このブログ最近放置されてますよね。
前回のこの記事、
記録によれば2月10日だそうで、
もう十日も前らしいのですね🍀
その間、私は何をしていたのか???
そうですね……寝たり遊んだりしていたんじゃないでしょうか?😃
……正直、
あんまり記憶にないのですね(゜Δ ゜)🌠
………………うん、
やっぱり、あまり記憶にないのです👻
なんかもう忘却です。
しかし、
自分が一体どんな状態にあったのか?
ということはわかっているのですね💡
前回の記事の中で、
確か私は、
しかし、
この2つを見ればわかるように、
そこには大きな落差というか、
次元的な狭間や境界?のような物があるわけで、
その境界線を見つけたり、
飛び越えたりしなきゃいけないのです。
ブログが更新されなかった十日ほどの間で
私はそれをやっていた。
ということができるのですね💡
なぜならその時期はもう終わったから、
“事実”として理解できることだからです⏳️
そしてその手段の半分は、
寝ることです。
この話ですね💡
そしてそれは終わったのですが、
そうして
→私は1つ思うことがあるのです。
アンダラクリスタルって、
全くミネラルショーだとかでも2018年までは見たことも聞いたこともなかったのに、
ある時を境にそれまでも知られていたかのように現れたじゃないですか!!
だから私は思っているのですよ。
アレ、
ちょっと異なる並行世界から来た“異物”みたいな遺物みたいなやつなんだろうなって!!
実際アレ=アンダラクリスタルと呼ばれている物は奇妙な物で、
ただのガラスであれ、
天然ガラスであれ、
人工ガラスであれ、
何かしら霊的なPowerを宿……すことができるらしいのですね👁️
それは私自身が確認して体感した物です🍀
何て言うんですかね、
なんかそういう、
半分くらいファンタジー
みたいな、
そんな感じの質感だと感じるのですよ👻
幽玄の世界観て言うんですかね?
なんかこう、
ある意味では幻術の類みたいな。
なんかそういうのが私もわかり始めているような気もするのですね!!(゜Δ ゜)💡
私の言葉で言う、
“妙味”とか“ミラキュラス”
とか、
超局所的になら物質世界の理や法則だと思われてる物も外れちゃってもいいような、
どちらかと言えばある日色んな物が変質してしまうような感覚というか🌟
そしてその上で調和するのですね。
何かがとてつもなく異なっているけど、
何の違和感もない。
違和感が無いのはわかるけど、
でも変化したこともわかる。
その奇妙さの実感と
気付き!!
それがミラキュラス!!
まるで完全な世界という答えが無数に存在しているような。
見えるもの感じる物が変わるだけなのに全く異なる世界がそれまで自分が知らなかっただけで最初から存在していたかのように現れたり解放されてくるとか🗝️
それはもう、
後になってしまっては確認することも証明することもできないのですね👻
だって世界はもう変わってしまっているのかもしれないし、
ただの自分の勘違いなのかもしれない。
それを確認する術はもう永遠に失われてしまっているのだから✝️
なぜ自分はそのことに気付くのか?
なぜ自分はそれが認識できるのか?
……それは自分が起点だから。
認識する者としての役割があるから。
その“奇妙さ”の実感こそミラキュラス!
あるべきはずの世界が存在していない!
その感覚もまたミラキュラス☆
そういうのは、
私みたいな人間にはとても慣れ親しんだ世界の色や風景でもあるけれど、
しかしそれは外側の世界ではなく自らの内なる世界にだけ見えていたはずのもの……。
なのにそれがある日を境に、
あたかも最初から存在していたかのように現れてくるのだとしたら???
まるで何かの悪夢から醒めるような、
まるで何かの手品を見ているような、
まるで…………………………(不明🔒️🔒️🔒️)
私にとってアンダラクリスタルってそういう存在感なんだなって😌
もしかしたらそれは、
かつての自分がそんな何かがあればいいなと探し求めたけれど全然まったく見つけられなかったはずの何かのような、
それなのに何年も前から存在していた物としてある日自分の人生に現れるような、
そんなマジックみたいなギフト……。
そういう質をしてる気がするんだよ。
……う~ん、実に言葉にしにくい。
しかしその言葉にしにくい内側の完成された心の聖域みたいな世界観をダイレクトに象徴してるかのような色や質というのはやっぱり見慣れた物で😋✨
そういう物なんだろうな~って(笑)
そう思うんだよ。
私の存在感もそういうことなんだなって。
ふと思ったんだよ、
私がこうやってやたら評価されないような密かな存在感として置いておかれてることにもまた妙味だったり聖なる封印だったりある種の完全な守りとなる制限がそこにはあるんだろうな~って(*´ Δ`* )
私の方からも外側の世界に容易に手を出せないんだけれど、
同じくらい外側の世界からも私に手を出すことはできない。
……なんかこう、
丁寧に育てられてる野菜
みたいな。
私が“レタス”を名乗ることを思い付いたのも偶然じゃないんだろうな~って。
なんかそんな感じな気がするんだよ、
別の表現で言うなら、
どこかに羊飼いってのがちゃんと居て、
私は飼われてる羊なんだろなって。
人間とかこの世界の産物じゃない、
もっと根源的な領域のものというか。
たぶんそういうのが私の世界観……
私のホームグラウンドな色とか感覚なんだろうなって感じるんだよ。
神の子って言うか、
同じ畑で丁寧に育てられてる
神の野菜
みたいな!!
……そんな感じなんだよね。
究極で完全な支配下にあるからこそ、
伸び伸びと育つことができるような。
究極で完全な力を受けているからこそ、
同じ畑の異なる野菜の兄弟たちとも共存することができるというか🍀
じゃないと無理でしょ???
自分の必要な物が完全に与えられていると信じられないのに誰かに分け与えるなんてことをしたら欠乏してしまうでしょう?
兄弟だって同じこと。
欠乏という概念や記憶が完全に消えてなくなるためには、
すべての兄弟である野菜たちにも完全に手入れや栄養が行き届いて日光もバッチリ受け取れて安心して育てられていると信じられるからこそ、
減ることも欠乏することもなく完全に受け取り安心することができるでしょう?
そういう意味で、
完全に自らが受け取ると同時に他者にも与え受け取らせる必要があるんだよ。
そうしないと、
どこかの誰かである野菜の兄弟の一人でも不足や欠乏を実感しているのだとしたらそれを認識してしまった自分も不足や欠乏を実感してしまうから!!
だから自分だけじゃなくてすべての者に完全さと真の自己の記憶を呼び覚ましてやることだけが自分にそれらを受け取らせる術になるんだよ。
そうなった時に他者も兄弟になる。
他人だろうが知人だろうが自分の世界にあってその存在感を認識するなら自分の世界の一部になるんだから❇️
何を与えることができて
何を与えることはできないのか?
本当に与えるとは、
一体どのようにして可能とするのか?
それが聖なる知恵ってことになる。
そんな謎の神の野菜畑の兄弟話から読み取っていくと……
永遠の悪夢である幻影のヴェールを剥がしてその向こう側に隠されている真なる完全な自己や至高の夢を開くための聖なる知恵
を象徴している……
とか私は表現しようかな❇️
このわかりにくさ……
アンダラクリスタルの説明っぽいでしょう!!😆✨
なんかね、
“神の子”とか言われると三位一体の教えとかテンニマシマスワレラガチチとかいう言葉に馴染みがない私のような人間にとっては全然ピンと来ないわけで(゜Δ ゜)💫
いっそのこと!!
この世界のすべては1つの畑で!!
資源とか富や豊かさとは同じ畑に植えられた野菜である自分たちが育つための養分や日光や水みたいな物だと考えた方がよほどわかりやすい!!
同じ畑の野菜だけど、
種類は違う!!
品種が違う!!
色や見た目の形が違う!!
そうだ僕らは野菜なんだ!
……私はワンネスの実感を、
初めて土っぽい感覚で実感したらしい。
どちらかで言えば、
私はワンネスの実感は境界面がゼロになって同じ1つの泡の中にあるような、水中にある時の水のような感覚の方が強かった。
上……土から出た部分見ればバラバラの存在だとしても、同じ土に植えられた仲間……それは確かなこと。
だから思いやりとか愛を持とうぜ
とかいうのは私のセンスじゃない😌
そういうのは自ら持とうとしなくても勝手に呼び覚まされるような物だから、黙ってそうやって愛を見ることを選べばいいだけ。
そうやって愛を知りたいと願う想いが強ければ強いほど、どうやって愛を知ってゆくことができるのかを知るための機会が厄介事みたいな感じで向こうから運ばれてくるし、
場合によっては自ら窮地に追い込むような感じで潜在能力を引き出すための挑戦を受け取ることだってある★
私は1つの本物……
本物と呼べる聖なる幻想を示したい。
なぜなら形あるすべてとは夢の器でしかないと私は知っているから。重要なのはそれらの器をどのように扱い何を求め何を得て体験したり実感するのか。
私はそれを知っているから、
それを忘れることはできない。
だからきっと私は、
どれだけ自らの力量や成長が追い付いていなかったとしても自らに真に相応しいはずの神の畑の野菜である自分に相応しい神器を求め受け取り完成させていくに違いない。
それが私の素晴らしい資質。
それこそが私という野菜の真価。
私はこの世界に対して私という1つの完成品をあるべき形で示したい。なぜならそれこそが私を私とする意思だから。
きっとそんな私には、
もっと多くの完成品の1つとなった仲間たちとの縁が用意されているに違いない。
私はそれらも見てみたいのです。
だからこそ私は常にそのような仲間たちに恥じない相応しい自分でありたいのです。
やがてこれらの意思が時間を追い越してゆく時がやってくる。それまで私は嘘つきだったり大風呂敷でビッグマウスで身の丈に合わない理想や願いを抱いて力尽きた死に損ないのように過ごす時期だってあるかもしれない。
しかし永遠の中にバラバラに封印された不滅の聖なる意思を見つけ出せたなら、
そのすべては私のものになる。
私がわかりにくいのは仕様。
だってそれがミラキュラスを象徴するってことなんだから☆
わかりにくいのだとしても間違ってるわけじゃないんだよ。無理矢理言葉にするならそれを理解できない人間の方が間違ってると考えた方がどちらかで言えば合ってるんだよ😁
別にそれを知りたくない人は理解しなくていいんだよ。ただの毒かも知れないから(笑)
私はそういうのは明確に答えるよ、
だって知ってるから。
既に知ってる自分を知らないフリはできないんだから。
私はそういう自分に慣れたみたいだから、
たぶん今度はそういうミラキュラスなリアリティーや世界観で何か楽しく遊べないかなって考え始めてる☆
理解されるかどうかは重要じゃない。
重要なのは自分が真に何を願い何を必要として何を願ってなくて何を必要としてないのかを正しく知っていること❇️
たぶんそのくらいでいい🌠
後は神の畑の至高の野菜に相応しい自分であればいいだけ。
チマチマした幻想なんてストーリー上の設定と知って超えてゆけばいいのさ。最初は1つ1つ躓いて信じられないくらいに時間がかかって自分は無能でゴミのようだと思うかもしれないけど、慣れれば呼吸をするように不必要な想いってのを認めて手放して赦してやれるようになる。
そこまで来たらその取り組みは確かな祝福となっていることを実感できるはず。
もしそれに誰も気付かないにしても、
自分の世界を住みよいものにしてゆける力ってのはとても素晴らしく価値あるもの。
誰にも理解されないからこそ、
誰にも認められないからこそ、
目の前にない世界を見ることができる。
既にあるはずの世界をより強く求め具現化させてゆくための意志を得ることができる。
そして意外なことに、
そうして非常にとてつもなく信じられないくらいに理解しにくかったり言語化困難に感じていたはずのソレらってのは、
上手く言葉や形に表現できるようになった時にはまたまた信じられないくらいの人間が同じようなものを感じていたということを知ることにもなるに違いない……。
なぜなら私たちは繋がっているから、
たった1つのスピリットを共有している存在なんだから。
そこまで辿り着いたら、
かつては恥じるだけだった想いや悩みと感じられていた物だって誰かにとっての道しるべとなり導きとなり支えとなることだって当然のようにあるんだよ。
だからこそ自分を隠さない。
完成してからのカッコいい自分だけを見せるんじゃなくって、
むしろその途中にある無理難題や絶望的な状況をどのように越えていったのかを示していくことにこそ価値がある。
だってそれは最も恥ずかしい記録だから。
誰だって隠したいものだから。
黒歴史が日々量産されてゆくように思える時期の自分なんて受け入れることは容易じゃないんだから(笑)
そのすべてが私の真価を示す。
意外に思うかもしれないけれど、
それを見る者があればこそ私の取り組みは偉業となり評価され喜ばれ祝福となることができるのだから、
まずは私の可能性を知る誰かに受け取ってもらわなきゃ話が始まらない。
実際に私はそれが誰なのかわからないし、
私からは見えない。
それでも、
それを受け取ってくれた誰かが私にそれを教えてくれる。
だから自分を解放しておくんだよ。
気前よく自分を見せていくんだよ😊🌸
私が真に願い望むものが何かを教えてくれるのは私からカギを受け取ってくれた誰かなんだから。
それは聖なる計らい。
だって私からは本当に見えないしわからないんだから👻
そうやって、
自分からは何も見えない状態の中でも、
あなたはどれだけ聖なる意思や力というものを信用して自己を隠さずに解放したままにしておくことができますか?
それが私の挑戦。
それが挑戦としてのこのブログの意味★
真に聖性を望むのなら、
自らの無罪性を証明しなくてはならないのだけれど、
それはつまり、
自らには恥じるべきもの隠すべきものなど1つもないのだとそのすべてを認め開示することによって自分が恐れるものなんて1つもなかったと知ってゆくという試みによって初めて可能となる実践の道でもある。
そしてそのために役に立つのが他者。
特に私みたいに、勝手な思い込みの中で他者に断罪され罵倒され侮られ見下され恐れられているかのような強迫観念に取り憑かれてしまっている人間には特効薬のような、しかし諸刃の剣のようなテキメンに効く聖なる挑戦と呼べる物でもあるわけで😂
そう、
だから私は解放が得意なんだよ。
それはこの二元の世界的にはマイナスであり引き算の性質となる。だから私はマイナスの豊かさやマイナスの神聖さをよく知っているに違いないのさ。
そしてそれは反転した虚偽的な私の自己像に過ぎないから、役割が終わったら脱け殻として脱ぎ捨てるだけだし、必要になったらまた着直すような着ぐるみみたいなもの(笑)
二元世界的にはプラスの方が真実性を象徴してるから、マイナスを司る……みたいになってる私みたいなのは損な役回りを引き受けたかのような気分で居ることの方がはるかに多いんだろうけど、
しかし貴重な存在でもある❇️
物事が複雑になった時、
何が正しいのかわからなくなった時、
正しい答えが欲しいと思った時、
マイナスで引き算の力は役に立つ。
調子がいい時であれば、
それは本当に役に立たないものなのかもしれないけれど┐(´∀`)┌
誰しも役回りってのがあるもんさ。
私はなにもしてないように見えて、
余計なことをしない。
ということをしてるわけだ。
知るべき者はわかれ。
そうじゃない人は必要なように思えばいいだけなんだし、
いずれにしろそれは
私にはわからん。
それは私からは見えない部分👻
私の知らない所で勝手に必要な素材として使われればいいというだけのこと。
きっとそれは本当に知る必要のないこと。
何でも知る必要なんてないんだから🙅
まぁそんなこんなで、
これらのアンダラクリスタルさんたちが扱えるようになったわけです😃✨
なんかよくわからんけど、
レムリアンアンダラクリスタルって名前が付いてるやつだけが本物(どういう意味かはわからんけど)だと思ってる。
いやもう、
なんていうかファンタジーなんよ。
綺麗なファンタジーってやつだね😁✨