“裏切れないこの世界”を……はるか幻想を越えていくために必要なすべて私の内側に=尽きぬ内なる灯火 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

私が今現在感じているものを表すなら、



“裏切れないこの世界”

を越えていく。



というようなものだとわかる。



私がここしばらく漠然と恐れを感じていたり真意を見極められずにずっと考え悩み続けていたことの本質としてはそのようなものだったとようやく理解できたから。

その理解の証拠の1つである物がこれらなのだろう。


なるほど、

実に一貫しているとわかる。





やはり私にとってはよほどこのカードは重要なカギとなる物を示しているのだろう。




……そう、

私が生きるために一番必要な力や資質をたった1つだけ選べと言われたなら、


間違いなく勇気だと答える。


だから私はこのカードの意味がわかるような人生を持つ人間だったと言えるのだろう。



愛や思いやりや祝福といったものは確かにとても素晴らしいと私も知ってる。


しかしそこにまで辿り着くことができなければ意味を成さずたとえ持っていたとしても全く使えないという意味で最初からは役に立たない物だとも言えると知ってるから。



だから私は勇気を選ぶし、

この世界を生きるために最も必要な資質とは何かと聞かれても勇気と答える。


それは私にとって事実だから、

それ以上の考えは特に無いかもしれない。





それと同じような意味で、


私が何より抜け出したいと望んだこの世界の悪夢を表す1つとして非常に強い恐れや恐怖の感覚というものがあったことを思い出したらしい。



もしかしたら私は忘れていたんだと思う。

それはいつしか“苦しみ”という言葉で認識される方が多くなっていたから。


しかし私が恐れたのは、

自分と他者の関係性の中にある恐怖、


とりわけ他者の期待を裏切るというような感覚を非常に恐れていたように思える。



……その正確な理由はわからなくても

それは疑いようのない確かな事実だった。



それを現在の私の理解で認識し表現された物が


“裏切れないこの世界”


というものだとよくわかる。

これはとても正確な表現だと言える。。。



究極的にはただの怖くて悪い夢に過ぎないのだと一部では理解していても、だとしても今の私にはまだまだ裏切れないと信じている枷や戒めのようなおよそ呪縛と呼べる信念が存在していると気付いているから。



だから、そう、

もしも仮に結果から述べるとしたら、


私はやがて裏切れないこの世界として信じたものも越えて行くことになるだろう。


なぜならそれは確かに恐ろしいものだと思えたり感じられるのは嘘じゃないけど、それでもそれを理由に私がいつまでもその枠組みの中に留まり続けることは有り得ないのだとわかるから。


必要なら自分でも他者でも見境なく裏切るということをするし、それを止めることはできないとわかる。

なぜなら内なる神聖性の発露というのはそういうもので……究極的には何の問題も無いと知っている意識はそれを恐れて行動を取り下げたり計画を変更するというようなことをするわけがないとわかるから☆



まぁ今の私にとっては、


確かにそれはわかるけど、

でも今の私はその悪夢な幻想とやらに引っかかっているから無視できないし裏切れないよ!!






というような状態にあって、


そう、強いて言うのなら、

その2つの意識や考え方のうちどちらが私にとって本物であるのかを見極めることができない状態にあると言える……。



……まぁどうせ実在性の方が必ず正解と知られることになるって意味では出来レースなのかもしれないけど、


実際に現時点の私は幻惑状態にあるのでそれらを無視して進むことはできない。



なので大人しくそれに引っかかって少しずつ読み解いて解消していくことにする🍀



それこそが内なる神聖性の発露なのだとしたら止められるわけないんだからさ(笑)


そうなった時に必要なのは覚悟だけ……

そう、それこそが私の言う“勇気”だということになるんだね★



絶望のヴェールに覆われてとにかく怖くて恐ろしく思えるような悪夢の世界を勇気を呼び覚ましてひたすら駆け抜けていって。


これも私の“祈りシリーズ”

みたいなものなのかもしれない。


実際に私は祈るように生きてるから。




私はそれこそを自らに証明し与えたいと願い望んでいると知ってるからたとえどんな理由があったとしても私がその選択を止めるわけないんだよ。


……それを知った上で何か他に必要なものがあるのだとしたらそれは勇気だけなんだよ。



知ってるのなら、

それを確認しにいかなくちゃね★


そうしないと自分の知るすべてが嘘になっちゃうでしょう?


私はそれを認めないし許さない。

絶対に。


なぜならそれこそが内なる神聖性の発露であり神なる正義はこちらにあるくらいに思っているからなのかもしれないからね★


一時的には狂信者としての称号も喜んで受け入れることだろうよ。

もしそうだったとしても違ったとしても私はそれが知りたい。そのためには自分が燃え尽きて消え去ってしまったとしても構わないって思ってるくらいには。


だから必要なのはその覚悟だけ。

覚悟があればなんでも選べるから。


真に覚悟を決めた者の妨げになれるのは唯一同じくらいの覚悟がある者の存在だけ。

私はそれを知ってる。




さて私の前に立ち塞がったあなたにはそれだけの覚悟があるのだろうか?

いや、別に無くても構わないけど。

つまりそういうことだよね?



……って自らの意思を示されるのは畏怖の対象に成り得るものだからね。私もあまりそういう者には遭遇したくないし対立なんてまず避けたいと思ってることだろうよ。


必要も理由も無かったら確実にそれだけの意思を示す者に譲るよ。だってその意思を妨げるには相応の代償と呼べるものが必要になるんだから可能なら避けるのは当然。


そこまでする必要が無いならしない。



だからそれをやるなら仕方ない。

それが必然なら、仕方ない。

それが自らの進むべき道と知るのなら、

もはや避けては通れない。後はひたすら運を天に委ね祈るように行動するのみ。





私はそういう存在なんだって知ってる、

この世界的に表現すると、

良くも悪くも、ね。





とかそんなことをごちゃごちゃと書いてきたけれど、つまりはこういうことなんだろう。






これの解説 みたいなものになっていた気がする記事がこちら↓





たぶん今の私にとっては深刻にならざるを得ないソレだって、もっと経験を積み重ねるほどに


そんなに大きな問題じゃなかったし、

それは確かに必要だったし、

その出来事や体験には感謝してる、

なぜならその理由を知っているから。



って答えられるようになる物だと思える。


……本当はわかるって言いたいけど、

時間軸的に未来のことを既に知ってるというのは必要外では避けたいという事情があるので私は明言しない。


それは可能なら必ず避けるという選択もまた叡知とか人間として上手い立ち回りの1つなんじゃないかと思ってる。

そう私は思っているよ(笑)





実際この見た目には無駄が多くて非常に回りくどいようなやり方だとしても、このプロセスが進むほどに私は自分自身が本当は何を恐れていたのかをより深く知って行くことができるようになる。


やがてその内なる恐れの探求とでも呼べる取り組みは必ず非実在性の根源にまで達してそれが見せかけに過ぎなかったと知ることは確実と言える。



それでも、

違いを生む何かがあるとしたらそれは、


やるか やらないか


ただそれだけだと私は思っている。




やれば、


いつか必ず終わる。


進めば、

やがて必ず辿り着く。




そうだと知った上で、

行動の違いとはそれだけのこと。




……まったく、

一瞬一瞬が選択の機会とはよく言ったものだし私はよくもそんなものを選び続けてくる意思を保ったものだと素直に感心するよ🌸


誰だってそれはしんどいからね。

それでもその道を進ませるのは勇気でありそれこそが内なる神聖性の発露としての資質の1つだと私は信じている。




きっとこのような表現はあのカードを理解することができる自分を与えたような人生の持ち主である人間には身近なものだと思う。


……これは変な表現だけど(笑)

しかしこの上なく正確な表現でもある。


英文だった時に訳すのが難しそうな表現だね。



実際これは、
自分自身を信頼すること
それに直結している。



だから私は思うんだよ。

きっとそもそもこのこのカードに記されていることが理解できる体験を自分にもたらした人生を持つ人間以外であれば、

たぶん



そもそもそんなにも人生を生きることのために勇気が必要なのか?



って感じるものなんじゃないかなって。




その答えはYES。

常に自らによる問いかけがある以上恐れについて鈍感になることは不可能だから。


それは鮮烈な感覚として非常に多くの機会……特に無意識の恐れを刺激されるような体験に遭遇した際に発動する非常に強い呼びかけのようなものだから。


それを内なる神聖性からの声と表現するならそういうこと🙆



だから私たちは内なる真実性とその真逆にある偽りの自己像を見た時に必ず自分が恐怖していることに気付かずにはいられない。



……その意味が理解できたなら、

一番必要なのは勇気ということも十分に理解できなくはないと思う。



それは決して自分自身を騙すことができず裏切ることができず偽ることができないという意味でもある。

……実際にはそういうこともやってやれなくはないのだろうけどあまりの苦しさにまだマシな方を選ぶことになるだろうから。



それを霊的に意識が覚醒した状態と表現するのならそういうことなんだろう。

すぐに心が真実と偽りの間で揺れ動き恐れに襲われてしまうというような状態は

極めて未熟な状態なんだけどね?



そしてこれは一朝一夕でどうにかなるようなものでもない。


なぜならそもそも、


傷付くことが怖いのに
真に自分らしく生きることを願い望むから。




なぜそんなにも恐れるのか???



それはきっと、

真実であるものと、その前に立ちはだかっているあらゆる偽りであるすべてに無意識のレベルで気付いてしまうからだろう。


程度の差はあるかもしれない。

……だとしてもそれは決して無視できるようなもんじゃない。



もしそうなら、

あなたは違う。


人間としての私はそう答えるだろう。




それを無視できてしまったなら、

それは全く違う。


そんなことができないから!!

そんなものを自分が本当に真の意味で望むわけがないと知ってるから!



だから気付かずにはいられない。


なぜならその感覚を否定するということは既に自分ではないなにかになるということだと知っているから。



だからそう……強いて言うのなら、、、



他のすべてを裏切ったとしても真の自分だけは決して裏切れない。



怖いからと逃げ出し続けることはできないんだよ。なぜなら無視することと忘れることもできないんだから。


もしそれができたなら、

それでもよかったのかもしれない。

そして別人のように生きたことだろう。



でもそうじゃない。

自分にはそれができない!!



ならそれを受け入れるしかない。

……仮に生きることが苦しみでは無かったとしてもそれでも生き続けることが必要で必然なのだとしたら必ずそんな自分に折り合いをつけていくが生きるために必要なことになる。


そんな脆く弱く不安定な意識状態のままでは自分の心が擦り切れて潰れてしまうか死を迎えるしかない。



だからそんな絶望的な未来を受け入れられないのならそんな自分に折り合いを付けられるようになっていくことは必要であるがゆえに必然のことになる。




それが私が生きてきた世界の色。

勇気を知る必要のある者として見てきた

必然の人生のリアリティー。





だから私は人間としての自己の本質を示すのだとしたら必然であったコレを選ぶ。

つまり、それが勇気。



ある人が示していた、


はるか幻想を越えていけ と。



きっとその時の私はそれに純粋に憧れたんだと思う。


別にその人は私みたいに怖がりだったり臆病だったりその必然的な反対的な資質の表れでもある勇敢さとか蛮勇みたいなものを特に示していたわけじゃないんだけど、



私の意識にはその言葉が焼き付いているんだと思う。



そんなつもりの言葉じゃなかったのかもしれないし、私が思ってるニュアンスとは少し違うような物だと語られていた気もする。



ただ私にはそれが励みになった。



自分と同じような世界を見て生きている人間が実在し存在している……



たぶん私はそれがすごくすごく嬉しかったんだと思う。



だからきっと私は、


傷付くことが怖い自分のままで魂を込めたメッセージを発信している。



そういうことを強く望んで取り組んでいるように感じてる。



恐れを知らない者には

勇気の意味はわからない。


それは必要ないから。

神聖性からの呼びかけのような内なる声を知らない者に神からの呼びかけの意味はわからない。


たとえそれを聴いていたとしても、

それに従い共に生きるということをしなかった者にその意味や価値はわからない。




それを実際に体験していない者にその意味であるもの実感でありリアリティーであるものは絶対にわからない。



だから私はその意思を一度だけ認め、

だから私は迷わず否定することができる。



あなたは

私とは違う。


私のことを理解できるわけがない。

そして私もあなたのことを理解できるわけがないんだよ。





なぜなら今の私がこの先へ進むためにはそれこそが必要でありこの先にはソレを連れていくことができないから。


だからここで一度だけ認めて、

私はそれをここに置いていく。





そう、私は怖いんだよ。


自らが傷付くことが怖いんだし、

自分が誰かを傷付けることも怖い。

そして……

誰かが傷付く様を見て自分が傷付いてしまうことが何より怖いから。





私は傷付きたくないんだよ。

私は傷付けたくないんだよ。

私は自分自身が傷付きたくないと感じてるからそんな想いを呼び起こすようなことは何一つ見たくないんだよ。



それでも見るのを止めることはできない。



……それはなぜなのか?



それは自らに導かれ示された必然でもある

勇気の道を進んだ者だけが知っている。


なぜそれを恐れるのか?

恐れにどう対処することができるのか?


それを知っているのは、

それらに直面して直視したから。

だからそれが何であるのかを知ってる。





それが私の意思。

決して偽ることも裏切ることも忘れることもできない私が私であるための存在証明。


私はあなたの意思を認めないし

絶対に私の意思を否定させたりしない。






……傷付くことが傷付けることが怖いのだと感じていた時にはわからなくても、


それを全身全霊でやってみればわかる。

それは十分に誠実さと呼べるものだと。



ただ自分がそれを受け止め受け入れることができなかったから勝手に傷付き続けてゆくしかなかったのだと知ることになる。





それがわかったのなら、

受け止めて受け入れればいい。



一時的に傷付くと感じられることはあったとしてもそれをずっと引きずり歩いたりはしなくてよくなるから。




もし本当に自分がその道を進み続けなくてはならないのだとしたら必ずその道の果てにあったものが何であるのかを知っているに違いないだろう?


そんな考え方はただの気休めに過ぎないようなものなのかもしれない、


だとしても!!



決して自分自身を騙すことができず裏切ることができず偽ることができない


と知る人間であったなら???



その可能性は確信に変わる。

なぜなら“それしか道はない”ということを知っているのと同じことだから。




自分自身を信頼するというのはそういうことなんだよ。



それが唯一、自分が自分であるための内なる力に引きずり回され追い立てられるかのように生きることが必要な人間であった自分にとって救いとも呼べる考え方であり、


内なるビジョンに突き動かされ生きることを止められない人間がそれを安心して受け入れることができる1つの理想的な世界観のようなものだと私は実感している。





だからそういう意味では私は、

果てしなく傷付き続けてしまうことが避けられないような、それでいて真に勇気を知ることができるような同じような人間の力になりたいと思っているんだと思えるんだよ。


だってそれは同じ世界の住人だから。



それ以外が嫌なのかは知らないけど、

私にとってはそれがホームで最も無理がなく理解される馴染み深い世界観の1つだから。



だから人間的な私は求めている。

同じような世界観の住人である者とより深く想いを分かち合ってそれらを最初から示されていたように内なる神聖性の発露という領域にまで押し上げたいと望んでいる。


そしてこれは比較的浅い意識……分離的な私としての人格や意識を極めて強く残している部分だから合う合わないや好き嫌いにも近い感覚が当然の権利としてそのまま聖邪の判断もなく認められるような領域の話。


ここには直接的には神聖性は関係ない。


だから合う合わないの感覚はそのままに認められ合う合わないは存在し、

その上で超自然的に互いに認められ得る可能性のみが欲しいのである(笑)



それ以外のものはいらない。



もちろん私だってそんなものをやたらに他者に求めるつもりは無いし相手が自分に求めてきてもそれは違うと答えるだろうよ?




でもそれらを認め受け入れていくことが今の私には必要で、言うなれば私の成長段階としてはそのような体験こそが学びになる時期なんじゃないかと感じてる。




そう、それがコレのこと💡




これ自体は何度も見てるし、

ブログ上でも扱ってる。



これは以前はこんな使われ方をしてる。







なるほどねぇ。

そうやって使われるんだなぁ……(゜Δ ゜)





コレはアレだね、

いわゆる、


自分以外の誰も本当の自分らしさや幸せに責任は取ってくれないだろ?

だから私は他者の期待や思惑とは関係のない所で生きるんだよ。そして他者にも同じものを求めるんだよ。これで平等でしょ?



みたいなアレですね(笑)



なるほどねぇ。

たとえ善意に見えても自分の真の望み以外のものには首を縦に振らない。


なぜならそれこそが自らに示された聖なる道とそこにある流れを保ち生きる術だから。





……うん、そうだと思う。

私も間違いなく確実にそうすること=そうであることが超自然で本来なんだとわかる。


だから私は他者の思惑を必要である限りは裏切っていく

んだけど、





ど、




きっと今回の話はそこからが本題😃💡


←前置き、長いですねぇ~?

→仕方ないよ。自分の見てる恐れ一時的な幻想やらブロックやらである物に取り組みながら本題である話を扱ってるんだから時間がかかるのは不可避であり仕様。

それは詳しくて手が込んでる話とも言えるんだね★


なんにせよ杜撰な仕事よりはマシ。





そもそも私自身が

恐れを見ずに生きられる自分


みたいなものを非常に強く望んでるから

そっちが最優先なのは飽くまで決定事項。



よってソッチ=私個人の取り組みが終わってから比較的メッセージ寄りな方向の話が初めて現れてくる、

そういうことなんだよ、


それは現れてくるものなんだよ。

だからそのために


現れられる状態を整える



ということに終止するのは当然のこと。

もともとそういう目的の行動だからね。



そしてそれは舞台裏の話だからハイアーセルフ的な意識を採用しないなら全く関係のない話だから人間にわからなくても大丈夫★





実際上の前置きという話によって、

私の感じていた漠然とした恐怖感みたいな物はかなり薄くなったと感じてる。




なぜ、何を恐れていたのか?

がわかったから!!



だから自分が本当はどうしたいと感じているのかということもわかる。


これは割とハートの領域のこと。

だから先にエゴ的な恐れや不安や混乱で意識が埋め尽くされていた状態をなんとかしてやることが必要だったとわかる。


つまりそれが↑の前置きの意味と価値。



そう、私は↑のカードに示されている


明晰さと目的を見いだす



ということができるようになった😃💡




そうして理解するのは、

2枚目のやつ、

↑↑のが遠くなったので(?)貼り直します




私が考えているこの件、

ヒントは2枚目のやつにちゃんと書いてありました!!




……そう、確実に私は


恐れの中にあって闘う!!


ということをしようとしていたのです。


エイブラハムの“幸せな川下り”の話

を思い出しますね~。



……私はそれが苦難として試練として用意されているのだと思ってたけど、なるほど、


なぜなら今の私がこの先へ進むためにはそれこそが必要でありこの先にはソレを連れていくことができないから。

“ソレはこの先には連れていけない”



とはそういう意味

だったのですね!!!(゜Δ ゜)💡





なるほど………………なるほどなるほど。



実際“コッチ”にまで来れてしまえばむしろ

一番難しいのはあの局面



だということがわかります。

……いやだって鮭でもないのに本当に川上に向かって必死で泳いでる感じだから😂



私は目が覚めたような思いでした。



自分がなぜ何をして、

何に導かれ進んでいたのかが思い出せるようになったからです!!




そう考えると3枚目のカード、

深いなぁ~!!




なぜ自分が特定の行動をするのか

明らかにする!!



……なるほどこの記事の前置きの部分では私はそのようなことをしていたのです。



もちろん私は気付いてませんでしたよ?😃

それは波動的にも二元性のリアリティー的にも絶対に認識できない


既に失われてしまった可能性

だったのですから復活して初めて現実味を取り戻すものです✝️




……そしてそのような喪失者の記憶の中にあっては、


頼りになるのは内なる声だけで、

そしてそれはか細く非常に小さな呼びかけとしか感じられないのかもしれません。



……そりゃあそんなものを信じて行動を起こそうと考えてる自分を奮い起たせるためのありったけの勇気が必要なのも無理ないし、


そんな中で自らの内なる声を信頼するってのはかなりの意思力が必要になる。




……恐れを実感してる時にやってみ?

みんな私↑みたいになるからさ?





うん、

でも、それは終わった。


実際私はもう既にそのひどい勘違いな実感を見てない😃☀️





今回は奇跡のコース内で説明されてたソレというよりも、エイブラハムが語ってた幸せな川下りの方として実感しました。


いずれにしろ私の知覚であり認識はシフトして悪夢的な試練的な認識から聖なる流れや豊かさとして再認識されることで答えに到達し決着したのです。





……さすが、

自分が一番恐れているものだと自覚がある部分をありったけの勇気と鍛えてきた自己意識を糧に掘り進めて貫通した

だけのことはあるという感じ(゜Δ ゜)💡




よって問題は消え失せました。

そして奇跡のコース的なスピリチュアリティの実践とエイブラハムの教えとかスピリチュアルというよりは形而上学的な学びや取り組みが計らずも1つの道として合流して一致したことがわかったのです!!



この体験によって私はこれら2つの霊的な教えと学びの道は十分に互換性があるということがわかったので好きに切り替えて使える可能性を得られたのです☆


これぞ実践による叡知の獲得!!



実際に私は間違いであるものを見ていたのは確かだけどその中にあっても1つの間違いも犯さずに答えに辿り着くことができた!!



これを聖なる流れや道と呼ばずして他に何と言うのか。

そしてこのような方法論によって実在性の光や聖なる流れが見えなくなってしまった時でも内なる灯火を頼りに正しい道を進むことができるとわかったのはとても大きな収穫だった………………



……さすが、自分が一番恐れているものだと自覚がある部分をありったけの勇気と鍛えてきた自己意識を糧に掘り進めて貫通しただけのことはあるという感じ↑





終わったので終わりです。