色はもともと空だった【色即是空】
:世界と人生に意味などない
わたしたちは、
「色」 と 「空」 という 異なる二つの次元を
同時に生きている。
わたしたちは ありのままの世界を、
認知という思考のフィルターを通して
価値判断して意味づけし、
それに基づいたストーリーを創って
それに執着し、
「わたし」という感覚を介して
「自分と世界」 を 「全体」 から分離 分割し、
限定されたものとして見ている。
そして
「自分自身」 をも 分割してしまっている。
わたしたちは
「ありのままの現実である 空」を
「意味づけされた 色*」に変換して、
「意味や価値」を生みだし
付与しながら 生きている。
言葉を使って、
思考が「空」を「色」に変えている。
*「色」とは、
意味づけられることで 形(ルーパ)を与えられ 現象化したもの。
実は 意味などと呼ばれるようなものが
リアルな実体として存在しているわけではない。
「色」は もともと「空」だった【色即是空】
わたしという感覚である「自我」も、
実は リアルな実体ではない。
「自我」も もとは「空」であった【無我】
意味とは 実在ではなく、
仮に創られたもの(概念・思い込み・幻想・虚構)
に過ぎない。
だから、
「いい」 とか 「ダメだ」 という判断【色】には、
実は
なんの根拠(リアルな実体)もない【空】
のだが、
その判断や意味が 貪や瞋という感情を、
そして「苦悩」を 引き起こしている。
だから
もともと意味はないこと【色即是空】を知れば、
苦しみはなくなる。
「わたし(自我:偽のわたし)」もまた
思考が創りだしたものであり、
思考のメガネを外せば
「それまで自分だと思っていた 偽のわたし」
は消えて、
「隠され 忘れられていた 本当のわたし:真我」
が姿を現わす。
そのとき、
自己の投影である世界は
ぜんぶがわたし であり、
「わたししかいない」ことが分かる。
すると、消えた「偽のわたし」は
本来そうであった機能として存続し、
「わたし」 どうしの 比較も 競争も なくなる。
この色即是空をはっきりと理解することが
「目覚め」である。
思考が 「空」を「色」に変えているのかは、
五蘊(色受想行識)という構造・流れ・言葉
を使って説明できる。
日常生活の元々のありのままの姿【空】は、
五蘊の 「色」 から 「受」 を介し、 「想」 によって、
意味を持った世界に変換されている。
だから、
わたしたちに見えている世間という日常世界【色】は、
実は
元々は 意味を持たないもの【空】である。
【色即是空】
「想」の変換機能のことを 「思い込み」と呼ぶ。
色を空に再変換して もとに戻す技術・
「思い込み」に気づく技術、 つまり
色即是空の技術(テクニック)が
マインドフルネスである。
認知(思い込み)という
思考のフィルターが外れた
ありのままの世界が「空」であり、
そこでは、
対象・現象・状況に「善いとか悪い」
といった「意味や価値」はなかった。
存在している世界そのものには、
もともと そのような対になる属性はなく、
人間が勝手に創りあげて、
くっつけただけなのだ。
思考(認知・概念化)によって
価値を与えられた(意味づけられた)世界が
「色」であり、
その意味を剝ぎ取られた
もとの世界が「空」である。
無明とは
概念化以前の 本来の世界と自分の本質が
「空」であることを知らないことであり、
「空」であることを知れば
「知(思考)」 の呪縛から解放され、
自由になれる。
ここでいう「意味(価値)」とは、
二分された 対になる概念の
一方の要素のことであり、
一方だけが 単独で成立することはなく、
かならず 他方の対照を必要とし、
それゆえ相対的であり、
否定/追求や比較・競争が発生する。
真の実在は (対立項を持たない)
「全体としての存在」のことであり、
それが「本当の意味」であり、
一方 認知された意味【色】は
常に 全体の一部でしかあり得ず、
相対的で限定された 仮のものに過ぎない。
「本当の意味」は、
対になる概念を持たない
絶対的な「意味そのもの」である。
内容ではなく 存在自体のことであり、
それが「絶対的な意味」である。
「全体としての存在」は「空」であり、
「絶対的な意味」を持っていて、
「無条件の価値」がある。
存在している・生きている という
そのこと自体・その奇跡に「意味」があり、
それが「価値」だ。
「生きていること・生きているもの」は、
生きていないものも含めて
みんな繋がっていて、
果てしなく どこまでも続いている。
【縁起ネットワークとして梵我一如を形作る】
それを「愛」と呼ぶ。
「絶対的な意味」 とは 「愛」 のことであり、
そこには
否定/追求や比較・競争が発生する
余地など存在しない。
全体【空】を構成する中身【色】は
プラスであろうが マイナスであろうが、
快であろうが 不快であろうが、
色々あるだろうが、どーでもいい。
絶対的な意味は 中身に影響を受けず、
その無条件の価値【愛】は
ピクリとも揺らがない。
中身ではなく、それが存在する
広く開かれた空間の方が 本質なのだ。
「愛」とは、 本質の特性のことである。
だから 存在するものはすべてOKである。
大丈夫なんだ。OK以外は あり得ない。
「ダメ」という判断は、概念に過ぎない。
「愛」は、けっして「ダメ」と言わない。
存在しているという そのことが、
絶対的な意味である。
すべてOKであるとは、
完璧な 「愛」 の中にあるということである。
存在を「許されている」ということは、
愛されているということである。
生きとし生けるものは みな、
すでに 愛されている(受容されている)
それが、あるがままで 当たり前のことだ。
愛されて(許されて)いることを 知れば、
他者と自分を、許すこともできる だろう。
許すことは あるがままで当たり前のこと。
愛されているとは承認されているということ。
すでに無条件に承認されていたことを知れば、
他者の承認を求める必要はなかったと分かり、
自己受容(自分はこのままでいい)ができる。
空からふたたび色へ【空即是色】
: 世界と人生に意味などないが
人間は 意味なしでは 生きていけない
意味の虚構性を知ったのちに
再び 新たなストーリーの元で 生きる
色即是空から始まる空即是色を生きる
【色即是空即是色】
わたしたちは、
「空」 と 「色」 という異なる二つの次元を
同時に生きている。
「空」の次元では すべてがありのままで
「どーでもいい」が、
「色」の次元では
「どーでもいいわけでない」
わたしたちは 思考によって
「ありのままの現実である空」 を
「意味づけられた幻想の色」 に変えた
世界を生きている。
そのこと
【色はもともと空だった:色即是空】を
知ることが「目覚め」である。
「色」とは
「五蘊としてのわたし」が生きている
日常の暮らしの場のことであり、
普段 わたしたちは
「空である ありのまま」を、
そのままでなく 意味づけて生きている。
そして
意味づけられたものが すべて
だと思っていて、
余裕を持てずに 切羽詰まっている。
意味づけられたものに 囚われ、
「◯◯ねばならない」 と 深刻になり、
いつも結果を気にしている。
どーでもいい「ありのままの空」を、
どーでもいいわけではない そのような
「意味を持った色」に変換した世界が、
わたしたちの 目覚める前の生活の場であり、
目覚めた後も そこが生活の場である
ことに変わりはない。
しかし そのことに気づいて 目覚めたなら、
思考で変換する以前の 「ありのまの空」 を
ダイレクトに知ることもできるようになる。
「◯◯ねばならない」と思っていたことに
本来は 意味がない(空である)ことが分かり、
意味づけられた世界に居ながらも、それが
「思い込み」 であることを知っているので、
余裕を持って暮らすことができるようになる。
そのまま 空に留まるのでなく、
空を知った上で 再び色に帰還して、
空に裏打ちされた より豊かな色を生きること
【空からふたたび色へ:空即是色】が可能になる。
色の視点だけでなく 新たに空の視点も備えて、
ゆったりと楽しく まるで遊ぶように
再び 色の世界を生きることができる。
一応の目標をおいたとしても
その結果には囚われず、
過程を 真剣に楽しむことができるようになる。
目覚めたとしても、
個別の相対的な意味づけ(思い込み)を
完璧になくすことはできないが、
つまらない意味は 適当にあしらうことができ、
大切な意味であっても
それに 完全に支配されることはなくなる。
そして、
普遍的で絶対的な意味である「愛」を指標
として生きていくことができるようになる。
意味から 自由になりながらも、
意味を 生きることができるようになる。
そのようにして
空即是色を実践することが 「悟り」 である。
本当に生きるという経験は、
この色即是空という構造・仕組みに気づいて、
いまここに在る
「自分と世界」の「あるがまま」を、
ただ感じること【マインドフルネス】から始まる。
【色即是空即是色】
さらに「色」には、意味だけでなく
イキイキとした「いのちの躍動」が芽生え、
根源にある「生きるエネルギー」が、
阻害されることなく
溢れでてくるようになる。
空を知らないとき、
「色しき」は 苦悩の色いろ一色いっしょくだった。
しかし「空」を経て回帰した「色」は、
鮮やかな色彩に彩られている。
世界(世間)の色が、
くすんだモノトーンから フルカラーに変わる。
本当のわたしは、 わたしとして独立した
独自の縁起ネットワークとして存在しつつ、
同時に
より大きなネットワーク(大いなるもの)
でもある。
つまり その一員であり、 そのものでもある。
独自であり、同時に
すべてに通じる(繋がっている)
大いなるものでもある。
そこでは (自我ではない)わたしがすべてだ。
世界は わたしであり、わたししかいない。
「自我」とは、
「他者から切り離された存在であるという感覚」
のことであり、
「無我」とは
そういう感覚がなくなることであり、
「自我という感覚」がなくなると、
「他の人と違う 特別な自我としてのわたしはいない」
という感覚に変わり、
もとの自分自身(真我)に戻る。
「空」は 概念ではなく、唯一の実在である。
わたしたちが マインドフルであれば、
それを たしかに体験できる。
「空」は 故郷ふるさとだ。
一瞬で帰ることができる
「いま・ここ」という我が家だ。
いつでも すぐに そこへ帰ることができれば、
どこへでも旅することができるだろう。
そして
無我もまた 知的に理解する概念ではなく、
体感するものであり、
それが 色即是空という目覚めだ。
その「感じ方」の転換が
「絶対的な意味」である「愛」の理解を
引きだしてくれ、
「愛する」 という実践能力を授けてくれる。
思考より大切なものは 「真の愛」 であり、
「わたし」 を統合するものも「愛」 である。
「愛」 によって 自分を許せるようになれば、
切り離された「わたし」はいなくなって、
世界のみんなが仲間であると感じられる。
いのちのエネルギーを阻んでいたものは、
「認知」 によって創りだされたものだった。
存在しているということは、
すでに 愛されている・受容されている
ということであり、
愛する・愛せない、
受容する・受容できないというのは
可笑しなことだ。
「わたし」が受容する前に、
すべてが すでにもう
受容(承認)されている。
すでに 無条件に「承認」されていた
ことを知ったなら、
もはや「他人からの承認」は必要ない
ことが分かる。
気づいていようがいまいが、
すでにもう
受け入れられて(愛されて)いる。
それに気づくか、気づかないか。
気づくと、
世界がシンプルであったことが 分かる。
「あるがまま」で、そのままでよかった。
逃げも隠れもせず、
初めからずーっとそうだった。
真理の立場から言えば、
目覚めていようがいまいが
どちらでも構わない。
苦悩する人生もアリだろう。
究極のところ、すべてOKだ。
好きにしろ!
やりたいようにやれ!
自分自身であれ!
「色即是空即是色」を体感することが、
「般若」と呼ばれる智慧のことである。