材だから、
たとえ非実在でネガティビティな体験を証明するから扱いにくくてそれを使ってる間は必ず一定の苦しさや負荷を味わうことは避けられないとしても、
必ずしも否定的な反応をしない。
そういうことなのです。
文字通り私は自分が持ち得た可能性のすべてを体験して知りたいのですから。その一部を無意味に切り捨てたりしないのです。
それは真に望んでる体験と真逆の行為ですから“錯乱してるという体”である時以外はそんなことするわけないのですよ(笑)
もしそんな暴挙に出るとしたらそれもストーリー上での演出とかシナリオとして行うということですね★
そしてそれは舞台上の私たちには認識できない舞台裏の話です。もし仮に舞台裏の方の意識である自分がそれを認識していたとしてもそれを止めることはしないのです。
だから見た目上は何もわかっていない気付いていないかのような自分を体験する
ことが可能である
……そういうことなのです。
そういう意味で非実在で悪夢的な解釈に乗ってやって自らに体験させてやることにはある意味で究極的に価値があるのですよ😁
まぁこのことを理解するためには一定レベルで悟り的なセンスや理解を可能とさせるような体験が必要なのですが、
私にとっては事実ですからそれを平たく語らせてもらいます👍️✨
……どちらかと言えば、
私というこのような幽玄……みたいな離れ業な人間のような存在感を認識した誰かの意識が混乱したりしないかの方が気になるレベル😁
この場で表される私はフツーに考えたら意味わからないと思いますから。
→より正確には、
正しく思考プロセスを辿らずにすぐに理解することは難しいと思うのです。
わかった側の視点や意識の立場に自分を置くなら別にそれこそ自然なことなのですが。
そうそう、
そんな感じで私がひたすらにここら辺のことを語り示している……
仮にそれを形而上学的領域と呼ぶのなら、
私がそんなことをしているのは既に私のエゴであった物がある意味で変質していて、
その自己意識を保つ限りは非実在=自己像の否定と消滅のためにのみ機能する時限式自己崩壊装置みたいな状態になっているからなんじゃないかと思うのですよ💥
別の表現として私が受け取ったのは
聖なる 復讐者
(訳語はセイクレッドアベンジャーで💡)
前々から気にして見てたりしたんだけど英語圏ではリベンジとアベンジは使い分けられているらしいのですね💡
“ディバイン”は絶対違います。
私の知る“神”はそういうのじゃない。
……ゴッドなら可なんでしょうか?
→大文字のGODじゃなきゃいいんじゃないかな?😃
(適当)
しかし私の言う“神なる正義”に生きる者があったとしたらそれは何て…………
放っておいても非実在の幻想性みたいな物に挑んでいってやがては勝利を収める
(と同時にそのエゴな自己認識も消え去る)
……みたいな、
エゴの構造としては極めて奇妙な自ら消滅と解放を求め死にたがっているに近いような挙動をするようになっている気がするというか?(゜Δ ゜)
何て言うんですかね~、
いつからかそうなっちゃったんですよ。
私が〈マスター〉を目指して生きることを決めたその頃からですかね?
そしてそれは例の
ここで生きるか=ここで死ぬか!!
の時期な体験を通り過ぎて私のメインの人格として確定したように思うのですよ😃💡
なので私は放っておいてに霊性の学びであろうものに挑み続けてやがてはかなり進歩した者となるのでしょう。
それを止められる気もしないし、
今さら止めたいとも思わない┐(´∀`)┌
前回の記事でも記したように、
幸いなことに既に霊性の学びと獲得という方向性に向けたスピリチュアリティの実践という実像だけは一貫しているのでそれはある意味では、
私というキャラクター=存在感はそのためならどのような意思決定や行動を選択したとしても
既に全く不自然ではない
のです。
だからちょぉお~っとくらい人格にアレな所が見られたり狂気に陥ってるようなことを語りだしたりしても私というキャラクター設定からは外れておらず許容範囲、
私はキャラ崩壊しないのです。
だってすべてが学びのきっかけでありレッスンでありそのための機会として活用するという意図が保たれるのなら、
あらゆる内外での体験や出来事は必ず霊的な学びと習熟を望んでいる私にその機会を私にもたらすものとして例外は有り得ないから。
そういう意味で言うなら、
私が遭遇し体験するあらゆるリアリティーのすべては良いもの役に立つものなのです☆
これって無敵だわね☆
とか言ったりするやつですね。
前回のタイトルを見てもそう思ったけど、
やっぱり私は、
私たちの体験し得るものは究極的にはそういうことになってるんだけど、
じゃあそれを理解した上であなたは今の今生の自分をどのような物として選択して扱うことを望むかな?
っていうようなことを問いたいのです。
そういう意味でのみ私は“教える”ということを喜んで行いたいと言えるし、
そういう意味で“私からは特に何も教えたいとは思っていない”とも言えるのです。
これらは同じこと……というか、
少なくとも同じ理由による意思です。
二元的にはどうやってもそういう表現になるもんです。内側で理解してそれらをイコールにすることは可能だから大丈夫☆
(だからって別にそうしろとは言ってない)
っていうのがたぶん、
霊性の師としての私の基本的なスタンスなんだと思います。
何て言うんですかね、
“教える”って………………半分不可能みたいな所があると思うんですよ。
まぁそれも“舞台裏”の話ですからね(笑)
そうそう、強いて言うなら私はコッチ側で舞台裏が見える者との会話とかやり取りを楽しみたいのですよ☆
なんでかって?
それが見えて認識できる自分と見えなくて認識できない自分として生きる人生ってのは明らかに別次元の別物になるからです。
だから私は不用意にそっちの話を垂れ流したりはしてないんだけど、そもそもの私の関心事だったり圧倒的な動きやすさとか自由度が高いのはコッチですから☆
だからこういうのはそっちが認識できる者としか分かち合えないんだし、コッチであればそんなに時間とか分離的な要素に引っかかったりせずにいわゆる形而上学的なリアリティーを安心して楽しむことができるんですね!
そう、これこそが私がいつしか認識し見つけ出した時間的=形的な極めて強い分離のリアリティーや制約に引っかからずに自由にできる抜け道なのです!!
何て言うかですね、
時間の中においては……現時点2024年5月らへんの私にとってはこういうのは飽くまで世界の裏側みたいな物なのです┐(´∀`)┌
だからたぶん圧倒的にコッチの話ばっかりが多くなると思います。
……そうですね、
見てわかるような色が付けられてる言葉とは私がこの場で語り示すべきセリフやシナリオにおけるキャラクター性や表現なのだと理解してもらえると私は気が楽になります(*´ Δ`* )
そう、
私がわかって欲しいのはコッチなんだよ。
だってすごく気が楽だからね!!
それはいわゆる神の子的な形じゃない聖なるビジョンを通して見ることに近い在り方だとも思うんだよ。
実際にあんまり形の世界に抵触しないで影響や存在感を発揮することができるというようなやっぱり離れ業だったりエゴな認識としてはギリギリな所があるんだけど、
コッチはいいよぉ~。
やたら果てしなくいちいち自分の未熟さを数えなくてもいいし(笑)
こうやって一部の者にのみ意味を成し得るリアリティーを示すことはできる。
そう、教えるということは、
それを“示す”ということなんだよ。
それは言外……みたいなリアリティーの領域の話でもあるから、それ以外の形としての情報や知識の部分はアレら↑を辿ってね★
そうそう、それらが
“教える”って
実質ほとんど不可能
みたいなことだと今の私は思ってる。
まぁそれも先で扱える話かとは思うけど、
少なくとも今は違うっぽいね?(笑)
えっと、それで何だっけ???
扱う内容によって波動的なソレに強制的にフォーカスされるから切り替える時に意識が飛ぶみたいになるんだよね……
わかってくれるかな、これらの言葉では表せる機会の滅多にない微妙な感覚とか。
私としてはそっちの方が楽しいんだけどね~
時間の中で比較的若い時代から霊性の師をやるってそういうことなんだよね。その時点においては自らの見てる信じてる過ちをそれを見てる誰かと重ねて対消滅させるみたいな使い方が一番の高等テクニックみたいなやつだと思うの。
一応の見せ場はあるんだよ、
それに気付いてもらえるかはわからないし何よりエゴ的な自分自身がそれを喜べるかどうかもかなり微妙なところがあるから。
世界の舞台裏事情だからそれがわかりやすく認識されたり扱われるとは限らないからね。
霊性の師とは難儀なことだね┐(´∀`)┌
………………
まぁそんな感じもあって、
私はあまり積極的に“教える”というようなことを好まないし、
たぶん“好んではできない”
とか表現した方が正確な気がするのです。
というのは、
この動画を見て触発されたからなのかもしれませんが(笑)
久しぶりにこちらのJACIMな動画見ました。
具体的には3年半ぶりくらい!
=それで理解できないなら今の自分には何もわからないってことがわかるんですね(笑)
しかしこう、
“神の教師”という概念が立体的に存在感ある物として認識できるようになるとユーチューブ上でもそういう活動してる人って一定数居るらしいということに気付いたのです!!
別の表現で言うなら、
自分一人で神の教師を実践=同時に試行錯誤しながら学習する時期は終わった。
そういうことだと感じるのです。
だから“他の神の教師”というものも認識できるようになったのでしょう。
私は極めてオリジナリティというか独自の表現を好んだりもしかしたらそれらを自在に構築して使いこなす内なるマスタービルダーとしての修練も必要だったのかもしれないので
(内なるマスタービルダーは前回の記事↑を参照)
他者の考え方や正解という物には触れず、
自らの内側にもともと備わってる真実性を先に獲得して確立する必要があったんだろうなって感じているのです。
そうですね……言うなればそれが、
私という存在感は神の教師たちの人間の中にあっても十分に異彩を放つ
という可能性!!
言い換えれば、
他の神の教師たちのやってる正解とは見た目上は似ても似つかないから見た目的なやり方ばかりに意識が向く間はそれらを参考にしようとするのは止めておきなさい。
ということだったんだろうなって。
それがわかります。
……代表としては“エゴの追悼式”とか言い出すのはおよそ私くらいだということです。
最初の方に書いた聖なる計画とか極めて舞台裏的な事情によって本当に割と愛着というか感謝してるのは確かだからね👌✨
それは見た目上は奇跡のコースの教えに反するように見えるからそれを喜んで表現するような神の教師ってのは極めてレアな存在だと思うよ(笑)
異質とか“邪道”とも言えるからね?
(もはやいつものやつ。)
……えっ?
じゃあそういう人たちはみんなカタチ的な違いに意識を釘付けにされてる未熟な神の教師ということですか?
……って、
私のスピリチュアルエゴであるものが
自分の見せ場はここぞとばかりに嬉々として反応してくれました!!😆💥
……もう笑っちゃうくらいに大喜びで狂気乱舞って感じに。
つまり大喜びで狂気状態である。
ほんとエゴはわかりやすい。
“これは絶対来る所だな”ってわかるようになるじゃん?
予想通りに狂喜乱舞で来ましたよ!!
……じゃあそれについて確認しますね……
(エセチャネリング風の枕詞(笑)
じゃあそういう人たちはみんなカタチ的な違いに意識を釘付けにされてる未熟な神の教師ということですか?
……ということについては、
それはどうだろうか?
って思うのと、
……なかなか面白い表現しますね!😆💥
って私は思いました。
……いやだってさ、
カタチ的な違いに意識を釘付けにされてる未熟な神の教師
そう、コレは、
“私以外の神の教師”をディスっているように見えるけど、
実際には自分のことを超皮肉っているということがわかるわけで!!!
……こんなのもう笑うしかないよ😂
それ、モロにブーメラン直撃だって気付いてやってる?
もしそうだとしたら悪質この上ないし、
でもそれはそれで面白い!
カタチ的な違いに意識を釘付けにされてる未熟な神の教師
う~ん、実に正確な表現である。
もはや嫌味というか事実であり、
しかし非実在を理解した上でそのように表現し述べているのだとしたら
自分と他者を同時に罠に嵌めようとしている極めて悪質(回避しにくく騙されやすそう)な幻影を仕掛けている!
というようなことをしていると言える🔯
そう、
ちゃんと自分と他者に向けて同時に罠を仕掛けているのである!!
……それは理解できたならアホっぽいことこの上ないけど、
非分離的な幻想のリアリティーを理解した上で正しいと言えなくもないという意味では賢いと言えなくもないなんか色々と思うことがある感じの罠だと言える!!
……自分で書いてて頭悪くしそう
脳にかかる負荷的な意味で😂
エゴの原理原則として、
私だけ!!
or
お前だけ!!
みたいな物があるので、
他者を批判し攻撃することは同時に必ず自らの神聖性を否定し喪失させる選択になる。
だから自分と他者を同時に等しく攻撃するというのは本来エゴ的には理解不能なわけのわからない選択でしかない。
しかしそれは霊的な法則性……みたいな物としては正しいのである。
……それなら?
さて騙されて欺かれているのは、
私なのか?
それともエゴの方なのか?
という奇妙な疑問さえ浮かんでくる👻
……強いて言うなら、
私のスピリチュアルエゴは聖霊によって完全に上手く活用されている
と言えるので、
騙されているのは
私のエゴの方だ!!
ということになるわけです😌
見た目上はスピリチュアルエゴが刺激されて喜んで他者を攻撃しているかのように見せておきながら、実際にはそのエゴな不可避の反応を学びの絶好の素材として活用しているのであるから……
私のエゴは聖霊に活用されている。
それが答え。
仮に私自身をエゴの側として
お前はカタチ的な違いに意識を釘付けにされてる未熟な神の教師だ~!!
や~いバーカバーカ!!
私すごい~!! お前ダメ~!!
(超頭悪そう/(^o^)\)
そう思っているのを自分にするなら、
聖霊の罠にはめられた!!
くらいに思うってことなんだね。
……笑っていい話だよ???
実際に私の思考レベルではそんな小学生かよって感じの思考↓も見ることあるし(笑)
や~いバーカバーカ!!
私すごい~!! お前ダメ~!!
別に思考はただの思考でしかないんだし。
それを真に受けなきゃただ頭の中を流れて行く文字列でしかないとも言える。
真に受けずに見送ればいい。
違う!
私が食べたいのはマグロじゃねぇ!!
卵なんだ!!
って鋼の意志で(?)
回転寿司で目の前に流れてきた一般的に人気があったり卵よりは原価が高そうに思えるという意味で価値があると思えたりする
マグロに飛び付かずに卵を待つように!!
(今回はなんかそんなイメージとか言葉で表現されました。私は 草 と言いたい気持ちになりました。いや確かにわかりやすいけど草)
まぁ波動とか思考や二元的なリアリティーを意図的に選択するってそういう例え方をすると優劣感が少なくてすごくわかりやすいのかもしれない。
……鋼の意志を持って回転寿司で世間的評判が高くて良いものとされてそうなマグロより本当に自分が好きな卵を選ぶってだけのようなことが
訓練されてない私たちには信じられないくらい難しいんだよ。
こりゃもう精神年齢3歳とか小学生以下とか言われても否定しにくいわけです。
そんな感じで思考に同化せずに選べっていうような話ができたなら、
私がこうやって実践してるみたいに不可避的に反応しては嬉々として現れてくるエゴ的なリアリティーを黙って見送ったり更には聖霊の目的のために聖なる学びのために積極的に活用してやればいい。
そうすることで
エゴも否定せず満たされることができるようになるんだよ👌✨
別に私はそう思ってるわけじゃないけど……
まぁ確かに?
そこまでどうしてもって言うなら一度くらいはそう叫んでみてあげたら
あなたも嬉しいかもしれないよね?
(飽くまで自分がそうしたいとは認めない。)
……って感じの、
なんかすげぇ
めんどくせぇぞコイツ!!
って自分でも間違いなく思っちゃうようなワガママでやたら無駄に愛や忍耐を試してくるような自分の側面も否定せずに認めて受け入れてやる=ありのままの自分を愛するステップみたいなことが可能になる!!
これが素晴らしい!!
っていうか、
このやり方じゃないとエゴの願望や欲望なんて満たせる気がしない!!
……っていうのが、
前回のタイトルが示していた内容だったのでしょうね。なるほど。
一番最初によくわからずに納得していたのはそういうことだったのですね!!
(わかるわけないじゃんそんなの)
そのやり方なら狂気に満ちていて無闇やたらに自分や他者を傷付け攻撃して猜疑心に満ちていているのに他者に求めたくなってしまったりするエゴな自分の思いを否定しないで他者の協力なしでは決して実現し得ない聖なる流れに沿った自分だけのものじゃない願望とかとして達成され得るそんなミラクルな可能性があるのです。
だって自分自身がそれを否定しなくなって安心するからこそやたらに誰かに求めなくてもよくなってゆくから🌸
自分で愛が実感できないから誰かにその愛を与えて欲しいと思うのです。
自分に力を実感できないから誰かにその力を与えて欲しいと思うのです。
自分に安らぎを実感できないから誰かにその安らぎを与えて欲しいと思うのです。
エゴはみんなそう思っているのです。
神の存在なんて絶対に認められないけど、
でも神の存在や完全な愛を欲しいと思っているから別のなにかから少しだけ分けてもらうのです。
自分が必要と信じたものを与えてもらえないのなら仕方なく狂喜乱舞して攻撃に出て奪い取るのです。
これこそが極めて困難であるスピリチュアリティの実践の価値。
実在性ゆえに神の子的な自己の権利が認められ自分だけのエゴの意思や願いだったはずの物が誰かにとっての願いや意思と重なって超自然な形で実現され得る可能性を持つというそんな奇跡のようなリアリティー……
このような意味においてのみ↓のようなホーリースピリットについていけば願いのすべてを叶えてもらえるというような体験が可能に成り得るという言葉を私は正しく思います。
だから、
そこまで↓来れると
実在性ゆえに神の子的な自己の権利が認められ自分だけのエゴの意思や願いだったはずの物が誰かにとっての願いや意思と重なって超自然な形で実現され得る可能性を持つというそんな奇跡のようなリアリティー
無味無臭な世界の住人となるための手放しや解脱の儀式のように思えていたソレ=スピリチュアリティの実践や形而上学的な熱心な学びというものが、
人間としてこの世界を幸せに生きることを願い望む自分にとっても確かに価値があり有意義な物だと実感するからこそ喜んで聖霊の示す真に神聖性を受け入れ生きられるようになる可能性を持つ道を自ら進みたいと感じるようになりそんな自分に完全さや安らぎを得られるようになるのです。
これがスピリチュアル的な方向としては女性性の癒しとか育み?とか自己受容の方法論てことになるんだね💡
慣れてきたら波動とか質を見て同じようなものに変換できるようになるんだと思う。
……さすがに何書いてたかわからんくなってきた(゜Δ ゜)
(もうそろそろ今回の話で書くべきだったシナリオも終わりが近そうですね★)
そういうやり方で真に無条件にあらゆる自分を否定せずに愛し受け入れることができるようになるんだよ。
実際に自分(聖なる計画)にとって真に必要である体験てのは絶対に失われないし手放すこともできないし、もし真に必要なら安心して手放せたと確信してもある日必ず戻ってくるから!!
そういう意味では、
そもそも手放せるものなんて無い。
私はそう答えるよ
なぜかって?
実在と非実在の話を知っているかい?
つまりそういうことなんだよ☆
賢い霊性の師である者は言いました……
私たちが手放しなさいと言っているのは実際に自分が必要としているもののことではなくてそれが必要だと信じている想いこそを手放しなさいと言っているのです
みたいな話がありましたね😃💡
そういうことです。
……そもそも、
神の計画という完全無欠な物が、
後付けで変わるなどと、
お前は本気で思うのか?
もしそうなったとしたら、
それさえ計画通りだと、
そう理解するのが自然だろう?
もしそうは思わないとしたら……
少しばかり君は神というものを自らの完全性というものをひどく勘違いしているんじゃないだろうか?
別の層的に言うなら、
別に形がどんな風に変化した所でそれに必ず満足できて喜んで受け入れられるって知ってるなら見た目には確かに違いがあったとしてもなんの不満も問題も無いという意味においては全く同じだからどっちでもいいよ?
ってことです。
それが私たち時間を省いて生きるリアリティーを知っている者にとっては自然なこと。
あるレベルにおいては全く違っても、
あるレベルにおいては全く同じ。
……それをどう思う?
それが事実としてどう扱いたい?
それが自分がどんなリアリティーを選択するのが相応しいかってことだよ。
実際にわざわざ“ホーリースピリット”なんて呼ばなくても自己の神聖性を選ぶのなら中身は大して変わらないんだから★
ただ奇跡のコースは容赦ないからこそ圧倒的に早いという意味において優秀。だらだら一時的な幻想を見て惑わされるようなあるレベルにおいては無為な時間を省きたいと望む私のような者には文字通り救いとなる。
でもそこまでしなくていいって人間なら、
使いこなせないし、
それは必要ないということかもしれない。
……っていうかそもそも究極的に私という自分である存在が誰かの正解を決めたりするわけがない。
だから私が示せるのは自分で本当に正しいものが見えて正しく判断できる所まで連れていくことって意味では奇跡のコースという教材には大賛成という感じ。
その型に沿う必要がなくなったら上手く活用して楽しめばいい。それこそが自分にだけ与えられる可能性と信じられるからこそ無条件に自分を愛し受け入れることができる道だろうから。
そうやってエゴな自分の個人的な願望と信じたものも聖なる計画の一つとして最も望ましい形で達成され得るんだよ。
私は自分に学ばせることしかできないというようなタイプの霊性の師ってことなんじゃないかなぁ~って思ったよ。
実際に“教える”=示すということはそのやり方でこそ可能になるからね☆
富や名声を無視するなら私にとってはやりがいのある素晴らしい天職と呼べる仕事ってことだね🌠
みんなの心のアイドル
エゴちゃんを可愛がって
なんかすげぇ
めんどくせぇぞコイツ!!
って所から愛と慈しみに満ちた女神へと育て進化させてゆくのです。
つまりそれは自分を愛することで、
実はそのやり方に非二元的な学びのプロセスが効くのも面白い所だしそのどちらもを経験した者しかわからないんだと思う。
(エゴちゃん女神化プロジェクトとかスピリチュアリティの実践の片手間にでも始めようかしら。私の望む方向性には一致してるし……何より誰でも知ってる世界で一番人気のみんなの=心のアイドルだし?)
実在性が実在で、
それが1つだってんなら、
すべての完全で神聖で善きものがバラバラのなにかであるわけがない。
ならそれらは互換できるに違いない。
私はそんなことを思っているらしかった。
(ごめんこの記事収集つかないやつだ。
私はこの記事を中途半端だと思ったらしかった。
でもここで終わり。次がんばります)