カンポンさんの「流れを超えて」サマリー
浦崎雅代さんのブログ(note)「タイの空に見守られて」
まず 自分には「苦脳がある」という
スタート地点に立つ。
四聖諦(苦・集・滅・道)の「苦」という
スタート地点に立つこと。
頸髄損傷という障害を負ったので、
その苦脳を否定して生活していくことが
できなくなった。
そこが カンポンさんのスタート地点であった。
だが、なんとなく幸せそうに暮らしていて
苦悩に出会ったことのない人の多くは、
この大事な スタート地点に立つ
ことができない。
(それは それでいいが…)
自分には「苦脳がある」という
スタート地点に立ったなら、
じきに 苦悩は自分自身の内側(の浅い層)
に生じていることが分かるから、
自分自身を振り返らざる得ないだろう。
すると(修行の後)心がどんどん変化して、
苦悩に出会うことの意味や 人生の価値が
見えてくる。
人々は
二元の極の 一方の 相対的な 「幸せ」 だけを
求めているので、
その対極の 「不幸(苦悩)」 から
逃れられない。
一方
「苦しみ」 は、人々をスタート地点に立たせ、
対極を持たない 絶対的な 「幸せ」 に
導いてくれる。
この二つの「幸せ」 は 違うものだ。
「苦しみ(苦と苦悩)」 は、
(苦悩は)自分の中に原因があること
ことがなるまで待つこと
自分で自分を助けること
環境に恵まれていたこと
を教えてくれた。
では、自分の中の「苦悩の原因」とは、
いったい 何か?
良き師を見つけて
正しく気づきの瞑想を修行すれば、
「自分の中の(苦悩の)原因」 を見つけだし
誰でも カンポンさんのようになれるだろう。
(頸髄損傷の麻痺が 24時間 365日の瞑想を可能にした)
頸髄損傷のカンポンさんは、
(手足のほとんどを動かせないので)
いつも横になっていなくてはならない。
それがカンポンさんの「苦」であるが、
それは「苦悩」ではなかった。
カンポンさんは、その苦に囚われて、
自分で「苦」 を 「苦悩」に変換していた
ことに気づいた。
「苦」 と 「苦悩」は 違うものだった。
横向きの格好でも手動瞑想は可能だったので、
(肘から先をわずかに動かすことだけできた)
(24時間365日できる)手動瞑想に出会って
自分自身を振り返ることができるようになり、
自分の体と心を 別々に感じて・気づくこと
(名色分離智)で、
自分を感じ 自分自身から学び 正しく知り、
「苦しみの流れを超える」ことができた。
「苦しみの流れ」とは、
たんなる「苦」を 辛い「苦悩」に変える
「苦受→思考想→苦悩行 という流れ」のこと。
思考が
リアルな苦を非リアルな苦悩に変えていて、
非リアルな苦悩の方が リアルな苦より
酷く辛いものになっている。
「名色分離智」が、
「苦」 と 「苦悩」 の観分け方を教えてくれる。
4)まずは 体が先、
(四念処という瞑想のプロセスを知る)
手や腕を動かす 型のある瞑想とは、
(呼吸に意識を向けるのも 型のある瞑想)
体の動きと感覚に意識を向けるトレーニング。
体の動きを知ろうとすること(身念処)で、
(意識が 思考に向かわなくなるので)
思考(想)が抑制される。
身念処とは、 体を 気づきの土台とし、
体を 心の居場所とすること。
体には、動きだけでなく
二種類の 二次的な感覚が付随している。
これらの感覚は、
気持ちよかったり(楽:快)
嫌な感じだったり(苦:不快)する。
この 体の快/不快の感覚を知ることを
受念処という。
身念処と 受念処の トレーニングをすると、
「受→想→行」 という 思考(心)の流れが
観えてくるようになり、 それが心念処である。
観えてくれば、心:思考の 反応の流れを
コントロールできるようになる。
それは さらに法念処にも つながり、
ついには 法(真理)までもが 観えてくる。
以上が、 瞑想の 四念処のプロセスであり、
意図的に行うのは
体の動きや感覚を意識する 「身念処」 だけ
でよく、後のプロセスは自然についてくる。
4)では、カンポンさんが実践している
この身念処について 具体的に説明される。
5)思考によって、
(体の)動きを使って、体を知る。
心のもっとも奥底にある 心の座に、
「気づき」ってこういうものだと教えていく。
心の座が 持つ
もともとの 「知る(気づく)」 という性質を
鍛える。
体の内側の深いところにある 心の座が、
体の外側でなく 内側の浅いところの
流れ(心の要素)を観る(知る)ように 鍛える。
心の座を、鍛える。
心の要素である 思考が知るのではなく、
心の座の方が知る。
「心の座が知る」 ことを「気づき」 と呼ぶ。
体の動きを使って、自分の心に
「いまここ」 に戻ることを 教えていく。
心の浅いところにある 思考が
理屈として知るのでなく、
(心の)座が 感じることによって
この身をもって知る。
「いまここ」 に戻って「感じる」 ことが
「気づく」 こと。
そうすると だんだん 心が整って、
自分自身の心の(要素の)姿(想→行→識)に
「気づく」 ことが容易になる。
体を知ると 「気づき」 の柱ができて、
はまり込む(想行識複合体を形成する)ことが
なくなっていく。
気づくとは、 自分自身を 感じて 知ること。
心の座が 心の要素を 観ること。
自分の思考と感情に 自覚的になること。
* 浅いところにある 心の要素には、
思考:想だけでなく、欲求・感情:行もあり、
これら二つからなるのが 自我:識 である。
体を道具として、 心の座をそこに向けて、
軽く気づいていく。
体を知ろうとすれば 思考は飾り立てられず、
(ムダに ぐるぐると 思考を空回りさせず)
気づきが高まる。
気づきを高めて、
心の座を目覚めさせる【正念】
思考の世界から目覚めれば、
自分の 心の要素(想・行・識)が観えてくる。
目覚めて、 観えたものを 評価しないで
ただ受け入れる【正定】
カンポンさんは
ベッドの上で、あらゆる体の動きに気づく
トレーニングをして、
ただただ 知った。
目覚めて(知って)受け入れる
トレーニングを、
繰り返して行った。
うんちのとき、おしっこのとき、
着替えるとき、毛布をたたむとき、
一日中、動きあることすべてに
気づきを向けるようにつとめていく。
何度も 何度も(24時間 365日のつもりで)
気づいて、気づく頻度を多くする。
すると 気づき自体がどんどん高まってくる。
自分を感じることが
どんどんできるようになる。
我を忘れてはまり込むことが、
だんだんと少なくなる。
すると
まず 最初の智慧【名色分離智】が生じ、
自分の真実が観えてくる。
自分の真実が観えてくると、
ついには 究極の智慧【般若】が 生じる。
般若とは「色即是空」のことであり、
すべてがありのままで良かったと
納得できることである。
そして、 その般若の智恵を携えて
再び この世間を生きることが 「空即是色」
私は「◯◯である」
◯◯である、障害者である、男である、
女である、子供である、動物である、
人間である。何者かである。
心の浅い層の 「わたし」 は 何者かであるが、
これらはすべて 仮の 実体のないものである。
そして 浅い層ではなく、
それらを ただ感じて観ている
深い層の「わたし」の方が
真の実在なのであるが、
それは 何者でもない【無我】
浅い層にある「心の要素」は
皆すべて違っている(特別なものである)
仮の 実体のないものであるが、
より深い層にある「心の座」は
皆すべて等しい 何者でもない実在である。
何者かであるものは 実体ではなく、
何者でもないものが 実体である。
深い層の 真の 実体(本質)である
何者でもない心の座が、
何者かである 浅い層の 仮の
実体でない(現象としての)要素に気づいている。
瞑想による 「気づき」とは
自分の本質は
「何者でもない(ただの人である)」
ことに気づくことであり、
自分を感じることは
何者でもない(普通である)ことを
ダイレクトに知ることだ。
普通であるとは 普遍的である ということ。
9)命は
頸髄損傷を負ったカンポンさんの体(ルーパ)
は ずいぶんと不自由になり、
ケアしなくてはならないことだらけになった。
でも ルーパの苦しみは 「苦」 ではあったが、
「苦悩」 ではなかった。
「苦」 に対しては、
ただ ケアしてやればいいだけだった。
「苦悩ではない苦」 には、 「ケアする」 という
「対処すべき課題」 があるだけであった。
「困った問題はどこにもなく、
対処すべき課題があるだけ であった」
そして 対処すべき課題から逃げると、
そのことが 「苦悩」 に変わってしまうのだ。
苦しむ(苦悩する)ヒマがあるのなら、
さっさとケアすればいい。
動かない 不自由な体を嘆いていても
どうにもならないと知った。
10)私が
頸髄損傷があるために、
カンポンさんの体は
直接的なアラーム を送ることができない。
しかし頸損の場合でも
間接的なサインを 送ってくれていたので、
直接的なアラーム でなくとも
気づきによって それを知ることができた。
異常なことが生じたら、「普通じゃないよー」
とサインを送ってくれていることに
気づけるようになった。
そのサインのおかげで、
体の「苦」をケア(対処)し、
解決することができた。
ウンチやおしっこのときも、
同じように「対処」した。
体の苦しみ(苦)を解決するためには、
このような「気づき」が不可欠だった。
その状況が、 (24時間 365日の)
マインドフルネスの修行に大いに役立った。
(最終改訂:2024年3月20日)