オー、イッツァミラキュラス!!/意図的に禁じていた“キリスト意識”や復活という言葉に遭遇する時に | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

今現在、

複数の資質だとかブロックが解放されてゆくような絶賛好転反応状態だと思うのです。



……それもあってか、

前日も身体がガッタガタでなぜか筋肉痛みたいに緊張して寝られないとか、

その他にも顔がシワシワしてヨボヨボするような感覚がかれこれ1週間は続いていたりだとか(*´ Δ`* )🍵



割と勢いよく駆け上がってきた感じだったように思うのですね、

振り返れば一瞬の記憶なのですが🌠




まぁ、

目指されている物や場所(?)は既になんとなくわかっているのですが。


それが前回の記事のサムネみたいなアレら↓なのでしょう

(と私は予想しているわけです👁️✨)




これらの色や質とは、

私にとってはホームグラウンドのように馴染むような世界ではあるのですが、


あいにく私も現代の地上を生きて相応の洗礼を受けてきた身なので今の状態ではさすがに馴染まないというか相容れない状態になってしまっていることがわかるのです┐(´∀`)┌



それは“毒”という感じですかね(笑)



↑あんなに綺麗なのにね★




でも残念(?)!

アレに近付いたり同調しようものなら、

重たくて固い抵抗感や恐れである意識や感情やエネルギーや波動だとか緊張感だとか心身の不調感だとかがまず先に出てきてしまうというのが現実なのです!!


あぁなんということでしょう。



本来的な自己の神聖で完全な開放的なエネルギーや意識こそが今や私にとっては猛毒のようになってしまっているのですから!!





これはひどい自己矛盾……

乖離を抱えた状態だと言えるでしょう。








……まぁ私にとってはもういつものことなのですが😁💥


いかに世の中では珍しく奇抜な色だったとしても私にとってはホームの色だし、

今ではもっと濃そうな色にもすっかり馴染んでいるのですから😃✨





ただ↑の画像を見てもわかるように、

この色だけでは極めてある種の非現実的な要素や質はかなり強いように思います👻



う~ん、

しかしこの緑でも黄色でもない幽玄と呼べるような色合いと質……私もこのような色でありたいものだと感じ入るのでございます😌✨


何かひとつだけ究極の色を選べと言われたらこのような物を選ぶのだろうし、


まったく同じ理由で私の存在とはこのような質でありたいと感じるのです。






それを今の私の感覚的に表現するなら、



帰りたい世界の象徴


とでも言えば相応しいかと😁




私はそういう世界に帰りたい……

エゴで自我な私はそういうもう1つの現実感みたいな物を思い出したいと望んでいるのですが、



しかしそれを思い出した私になったら、

また別の現実感や記憶があるわけで❇️




人間な私にとっては困ったことだけど、

スピリット的な聖性を失っていない私にとってはそれも面白いことなのかもしれません(笑)



もうその視点に一度気付いたら、

なんかもう呆れ果てるというか、



いい意味で、

どうでもよくなるというか(笑)






そして私は、

そうなった状態の自分としての現実感というものをもっと続けたい、

きっと再開したいのですよ。


それが私の願いです。

それこそがエゴで自我な一度でも何かを失ってしまったと信じている私が最終的に願い望むたった1つの聖なる意思なのです。



なぜなら、

その先にあるのは溢れる感謝や喜びの実感という至福の記憶だけになるから☆



そういう意味では、

そこから先にはたった1つも苦しみや苦い記憶や感情を持つ自分というのは持ち込めないと言えるし、


いわゆるそれが天国の門(出典とか全然知らないし外側にある情報に興味ないけど)とか呼ばれるやつで、

ある種の最後の審判と呼べるものなんだろうなぁってことはスピリチュアリティの実践者として常々実感している物なのです👍️✨




まぁ実際には一瞬の悟りや神秘体験至福体験として扉の向こうに迷い込んで完全で究極な記憶みたいなのを味わった後に、

ほん~の少しの恐れや闇を見た瞬間に楽園から追い出されるようなそんな体感を繰り返すことになるのですが(笑)



以前私が記したように、

↓これは限りなく赦しに近い物なのです。



……であるならコレはなんだというのか?




……まぁその答えをすぐに出そうってのは、
実はとっても野暮★

せっかくの探求や知ってゆくプロセスを台無しにしてしまうなんて勿体ない!!

とか私は感じているのですが(笑)


幸いにして(?)
私はこのような色を扱う資質に非常に特化している者なのです。




……それなら、



実際はもう答えわかってるんじゃないの?



と勘づくお人もあるでしょう。

……私も内心ではそう思ってますし(笑)




でも先ほど記されたように、


今すぐ答えを知りたい!!


と思うのは別にいいのですが、

だからといってせっかくの自分のために用意された至高のストーリーやギフトという物無視して受け取り拒否した上に自分が欲しい物じゃないと叩き付けるようにして台無しにしてしまうというのは、


あまりにも愛のない振る舞いと言わざるを得ないのではないでしょうか。

😁



……誰に対してって?

そんなの自分自身に対してですよ。


そうすることで最高の贈り物を自ら小さな物にしてしまうのですから┐(´∀`)┌


もうこの領域においては独立した他者なんて存在していないに等しいのですから、

愛のない仕打ちのすべてもまたそのまま自分に捧げられ受け取ることになるのです。






……じゃあどうするかって?


忍耐ですよ忍耐!!

最も良き贈り物……つまり自分が真に願い望むすべてを受け取るために、そうではないすべてを喜んで諦めて手放すための忍耐が必要になるのです❇️


それは自分に捧げる愛なのです。


愛とは実はとても大きなものなので、

忍耐もその性質や表れの1つと言えば比較的わかりやすいのかもしれません💡


私の表現で言う所の神聖さの資質や美徳と呼ばれる物でもあるのでしょう。





それは愛すること、

愛を正しく受け取るための忍耐であり、


またそれは楽しみ祝福すること、

喜びや祝福を正しく受け取るための忍耐だと言えるのです。




これを無理矢理“愛”の方向に寄せるなら、


“愛の資質”


とか呼べばいいかと思います😋


きっと私というフィルターを通すとそれは

神聖さの資質


という言葉で認識出力されるのでしょう✡️




そこまで見通した上でなら、

言葉の違いというものを極めてサマツで


中身が同じだとわかってるから

どっちでもいいこと。



だと私は答えます☆



だって同じことだって知ってるから、

好きな方を使えばいいんですよ。


自らの魂だとか意思だとかセンスだとかに最も相応しいと感じられる言葉を選べばいいだけなのです。なぜならそれこそが形あるレベルにおいて自己の真実性を証明する手立てであるのですから。


それに、

そういう意味で自分に相応しくない物を選ぶことである種のペナルティや不調和を受けるということを避けるためにも個としての自己の真実を手放してはいけないし、

偽ってはいけないのです。


それは1つの究極的な裏切りとも呼べる物でもあるのですから★



愛ではないもの、

完全ではないもの、

それらを選んでしまった時に必ず自分が傷付くことになると知るほどに表面的な正解を超えて完全な在り方やその意思の証明のための選択を望むことは簡単で無理のないものになってゆくのです。


それこそが魂の成長と呼べるものなのかもしれません。

なぜなら自我でエゴな自己意識は最終的にはどうやっても完全さを受け入れられないからです。




そう、

だからどこかでその自分は消え去ることになるのですね。


理由は簡単なことなのです、

最終的には完全な愛である物を証明することはイコールとして分離的で完全ではない自己意識や記憶を否定し消滅させてしまうから絶対に受け入れられないということなのです。



だからそれは無理もないし自然なこと。



そしてその無理もなく超自然なことだと理解した所から、神聖さの資質だけでなく聖なる自己を見つけ出し自分へと戻してゆくという新たな道が現実的なものになるのです。



この視点においては疑問はありません。

すべて明快なのです☆






明快なのです☆



なのです☆

 なのです…………なのです……なのです……☆






って感じのが、

あのクリスタルの質とかエネルギーとか波動とか意思みたいな物なのでしょう。



……えっと、

キリスト意識

とか言うんですかね?😃





実は私、

神聖さ神聖さ聖性神聖さ神聖さ神聖さ聖性とか書いたり語っておきながら、


キリスト意識!



という言葉は全く使わないのです

(ヾノ・∀・`)





なぜかって?



現代における“キリスト”という言葉や概念てのはある種の魔術みたいになってるから。


だから私はそれを決して使わなかったし、

もっと質的な“赦し”という言葉を使う☆




という理由によるものです👌✨




それに私も自称マスターですからね~、

わざわざエライ人の言葉を使わなくても


聖なる意思

完全なる意思

神聖なる光の意思


とか自分なりの言葉が既にあるのです。



だからそういう“外側の権威”的な表現を使う時ってのは自分のためではなく、


説明している対象にわかりやすくするための手段としての

合理的な選択🍀



です。



その必要が無かったら、

いつものエリミエール語録でいいでしょ☆





私は、


至福や喜びや楽しさを分かち合いたい表現して自らももっと祝福されてる感を実感することで聖性な祝福を届けたいとか思ったりしているのですが、


だからといって言葉として聖性だとかを語ったり示したした所で


野暮だし難しい


と思っているのですね😁



言葉ってそういうもんですし。




だからこその聖性ダイレクトであり、

そのためのメッセンジャーってのが私が作り出す作品たちなのですよ。


私は孤独……ないし孤高だったり霊的に潔癖な人間なのも手伝ってかある意味では人間よりもはるかにクリスタルとかを頼りにしてます。



……なんでって?


クリスタルには人間ほどに変化成長するような自我とかエゴとかないでしょう?

肉体を持って現代社会の洗礼とか受けてないでしょう?


もっと純粋物質でしょう?




だからクリスタルには純粋さや美しさを担当してもらっているのです。


私は源泉にして原動力なのですから、

ちょ~っと汚れて見えることはあったとしても真に望まれるのは力量!!




ってゆーか人間なのですから、

綺麗な上澄みだけじゃあまりにも物足りないし勿体ないじゃないですか!!




もらえる物は全部もらっておきましょう!!


それらも至高のストーリーのために用意され仕込まれた、

場合によっては一生懸命自分で自分のために用意した最高のプレゼントなのかもしれないのですから!!




自分が自分のために用意したのだから、

一番自分が望むすべてがあるのですよ。



そういう感覚が得られることとかが、

内なる神や聖性として自らに神性を回収し統合することで受け取る素晴らしさなのです❇️✨






賢い者はわかったでしょう?

これら自体は私にとっては潜在能力を引き出し自らを育成するための聖なる修練場みたいな物でしかないのですが、


私のそういう思惑や認識できる範囲を超えてそれと同時にコレを読んで見て何かを受け取ったりするべき者のために私は決してコレをサボらないのです。

なぜならそれが聖なる計画でありそれを必ず可能とさせるのが聖なる力でありそれを聖なる意思として私たちが受けているからです。




そう、

私たちのすべては聖なる力や聖なる意思や完全さであるすべてに支配されていたのでした!!





これは闘いたい者にとっては残念なお知らせなのかもしれませんが、


助けを求めてきた者にとっては良い報せなのかもしれません。



……まぁどっちも同じことなのですが(笑)



強いて言うなら、

それらは裏と表みたいなものなのです。


違って見えたとしても、

実際には表面か裏面かの違い。


違うと言えば確かに違うし、

同じだと言えば同じもの。


どっちもウソじゃないのですね😁✨





ここで聖三位一体が出てくるのです!!


なぜなら選択肢とは、


表を見る

裏を見る

表も裏もある本体を見る


の3つがあるから!!


まずは3つの選択肢を見つけよう!!






これ以上を言葉にするのはホントに野暮。

ってゆ~か楽しくないのでやらないです

(ヾノ・∀・`)





オー、イッツディバインマジック!!

オー、イッツァミラキュラス!!



……ときたら???



たぶん3つ目もあるんよね?

聖三位一体だもんね?

そうだよね?????