11)体は 心ではなく、
形あるもの(ルーパ)と 形なきもの(ナーム)は、
同じ場所にあるが 役割が違う。
そのルーパとナームを、 それぞれ分けて観る。
ルーパのあるところに、
役割(機能)としてナームがある。
役割としてのナームは、
ルーパにしがみついていない。
役割としてのナーム(想)は、
ただの思考・概念に過ぎない。
ところが ナーム(想から発展した行:欲求)が
ルーパ(の苦)に執着すると、
「この私(識)」が出現して、
苦しみ(苦悩)が発生する。
「ナーム」 と 「ルーパ」 は別物だ、
それと同じように 「苦悩」 と 「苦」 も別物だ、
と「分けて観る」 ことができれば、
苦しみに さよならできる。
それが 心(ナーム:名)と 体(ルーパ:色)の
機能としてのナームは
単体の 「想」 のことであるが、
執着すると 行+識が発生して 複合体となり
(想行識複合体) 「苦しむ」 ことになる。
「分けて観る」 ことができれば、執着しない。
12) 体を観ることに努めれば、
四念処とは、
身念処( 体の動きや 呼吸を 観る )→
受念処(苦や楽という 二次感覚を観る)→
心念処(心 すなわち想・行・識を観る)→
法念処(空や 無常・苦・無我という真理を観る)
の 四つを観ることである。
瞑想のトレーニングとして
意識的に 身念処を行なってさえいれば、
いずれ 受念処を経て 心念処にいたる。
心念処によって「心の状態」が観えてくると、
「装飾された思考の在り方」
が明確になってくる。
飾り立てられた思考とは、
純粋な 単体の(合理的な)思考でなく
行と 識と 一体(複合体)になった思考
【想行識複合体】のことである。
善いとか 悪いという
価値判断を引き起こす思考:想を元にして、
行という執着が 識という主体を 主語として、
苦悩を創りあげる様子【想行識複合体の形成】が
観てとれるようになる。
そして
その行(とカルマ)によって輪廻している
ことも分かってくる。
想(判断・評価)→行(それによる欲求)
→識(それらの主体としての自我)という
「思考の流れ」 が、
六道輪廻の世界を創りあげている。
怖れが 修羅の世界を、
無知・無関心が 畜生の世界を創り、
快を貪れば 餓鬼となり、
不快を否定する怒りは 地獄への道となる。
複合体を形成しない単体の思考は 価値に囚われず、
「流れ」 を創らず 輪廻の世界を生じさせない。
一方(過去を後悔し 未来を不安に思って)
流れを創る(非生産的な)思考は、
貪瞋痴という 煩悩を創りだし、
その煩悩というお客さんを引き止めてしまい、
その結果として
輪廻【貪:餓鬼・瞋:地獄・痴:畜生】の世界が 生じる。
思考(想)で
思考感情コンプレックス【想行識複合体】を
コントロールすることはできない。
「善」という思考が湧いてきたら、
それを 追求してしまう。
「不善」という思考が湧いてきたら、
それを否定し 遠ざけてしまう。
どちらにしても そうやって苦しんでしまう。
だから 苦しみの元になる
(善/不善を生みだす)思考が
出てこないようにしたいが、
その方法を
いくら考え(思考してみ)ても無理だ。
思考で、思考を 制御することはできない。
思考(想) をコントロールするには、
気づきの力を鍛えるしかない。
汚れた水とは、思考のこと。
15)運河を渡りたければ、
わたしたちは、
想→行→識という 「思考の流れ」 のために
「苦悩」 を抱えてしまう。
だから 思考が生じたときは、
それを ただただ知ること。
思考を禁じることなく、
その思考について行かないこと。
そうすれば 思考は 「流れ」 ず、
「苦悩」 は生じない。
そして 仮に 「思考の流れ」が生じたとしても、
橋の上にいることで運河の流れを観るように
「思考の流れ」を観ることができれば、
「思考の流れ」 に囚われず、
やはり 「苦悩」 は生じない。
だから 「思考の流れ」が生じたとしても、
橋を渡れば 流れの影響を受けないで済む。
「橋を渡る・橋の上に立つ」 とは、
マインドフルネスの例えである。
マインドフルネスによって、
「すべて」 を観る人になって、
思考の流れについて行かなければ、
やがて「苦悩」 はなくなる。
16)修行者とは、
胸に載せた山とは、
善や不善という 意味や価値に基づいて生じる
「〜 ねばならない」とか「〜 ではいけない」
という執着のこと。
修行することで、
たえず 思考(想)が 善 / 不善という
虚構である 二項対立の価値観 を創りだし、
それに執着し、欲求(行)に囚われている
という「想→行」 の構造が観えてくる。
構造・仕組みが観えてくれば、
その「価値観:想」 や「執着:行」 を相対化し、
取り除く(胸から山をおろす)ことが
できるようになる。
17)世界を変えようとするな、
人生とは、
自分で勝手に創りあげた 善 / 不善という
変わらない(絶対の)極端な 一方だけの
価値観を実現するところではない。
だから、無理やり 世界(世間)を
善一色に変えようとしてはいけない。
そうではなく、人生とは、
関わる(という価値を 実践する)ところである。
関わる(という 人生のタスクの)ためには、
逆に(善/不善という)価値観が邪魔になる。
関わるためには、
「無常・苦・無我」 という真理に従えばいい。
18)世界にいる人は、
世間(世界)は 喜怒哀楽の感情に満ちていて、
皆んな その感情に「流されて」 いる。
そして、
その喜怒哀楽にしたがって(操られて)
無理やり
世界や他人を「自分に合うように」
変えようとしている。
そうではなくて 逆に、
自分を「世界に合うように」
変えていかなくてはならない。
それは 世間に流されることではなく、
自分が「成長する」 ことである。
ではありません:二元を超える
考え方一つで、
ものごとを ポジティブに捉えることも
ネガティブに観ることもでき、
変わってしまうということは、
それ(二分する考え方)は
仮のものだ ということ。
「仮ではない真実」は、
そのような
プラス/マイナスという二極を超えたものだ。
気づきを高めるのは、そのような
善/不善を超えた 真実を知るためである。
だから 仮ではない 真実を知れば、
「仮の考え方」 を
柔軟に 自由自在に操れるようになる。
「世界の流れ」 とは 「思考の流れ」
のことであり、
「思考の流れ」とは
想(思考)→ 行(欲求)→ 識(自我) という
「五蘊の 名(みょう)の 流れ」 のことであり、
苦(受)→ 思考(想)→ 苦悩(行)という
「苦しみの流れ」 のことである。
ここでの思考とは 物事に対する見方であり、
その見方・価値観に基づいて
こうすべきだ・こうしたい
という欲求や願い(行)が生まれ、
人は それに基づいて行動(カルマ)する。
そして そのような 心の流れの中にあるとき、
他者と切り離された 「このわたし(が・は)」
という感覚が生じている。
そうやって、
想(思考)が 苦しみ(苦悩)を創りだしている。
「苦」は ルーパの状態であり、
「苦悩」は ナームの状態であった。
世間(世界)は 喜怒哀楽の感情に満ちていて、
そして皆んな それに流されて、
単なる「苦」を
辛い「苦悩」に変換している。
そんな 喜怒哀楽の元は
「行」という 欲求(欲望)である。
そうやって、
行(欲求)が 苦しみ(苦悩)を創りだしている。
そして、 その行を生みだす大元が想なのだ。
だが そんな
この 想と行に創られた 喜怒哀楽の世間に流される
(から逃げる)ことなく、
積極的に関わっていくことにこそ
「意味がある」
自分と他者を信じること
努力【精進】する こと
気づきを保つ こと
受け入れること
智慧を持つ こと
そうやって練習して 準備し、
世界(世間)と 関わり続ける。
苦しみの元になる「行」は 喜びの元でもあり、
わたしたち ホモ・サピエンスは
この「思考の流れ」 から逃れられないものの、
この構造の在り方を知って 客観視できれば、
囚われる(執着する)ことがなくなり、
苦悩からは解放されることが可能になる。
つまり 苦悩から解放されるためには、
自分の価値観を ちゃんと持った上で
その価値観は 自分だけの固有なものと知り、
けっして 他者に押し付けようとせず、
他者の価値観(生き方)を尊重しながら
他者と関わる(愛する)ことである。
言葉で言えば こんなにも簡単なことである。
(最終改訂:2024年3月28日)