経験なスピリチュアリティの実践者でも奇跡のコースを生きることそれ自体を目的にしなくていいんだよ。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

今の私 先月末の終わりくらいから明確に奇跡のコースな方に意識が戻ってきていて、


そして今現在は特に神の教師というものについて夢中になっているように思うのです。

(笑)



まぁ無理もないと思うのですよ。


それを一番強く実感した6年前の春から、

たぶんこの時期までそういう感覚にもも








。。。

なんか書いてたらアプリが謎のクラッシュをして残ってたのがあの部分↑までだけだったので仕切り直しました(゜Δ ゜)



なんであの部分まで???




そんなことを思いながら、続けます。





私は奇跡のコースをとても好んでいるように自分でも思うけど、


実際にはテキストである物も前回の記事でリンクを貼ったページでネット上に公開されてるものを一通り、しかも一度だけ読んだ程度のものなのです。



その存在自体は10年以上前には認識していたけれど、二十歳過ぎくらいの私には全く非現実的で理解も不可能に近く実践に至ってはほとんど不可能な代物でした。


さすが永遠の時間の中では誰しもがいつしか自ら取り組むことになる学びというだけあってとてもじゃないけどまだまだ若い人間であった私には受け入れられない部分の方が圧倒的だったのです💔


特にワークブックのレッスンとか、

最初から怖くて恐ろしいじゃないですか。



今となっては全く、

6年前の私でも別に特に、

そんなに恐ろしい物だとは感じなくなっていたけれど、


少なくともその存在感に初めて触れた13年ほど前の私には信じられないほどに恐ろしく拒絶感や忌避感を呼び覚ますようなものだったのです!!



死に触れる感覚って言うんですかね。

そういう本能的に非常に危険だと感じたことだけは覚えています。



だから準備ができてない人間にとっては奇跡のコースの教えなんてのはある種の危険思想にしか思えないのは予想の範囲内です(笑)

たぶんそれは正常な反応だと思うし。



……もしその教えを喜んで受け入れるような奇妙な人間なんてものがあったとしたらきっとその人は信じられないほどの失意や絶望に染まった悪夢な世界を生きてきたと感じている者なのでしょう。



私は経験者だから思うのですが、

そうでもなければあんなものに自ら望んで触れることなんて人生でたった一度も訪れないようなものだろうから。



だって死の恐怖と同じような感覚を味わうのは本当だと思うし。



それでもその先に進みたい。



……そう思わない人間には意味を成さない物だと私は思っているから。










そんな感じでわざわざ自ら望んで熱心だったり嬉々として?学ぶような機会は私としては実に6年ぶりくらいの感覚なのです😃


もちろん“望んでないけど必要だから”取り組んだ時期は何度もあります。そもそも私のこのブログなんて大部分はそんな記録だったのでしょうし┐(´∀`)┌









そうして思うのは、


6年前にたった一度だけかなり頑張って一通り読んだ程度の奇跡のコースのテキストに記されてあった話や情報考え方という物は不思議なくらいに記憶に残っているというか、


後から後からどんどんと思い出されてくるというような不思議さを実感しているのが現在の私の感覚なのです(゜Δ ゜)💡



何て言うんですかね、



この時のために私はあの時に無理矢理にテキストを読んでいたのか!!



って感じるような(笑)

6年の時間差を待ってようやく情報に過ぎなかった物が知識となり叡知に変わっていく不思議体験というか。


別にそれ自体は何も珍しいことじゃないと思うんだけど、



でも、面白いのですよ✨



なんでかって言ったら、

その感覚が悪夢的な意識の中で体験されような物だったとしても自分にとっては身近な話で面白いくらいに理解できるから!!



ほら、お勉強でも得意な科目って不思議と楽しく感じるじゃないですか。

面白いくらいに理解できるから👌✨




強いて言うなら私が熱心なスピリチュアリティの実践者でもある理由はそれなのです。


私はそこら辺の話が不思議と面白いくらいに理解できたり共感するような体験やセンスがある人間だったからそれらを学ぶこと理解を深めることはとても楽しいのです。



自分が必要と感じることを学べる時間って嬉しいし楽しいでしょう?



そしてそれを可能とするために不思議と面白く感じるように仕組まれている。

という考え方もできるんですね。


宿命論みたいなやつですかね😃




そういう意味では私は、


別に自由意思なんてものが存在しなかったとしても何も困らないでしょ。



くらいに思ってる人間でもあるのです。



だって“この世界”であり時間の中で起こり体験される出来事ってのは、


どちらかと言えば完結した物語の残像というか再生映像みたいな物である可能性の方が高いと私は感じることが何度かあったから。




だから私は思うんだよ。



選べなかった可能性、

選択できなかった行動、

果たせなかった約束、


私はそれらは有るのに自分の力不足で選べなかったと信じていたけれどそもそも最初から存在し得なかった可能性だったと理解した方が自然なのかもしれない。



そう感じてる。



そしてそれ自体は六年前の私でも既に感じていたものだった。

なぜならそのような体験ばかりがしばらくの間~数年ほど私の目の前の現実として繰り返されていたから。



前回のこのページで解説されてる↓


第三の段階から第五の段階?くらいまでのことだったんだと感じてる。




たぶんさすがにこれは経験者以外には役に立たない情報なんだろうけど、



自分の意志や理解を越えた神聖な力であろうものによって人生が支配されるようになってしまってすんごい死ぬほど苦しくて困ってるって人間には信じられないほど役に立つと思う(笑)




それに何より!!

私はこのことを扱いたいと

ずっと思ってた!!


少なくとも6年前から!!





だってそれはもう私にとっては生きる道と呼べるようなものだったんだから。



既に望まぬ失敗と罪を重ねてしまった絶望感や失望感や恐れや嘆きで完全に心が埋め尽くされていたような6年前の私にとっては、


なぜそのような経験をしたのか?

そこにはどんな価値があったのか?

それによって何が得られたのか?



それらを確信と共に知るとは、

まさに本当に天啓であり救いとしか呼べないような体験だったから。




その後に私が奇跡のコースを究極的には全く疑わなくなるのも当然のこと。


だって私は実際に救われたから。


“この世界”は私を救わなかったし、

“私”も自らを諦めた。



だから少なくともその2つは全く信用できないってことを私は知ってる。



それが私がエゴな自己意識のすべてと偶像を全く信用してはいない理由だし時が訪れたなら無条件に投げ棄て手放すことが当然だと思ってる理由。


それは私にとっては当然のこと。

だって全く信用できないのは本当だから。


あの時から既に

私は“私”のことを全く

信用していない

んだよ。



その件に関しては

本当に“全く”信じてない。



だから実際に事あるごとエゴで自画意識である自分を粉砕し燃やし尽くし抹殺し滅殺し消滅させようとしてきた記録が数える気にもならない程度にこのブログ記事として残されているんだよニヤリ



そして“その時”ってのが来たんだろうね、

あれから6年経ってようやく。





エゴであり自我であり分離の悪夢なリアリティーを見てる私は全く信用ならない。


必ず意図的に

間違ったことや悪意を口にする人間



くらい信用ならない。

……実際にはそんな不要なことは避けたいのでひたすら沈黙するけど。


間違ったものしか見えない



その時には沈黙することも何も判断しないこと行動しないことが唯一の正解なんだよ。




だから私は私を信用しない。

だから私はその私が認識し見て考えることを全く信用しない。



それは分類的には分離意識そのもので無条件の愛や真実性を否定する私が望む神の教師としての自己像や在り方とは真逆の意識にさえ思える。



でもさ、それは仕方ないし、

不可避の矛盾なんだよ。



コースのテキストの中でも何度でも繰り返されてたように思うけど、



正気を失った自己意識が信用できるはずがないのは事実だしその考えは正しいし、


少なくとも分離意識でエゴな思考体系の自分である時点ではそうするしかないんだよ。



何て言うか、こう、



一気に聖霊の意識や視点には戻れない。



っていう、

そんなリアリティーがあるんだよ。



それが悪夢の世界を抜け出すために順番に学んで下から上に向かって梯子を登っていく必要があるみたいな話なんだよ。



少なくともまだ順序や序列やレベルが見えてる状態ではそれらは確かに有効なものとして扱うことが必要なんだよ、



究極的には全く存在しなくても、


分離な時間を見て体験してる自分”を救い出すためにはそういう長い手順や正確なプロセスみたいなのが必要になるんだよ、


だってその人間な自分は時間の中に生きているんだから。


消え去るまでは幻は有効



っていう鉄則というか現実感があるから。




実際にソレを無視して一気に聖霊の元に戻ろうとしてもほぼ確実に不可能🙅


できたとしても一瞬のこと。

その瞬間はそれでいいけど、


またすぐに時間の分離を見る自己意識に戻ってきてその落差による悪夢性はより一層鮮やかに感じられて苦しみは増すばかり……



まぁそれが強烈な原動力になるんだけど。

超しんどい。


アレは何度経験しても完全に慣れるということは性質的にほぼ不可能なんだと思う。


だってそれは永遠の時間の中でははるか昔から繰り返されてきた年期のはいって育て上げられた悪夢だから(笑)





だから私自身はかなり学びたいんだよ。

それは私にとって確実に有益だから。


混沌の法則”みたいな話とかさ、

当時はあんまり理解できなかったものも今となっては十分に理解できるだけの経験を得ているだろうと感じるから。



そしてアレ、

めちゃくちゃ情報が多い。


同じことを異なる視点や表現法方で説明しているだけ


なのだとしても、

アレなら確かに奇跡のコースのテキストを一年かけて読みながら同時にワークブックのレッスンに取り組んでいくくらいがちょうどいい内容や長さだと思う。




テキストをもう一度読み返したいですか?



って問われたら、

あんまり読み返したくはない。


って答えます(*ノ・∀・`)



いやだって、

表現や世界観がかなりアッチな文化だから私のセンスとは一致してない部分ってのは確かにあるんだよ。



幸せな夢とか、

幸せな学習者とか、

上に書いた混沌の法則の話とか、


私自身が実際に体感してきたと自覚してる物の話は理解できて結構楽しいよ?



でも神の子な兄弟のリアリティーの話とか

6年前の私にはほぼ完全に理解できなかった部分とかは読むことさえ難しくて苦痛に近いって感じてたことは覚えてる😂



スピリチュアリティの実践ってすごく

そういう所があるじゃない。





だからたぶん私自身は奇跡のコースの教えとかそれ自体を誰かに対して教えたいとは全く思ってないんだと思うんだよ、


だって準備ができるまでは苦痛だから!




そしてその“準備ができる”ってのも、



熟達した”という意味ではない。

って話が教師のためのマニュアルにも明確に示されてた気がする。





実際に私も生来の持って生まれたスピリチュアリティなセンスとしての信頼みたいな物は15歳くらいの頃には自覚してたけど、


それは究極的な話



そしてもしかしたら、

私が一番最初に“この世界”に目覚めたと感じていた14歳の頃には既に

学ぶ準備ができた神の教師として、


↑のリンクで示されてるような信頼の発達過程のプロセスの中にあったのかもしれないなって思う。



だって実際にその時期を境に急激に私はそれまでの自分の考え方を否定したり全く異なる意識や視点で見て考えるようになったし、


それまでは価値があると感じていた非常に多くのものが色褪せて消え去ってしまったように感じていたから。


その頃までは私にも人並みの夢ってのが一応はあったんだよ。メディア関係とかね。





ちなみに人間が神の教師としての意識に目覚めることに関しての判断基準?みたいなのもマニュアルには示されていて、

意外とその基準はかなり緩いように私は思った記憶があるのです(笑)



……なるほど、それなら誰しもが神の教師たりえるんだし永遠の時間の果てに行き着く所は同じなんだってのもわかりやすい。









そして今の私に示されてるのが、



“神の教師”も偶像だよ。

注意してね☆





みたいな感覚があるのですね~。



うん、わかってる。

それは“マスター”のくだりで経験済み🙆





私はそれを教えたいとは思ってないけど、

なんかもっと分かち合いたいって思う!!


だって少なくとも奇跡のコースの中の教師のためのマニュアルに関しては私に深い感動や喜びを与えてくれたから!!



だから今の私はそれ……

神の教師として学び生きることの喜びみたいなものだけはすごく分かち合いたいって望んでる!!




だから私は無条件に奇跡のコースが大好きなわけじゃなくて教師のためのマニュアルが好きなんだと思うよ(笑)





だって神の教師の10の資質として示されるものを獲得するためにその人は実際に個人として何を考え何を望みどんな経験をしてきたのかとか今も取り組んでるのかとか知りたいじゃん!!


私はすごく知りたいよ!!

だって私という人間にとっての人生ってそういうものだったから。





だから私は同じ意思の者を求める。

その経験者としての酸いも甘いもを分かち合いたいから(笑)





それはそういう生き方を選ぶことになった人間にだけ価値があるであろうなにか。


私はそういう一個人な人間でエゴな自分にとっての完全な報いも望んでる。

そして奇跡のコースである聖なる学びの道はそれを十分に可能な物だと明言しているように私は感じている。



だから私は究極的には奇跡のコースな教えを完全に信頼しているんだよ。



それは私が知っているものと一致しているからだね☆



それは一見して全く違うのかもしれない。

でもその形としてのレベルじゃなくて質を見るのなら全く同じだとわかるんだよ。



ちょうど神の教師たちは見た目には全く似ていない生まれも育ちも全く異なる人間たちだけど持ち得る神聖さの質においては完全に似ていると示されているように。





私が見たいもの表現したいもの示したいものってのはこういうやつなんだよ。


ツインソウルもツインレイもそれ自体だけを見て扱うんじゃなくて、

最も聖なる学びの道においてそれらの存在感や偶像であったはずのものがどんな意味や価値を持ち得たのかそれらの

真価にあたる神聖性を私なりのセンスややり方で称え祝福したいんだよ!!



それが私を完全なものにしてくれるから。

それこそが真に私に相応しい意識や存在の仕方扱い方だと感じるから。




だからたぶん私は神の教師ってのもツインレイと同じくらいに特に大好きな幻想なんだろうし


それらも究極的には必ず幻想であり偶像と最初から知っているからやがては神聖性を宿す幻の一つと知って喜んで解放していくに違いないんだよ。





私はこのような意識や在り方表現に完全無欠な自分を感じられるんだよ。


そうそうだいたい私の本質とか実像ってこんな感じ。





それがわかる私は幸運だと思うし、

ただ幸運なだけじゃなくてその過程の苛烈さを思えば何も引け目なんて感じるわけない(笑)





そういう完全無欠な私の意識に戻ってきてから初めてこの先の生き方や活動とか具体的で現実的なことを認識できるようになるらしいんだけど今の私はそっちに戻ってくるまでには相応に長い取り組み=例えばこの記事をここまで書き上げるとかを必要とする。





そう、私は理解したんだよ。


エゴで分離な悪夢な思考体系にある私とは必ず無意味で無価値で悪意的な意識に塗り潰されているから


何もしないし、

何もできない。



そのことが、わかった。





……その理解をそれらしく翻訳すると……



本当に何か人間的社会的な行動がしたいのだとしたら

先に自分の意識を神の教師の方に向けてそこから神の子的なリアリティーを呼び覚ましてから考え直しなさい



なぜなら非実在のあなたは何も持っておらず何も見ることはできないから何も選ぶこと存在することさえできないから。


だからその状態のあなたは“この世界”には既に存在していないのだと知りなさい。






……そう、それこそが、



目覚めた者は“この世界”から消える。


イコール(?)


目覚めた人間は死ね。




という言葉が示すものだったんじゃないだろうかと!!





神の子なリアリティーで存在している私以外の状態=“この世界”では私は既に存在しておらず死んでいる亡者扱い





……知らなかった。

非実在を選んでる私って既に存在してなかったんだって。


なるほどねぇ。




ものすんご~く理解しにくいし何重にも誤解させ得る罠が仕組まれてるように見える幻を完全に無視するなら、

それは正しい理解なんだってわかった。




ちょうどこのくらいデカデカと大々的にこれでもかってくらいに常に視界の後ろに見える感じなんだよ見過ごすべき幻想って(笑)


超うっとうしいでしょう?

私の気持ちわかってくれます?😃




それを不断の集中力で見過ごすんだよ。

それをやれって言われてるわけです(*´ Δ`)




それこそが真に生きる術=神の子的な自己を選択する絶対的な理由だったんだなって。





すんごい理解が追い付いてきた。

これが私のこの6年の意味……一度は奇跡のコースの実践者となりながらもすぐに隙を見て偶像崇拝な自己に戻っていった理由。





私にはやり残してきたことがある。

だから戻らなければならない。



しかし私は必ずや勝利を収め華麗に舞い戻るに違いない。



なぜならそれこそが約束されたものであり私が今なお求め導かれ続ける可能性だから。





そのすべて 聖なるかな。







まぁそんな感じで今の私は既に神の子的な自己を自らわざわざ積極的に望み選択する用意があるということです。



これが時間の中で成せるわざ!!(?)

私が求めた私だけのストーリーなのかっ。



それはどうだろうか?




→今すぐに知ろうとしないで真に知るべきタイミングを待って完全に知ることもまた楽しいことだから私は基本的に未来的なことは断言しないんだよ。



それこそが信頼の証たる選択でしょ?