アジャシャンティ 「自由への道」やすみやすみ風サマリー | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

      アジャシャンティ著 

自由への道 やすみやすみ風サマリー

 

 

はじめに

「目覚め」 や 「悟り」を 直接指し示すことはできない。目覚めや 悟りとは何か ということを、推測したり イメージすることはできない。何が真理かを推測するのではなく、真理でないものを一つひとつ確認し、これではない、あれでもない、これらはすべて幻想である、すべて思い込みに過ぎないと 一つずつ潰していくのである。

  自分自身を真摯に見つめ、自分の中にあるエゴ(の全体)をしっかりと摑まえて自我エゴとはなにかエゴは思い込むものであり、そのエゴ自身も思い込みであること)はっきりと分かればエゴではないものが分かりエゴを超えていくことができる

 

  スピリチュアルな教えとは、これが真理だと言って答えを差し出すことではなく、「それは本当か、それは真実か」と疑問を投げかけることである。

  自分の信じていることは本当か、それは幻想(主観であり

  単なる「思い込みではないのか、という質問を繰り返す。


  そうやって 自分自身で考えるように要求する。すべてを疑うことを要求する。


  答えは自分自身の中にしかない。他人が代わって答えることはできない。

真理を教えてもらうことはできない。自分が見つける以外の真理は、存在しない。

 

  真理への道・自由への道は 信念(思い込み)体系ではなく実践すべきものである。それを通して、元々そうだった自分自身を思い出すのである。

  気楽に無難に、真理に目覚めることなどできない。前途は予測不可能積極的な関与は必須結果の保証はない

  とにかく、幻想(思い込み)に執着すること、あるがままに抵抗すること、を手放す

  何もせずに甘えているわけには行かない。ファストフードのような安易な真理の言葉は、なんの役にも立たない。

 

  目覚めとは 苦しみの消失ではない。人生の試練から逃避してはいけない。深い平和や愛・幸せな気持ちは 目覚めの副産物ではあるがそれが目標なのではない

  目覚めと悟りに導くものは、(正しい意味だとしても)幸福の追求または苦しみの縮小・消失)ではなく、リアリティに対する癒しがたい渇望と、本来の人生を完全に生き切っていないことに対する激しい不満である。

 

 

第1章     五つの基盤

 

(動機)を明確にする

  あなたの人生で あなた自身がもっとも欲しているものは何か。

  もっとも価値をおいているものは何か。あなたの行動を規定しているものは何か。


  それ(動機)は(幸せになることではなく)真理への飽くなき渇望であると、心からそう断言できるか。


  ちなみに、エゴの「動機」は、生存し続けること であり、そのために 快を求めて気持ちよくなること【渇愛】

  と、正しい(と思い込んだ)ことの追求【取】に明け暮れる。

 

無条件に貫く

  志が明確になったなら、それを貫き通す。

  貫くためには、 何をして 何を手放すのか。


  唯一の真実であるいまここに専念して幻想に過ぎない過去未来概念正義を手放す

  つまり、24時間 365日のマインドフルネスを目指す。

 

自分の権限を決して放棄しない

  自らを島とし、自らを灯明とし、自らを信じる自分自身の中にだけ 真実を求める

  他者(師・言葉)を参考にしつつも、他者に依存しない

  自分の人生に責任を持つ。真理は、日常生活と自分自身の中で検証する

 

完全に誠実でいることを実践する

  今この瞬間のありのままに対して、誠実でいる。自分自身の真実に対して、誠実でいる。


  状況がどんなであれ 逃げ出さず、自分自身から隠れない。(よろい)を脱ぐ


  他人に対してだけでなく、自分自身に対して 正直でいる。ごまかさない。

 

自分の人生の面倒をしっかりみる

  スピリチュアリティを利用して、人生の辛い面・うまくいかないところから逃げようとしない。

  目覚めても嫌なこと辛いことは起こり続ける。ただそれらに対する見方受け止め方が変わるだけである。


  いつも完全に、自分自身と自分の人生に向き合う

  心地よいことも不快なことも 同じように受け入れ、(自分の我を押し通すのでなく)その瞬間にふさわしく(因縁の流れの中で)振る舞う


  人生が自分に見せてくれようとしているものに素直に従う

 

 

第2章     三つの方向づけの理念

  

  この教えの支えであり、基本となるもの。

  教えのもっとも基礎的な概念的な枠組み。

 


存在という問題

  わたし(と世界)の本質とはなにか。それは、「存在そのもの」であり、現象的要素をすべて剥ぎ取ったあとに残るものである。

  人の外見・性格・性別・歴史・職業・夢や希望や信念・行動などの要素の下にあり、それを支えているもの。変わらずにあり続けるもの。ずっと自分とともにあり続ける、変わらない・子どもの頃から歳を取らない・もっとも深いところにある「自分自身

  変化する要素の塊でなく、それを認識し、受け入れている いつも変わらない基盤(心の座

 

  多くの人は、その「全体としての存在」を意識しないで生きている。「存在の無限の可能性に気づかないまま、分離され・限定された有限の「個人」 と 「世界」の中に生きている。

  分離され・限定されている ということは、二分された対立の中にいて比較され 常に恐怖を抱え防衛している ということ。それを正当化しながら、苦しんでいる。何かおかしいと薄々感じながらも、それに気づくまいと 必死になっている。

 

  日常生活のすぐ下に、存在というリアリティがあるのに、どうしても気づくまいとしている。

  赤ん坊のころは無意識のうちに知っていたことを、大人になって自我を確立したときに 忘れている

「存在()」という問題がすべてであり、それよりも重要なものはない。スピリチュアルに目覚めることは、それをもう一度取り戻すことだ。


  わたしという存在も、あなたという存在も、同じ存在だ。

  存在としてのわたしと、存在としてのあなたは、存在(心の座)として同じだ。


  すべての存在が 存在として同じものであり、「わたしだけが特別な存在であるということは あり得ない

 


偽りの自己(特別なわたし)

「わたしという感覚」には、二通りある。

  一つは、もっとも深いところにある存在()そのものである「自分自身という感覚」  「全体としての わたし」  「みんなと同じ わたし

  もう一つは、その基盤の上の構成要素としての 偽りの自己である「我という感覚(自我:エゴ)」  「わたし、という感覚」  「部分としての わたし」  「みんなとは違う、特別な わたし

 

  思考は 感覚(器官)を通して入力された情報を意味づけし、勝手にまとめて、一まとまりの理解とする。その理解は、それが形成された異なる人生の状況に応じて 条件づけされ、様々に限定された形となり、「我(われ)という感覚」の構成要素となる。その構成要素は 様々に違っていて、自分の中でまたは自分と他者の間で、ときに整合的であり、ときに対立している

「自分そのものである と誤認された構成要素」の対立・違いが、人々の争いを引き起こす。構成要素は、性格・歴史・職業・役割・立場・見解・願望・信念・宗教・習慣・文化などなど、様々に異なっている。異なっている ということは、それぞれが分離・限定された「部分」に過ぎない ということ。

  それは 感情エネルギーと結びついて 強固に一体化し、説得力のある「我という感覚」  「わたしと他者は 違う、という感覚」になっている。

 

  それ(要素の塊である我)は、すべての人の中にまったく等しくある「全体」としての「存在そのもの()」の上に 成立している。その「存在そのもの」の方と直接結びついた自己感覚が、「自分自身という感覚」である。

  個々人で差のない 同じものの上に、個々人で異なる 違うものが載っている。それ故に わたしたちは本質的に同じものなのに、「違うと思い込んでいる。その違いは、要素的なものに過ぎない。

 

  もともと「我という感覚」は、分業化された社会で生きるにあたって、個別化し自立するために発達させられた特性に基づくものであるが、自立が他者との競争という 誤った観点から捉えられたために、「偽りの自己」として 歪められてしまったのである。自分と他者は違うと思い込み、他者との比較でしか 自分を見れなくなることが 自分を限定し、「存在そのものから 自らを切り離してしまった

(機能である)自我として自立するためには、他者とは異なる要素を発達させて分業し、「棲み分ける」必要があったために、「違いを際立たせなくてはならなかった


(慈愛によって)比較と競争を超えた「真の自立がなされたとき偽りの自己は消滅し、「自分自身という感覚」  「わたしは在る(I AM)という感覚」もしくは 「自分(がどこにもいないような感覚(無我)」にとって代わられ、「存在そのものと出会う

  その結果、「違う」ことよりも同じであることに 目が向かうことになる。

 

  偽りの自己は 他者より(と同じだけ)優れていたいと欲し、他者や昨日より(と同じだけ)幸せであるためには いつもなにか足りない と思っている。それは、「部分」として限定されたために 取り残されてしまった、全体の中の他のすべての部分に対する渇望である

  無意識にそれを埋め合わせようとして、なにかを自分につけ足していくが、いつも見当はずれなものしか得られない。そうではなく、自己の空虚を 意識的に・誠実に追求していくことで、「存在そのもの」と再び出会い癒され、安定することができる。


存在そのものは 無限であり究極のリアリティであり、概念化されたすべてのもの・体験するすべてのものの域を 超えている

 


夢の状態

  空虚さを埋め 特別であるために、夢(思い込み)の中で 人々はとても慌ただしい。こっちからあっちへ行き、そしてまた元に戻って というように、走り回ることを止められない。常にもっと沢山のもの、何か違うもの、もっと良いもの を探していて、まったくどこにもたどり着いていない

  存在そのものの中で くつろいでいることができない。本当に大切なものが何か分かっていない

 

  夢の状態(思い込みの中では、わたしたちは限定され、対立する領域の中に閉じ込められていて、それゆえに比較し 敵対して、苦悩する。「あるがまま」が本当の現実(リアリティ)で、「こうあるべき」といった信念や見解は「部分としてのわたし」が勝手に創りだした 非リアルな仮想現実(虚構に過ぎない

  リアルな現実に逆らい 抵抗すればあるがままと対立するならば) 苦しむしかない

 

  世界には何十億という人々が暮らしている。そしてそれぞれの人が、真実であると信じる 無数の観念・信念・見解(という思い込み)を持っている。人々は 外にある同じ世界を見て 歩き回っているが、その内面では まったく異なる(夢の)世界を見ている わけである。そんな人々がうまく付き合っていくのは、どんなに大変なことだろう

  それに加えて、特定の集団の人々が見ている 集合的な夢の状態もある。みんなで 同じ夢を見て(思い込んで)いるとき、一人だけそこから抜け出すのは、どんなに難しいことだろう。みんなが「そうだ」というとき、自分だけが「そうではない」と言えるか?



夢の状態とは、「偽りの自己に見えている世界」のことである。

 

 

第3章    核となる実践法

瞑想探求黙考


  真理は 存在する唯一のもの。それは隠れていなくて、よく見えるところにあり、豊かに存在している。真理は 信念・宗教・哲学ではなく、一時的なスピリチュアルな(神秘)体験でもない。止まっているわけでもなく、動いているわけでもない。善でもなく、悪でもない。そういったすべてのもの以外であり、想像しうる以上のものである。

  マインドでは理解できず、安定した寛いだ状態のハートの中だけに見いだされる。自分自身を誠実に見つめ、その中にある もっとも深い存在(座)」を呼び起こす(本当の自分自身を知る)ことでのみ、アクセス可能となる。

 

  核となる実践法は、感触をつかむ練習であり、自転車の乗り方を練習するときのようなもの である。実践法が功を奏するためには、日常の中にそれを落とし込む必要がある。そのためには、各個人のスタイルに合った その人なりのやり方を試行錯誤で見つけるしかない。誰かに教えてもらうわけにはいかない。

  その活用の仕方は、実感レベルが深化するにつれて、進化していく。

  実践においては、教条的にならないこと、過度な努力をしないこと。祈るがごとくマインドとハートをオープンにすること。


  

  夜明け前がもっとも暗い、ということはよくある。

  最大のブレークスルーは 予期せぬときにやってくる。突然、恩寵として与えられる。


 

瞑想

  瞑想が重視され過ぎているときと、十分に重視されていないときの、両方がよく見られる。

  悟りへの唯一の手段として 瞑想が重要視されている場合、ある特定の瞑想状態に到達しようと集中し過ぎている。どれほどすばらしく、至福を感じるものであっても、究極のリアリティは ある特定の意識状態ではない。神秘体験と呼ばれるような意識の変容状態は 真の瞑想の意図するところではなく、リアリティとは何の関係もない

  一方、リアリティは いつでもどこでもそこに絶えず存在しているので、あえて瞑想などする必要がない という意見もある。努力して瞑想することは、絶えず何かをしなくてはならないという「夢の状態」を強化してしまう、というのがその根拠であるが、それもまた「真理の知的理解に基づく間違いである。

  これをこうすれば それで大丈夫 などという、直接目覚めに導く実践法はないものの、「バランスのとれた 無理のない瞑想」の実践は 極めて重要である。

 

「自由への道」における瞑想は、できる限り深く すべてのものをただありのままに認める(受け入れる)技術 である。そのためには、自分の体験をコントロールして操ろうとする欲求サンカーラ:〜しようとする気持ち)と それに基づく行為(カルマ)を 手放す必要がある。

ありのままに認める態度とは瞑想の間だけ(欲求に基づく)意志の力でエゴを抑圧し、(見せかけ平穏を体験することではない


  瞑想を行う態度は、委ね・無理することなく・オープンでいること。マスターすべきテクニック というよりも、沈黙の祈りのようなもの。

  意識を向ける対象を固定せず、20分から40分くらい無理しないで 心地よく寛いで座っていられるなら、それは 正しい瞑想である可能性がある。瞑想中は、解明したり 分析したり 説明したりしない。でも、無理やり思考(と欲求)を止めよう ともしない。空を流れる雲を眺めるかのように、ただ 思考と欲求を眺める。起きてくることを操作しない。

 

  そして もっと大切なことは、座ってするような「型のある瞑想」だけが瞑想ではない、ということ。型のある瞑想は練習に過ぎない瞑想とは存在の姿勢であり、存在の中で存在として静止していること。

  その感触がつかめたら日常生活の中で どんどんその状態に入れるようになるやがて 瞑想はとても自然な状態になり、暮らしの中で瞑想しているのか 瞑想の中で暮らしているのか、観分(みわ)けがつかなくなるだろう

 

真の瞑想

  真の瞑想は、無理なく 静寂でいること、根源的な存在(座)として居続けることであり、方向性も目標もない。体験(とそれに伴う感覚・思考・感情など)を操作しようとせず自然な流れに任せておく

  一方 夢の状態では、体験を判断して 意味づけし、自らの意図(サンカーラ)のもとに 状況(と自分の内面)をコントロール操作抑圧/追求しようとする

  真の瞑想においては、体験していることを変えようとするのではなく体験の受けとり方と それとの関わり方を変えるのである。

  気づきの中へと ゆったりと寛いでいくにつれ、マインドが衝動的(反射的)に対象物をつかみ取ることがなくなってくる。無理することなく 静寂の中へと深く寛いでいくと、識別し・つかみ取り・コントロールするという マインドの衝動的な習性から解き放たれてくる

 

瞑想についての質問の答え

①  思考にのめり込まないための手法・役に立つ助け・船の錨/杖/補助輪のようなものとして、以下の方法が利用できる。

  自分の呼吸・動作・姿勢を意識したり、意図的に動きを少しだけゆっくりにしたり、視覚・聴覚・触覚などの身体感覚を意識的にオープンにしたり、マントラや念仏を唱えたり、祈ったり、「の感覚を呼び起こしたり、「ナーダ音」を聞くようにしたり、体の緊張を感じて リラックスしたり、お風呂にでも浸かって 体を緩めたり、頭の中で数を数えてみたり、お腹の膨らみ・縮みを意識したり、する。


  身体はいつもいまここにある。「いまここ」でない どこかを彷徨(さまよ)うのは、いつも思考である。だから「いまここ」に居るためには、身体を意識すればいい。もしくは、思考に発展しようのない単純な言葉や、意味をなさない音の連なりだけの言葉で 意識の場を埋めつくすことで、思考から逃れ「いまここ」に居ることができる。

  または、自分の身体の中ではなく、身体から離れた外の場所に視座をおいて、自分の動作や経験を 外から眺めているようにしてみる。存在(ただ在るという感覚)や静止(何かを求めて動き回らない)や沈黙(思考していない状態)そのものを意識するのも助けになる。

  やりやすい自分に合った方法を使えばいい。しかし、そのような手法は徐々に減らしていくように心がけること。そうすればだんだんと 意識しなくとも、ただ沈黙した 静寂の気づきの状態でいられるようになっていく。

 

②  瞑想中に、過去の辛い記憶・苦痛・恐れ・怒り・恨みなどが 湧き上がってくることがある。これらは、以前に抑圧していたものの浮上である。そのときは 分析も 否定も 抵抗もせずに、ただ湧き上がるに任せる。巻き込まれる(感情と一体化することなくジッと耐えて、ただひたすら傍観する

  それができれば やがて それらは受け入れられ、気づきの光の中で浄化されて 消えてしまい、あなたは解放される。もう心の奥底に留まって存続し、あなたを脅かし続けることは 二度となくなる。

 

③  瞑想中に、恐怖などの感情が湧き上がってくると、瞑想状態を維持するのが難しくなる。

  このとき 感情と闘って一体化するのでなく、①の手法を意識的に利用する。十分にリラックスしながら、自分のやりやすい「助け」を使う。決して それを浮上させた瞑想から逃げない

 

④  瞑想中に 本質が洞察・理解されることがある。これらは ただ与えられたものだと 感謝して受けとる。ただし、特別なことだと思い込んで それにしがみつかないこと。

 

⑤  ほとんど白昼夢のように衝動的にイメージが出てきます。好ましいものも、不快なものも、です。どうすれば良いですか?

  ①の手法、特に腹式呼吸に注意を集中してください。そして そのまま、ひたすら耐えて下さい

 

⑥  瞑想とともにあるスピリチュアルな人生のある時点で、様々な形で 強烈なエネルギーを体験することがある。

  そんなとき、そのエネルギーに取り込まれてしまったり、それを抑圧しようとしたり、コントロールしよう としてはならない。そんなことをすれば、もっと激しくなるか、もしくは そのエネルギーは 再び影に隠れてしまう。

  そうではなく、ただただ気づきを保つ。①の手法を駆使して、真の瞑想状態を保ち続ける。熱いお湯に浸かったように ジッと耐える。そして、目の前のすべきことを淡々とこなしながら普通に日常を過ごす。そうすれば、いつか それを自分の中に統合(受容)することができる。

  このエネルギー統合するには 時間がかかる。辛抱強くやらなくてはならない。何か月、または何年もかかる。そのようにして完全に統合し 受け入れたとき、前の自分が死んで 新しい自分が生まれている。そのとき そのエネルギーは、跡形もなく消滅している。

 

⑦  瞑想で 静寂とシンプルな状態の深みに達したとき、もっともかすかな意思や手法も おのずと 自然に消えていくことがある。すべての意思や手法を手放すことができ、マインドに没頭したり、ぼーっとしたり、ぼんやりした 鈍い気づきの状態に陥ることがないときに、「真の瞑想」が自然に起こる。

  瞑想の究極の形では瞑想している自分が完全に消えている。 

 


探求

  価値判断し、その価値に執着し、感情と一体化してしまう思考(評価する認知)が 苦悩の元凶であるが、すべての思考(認知)が苦悩に結びついている わけではない。価値判断を行うことなしに理に基づいて正しく考える思考を使って真理に近づくことが可能である。

  ただし、リンゴを食べることなしにリンゴの味を知ることができないように、思考のみで真理を知ることはできない。真理は体験するものであり、思考は 真理の一歩手前まで連れて行き、目覚めの準備を整えてくれるだけである。

 

  思考による探求とは、実在を問いかけることによってなされる。

  わたしとは一体誰で、何なのか? 人生とは何なのか? わたしが持っている考え・信念・見解・解釈・判断は、本当に正しいと言えるのか?


  思考によって、本当のわたしでないものを取り除く

  わたしの四肢や内臓は わたしか? わたしの職業や役割は わたしか? わたしの歴史や記憶は わたしか? わたしの意見や信念は わたしか? 

  わたしがつけている すべての仮面を剥ぎ取ったら 何が残るのか? 何かあるか? 何もないのか? 

  それに気づいているのは 何か? 気づいている何かが あるのか? ないのか? 誰かが いるのか? いないのか?


  わたしが想像してきた、しがみついてきた、または逃れてきたもの すべて、わたしのアイデンティティ すべてを疑ってみる。拒絶している すべてに目を向ける。わたしがしがみついているもの、あるがままと対立して信じている すべてのもの、固執していることで 自分や他人に苦悩を与えている すべてのものを探し出す

 

  あとは 疑問だけを抱えて、静かにジッとしている。ジッとして ただ観ている。すると 見えてくる。そして、自分の中で見出し 曝け出される幻想(思い込み)の深さにショックを受けるだろう。それを何度も繰り返すだろう。だが、その度に 落ち込んではいけない。受け入れ、許し、気持ちを切り替える。そうすればいつか わたしの真の存在()は、無限で絶対的なものであることに気づき、あらゆる分離が放棄され、わたしは 全体そのものにたどり着く


  もう一度 繰り返し、わたしの思考と わたしのストーリーに 疑問を投げかける。わたしの見解・わたしの出した結論のすべてに、「それは 思い込みではないのか?」と 疑問を投げかけてみる

 

探求についての質問の答え

  価値判断する思考は、より良い価値を求めて いつも次の瞬間を考え、前に向かって踏み出そう としているが、探求のための思考では、価値から離れて 後ろに向かって踏み出すようにする。

  探求するということは、これまでの 前に向かって踏み出すために条件づけされた考え方を取り除くか、一歩離れて それを見ることだからである。新たな回答を探すのでなく、これまでに条件づけされた思考・観念・信念を曝け出し、取り除いてより納得できる実感を得るための 道をつくるより深い理解が湧いてくるための 空間をつくる

  偽りの観念(思い込み)を追い払えば、いつでも 存在の静寂の中に静かに止まっている ことができる。

  そうすると あるとき突然、「ああそうか!」という 腑に落ちる理解・贈り物がやってくる


  探求とは直感的な叡智が湧き上がってくるための空間をつくるための手段であり、そのために、あらゆる信念・解釈に 疑問を投げかけるのである。空間が開け 広げられたら、その疑問は 存在の静寂の中に そのまま留めておく。

  すると、ブレークスルーの瞬間が 予期せぬときにやってくる

 

  つねに探求している必要はない。極めて重大だという認識・関心を持ったときに 探求すればいい。探求は 好奇心の姿勢であり真理を知りたいという強い願望を反映する

探求人生の基盤を揺るがし目を背けている課題に向き合うことを要求する。そのときには、大きな勇気が必要とされる。


 

黙考

  黙考とは、(以下のような)真理を示す言葉フレーズの意味が、啓示のごとく閃くまで、その言葉やフレーズを 気づきの沈黙と静寂の中で 忍耐強く抱き続けることである。

  分析したり 哲学的思索にふけらない。想像にも浸らない。ただ気づきの中に抱いて、留まって、「そうかっそういうことだったのかー」という意味が 自ずと芽生えるのに任せる

 

思考と苦悩からの解放

①  絶対的な真理である思考は 存在しない。

  これは ある考えが他の考えよりも真実である ということではなく、ただ 絶対的な真理である考えはない、つまり「真理とは考え方のことではない」ということを意味している。

②  あるがままとは、それについて考えを持つ前に起こっていること。

  あなたのマインドが この瞬間について考えることと、それについて一切考える前の ありのままのこの瞬間、との違いに気づく。

③  苦痛が生じるのは、現在のあるがまま、過去のあるがまま、そして 可能性としてのあるがまま と対立する考えを信じるとき

  この瞬間を、マインドで解釈することなく 体験する

④  あなたは、あなたのストーリーと 同一ではない。

  他の人々は、その人たちについてあなたが持っているストーリーと 同一ではない。

  世界は、世界についてあなたが持っているストーリーと 同一ではない。

⑤  苦悩とは現実と真実あなたが抵抗していること、または誤解していることを、生命(いのち)が教えてくれている形である。

  それは、あなたが あるがままと調和していないことを 生命が示唆しているということ。

⑥  より深い理解と洞察は、静まったマインド(マインドフルネス)から流れ出す。

⑦  幸せでいるとは、知らない ということを知りながら 生きること。

⑧  真に知るとは、知らない ということを知っていることである。

     真に知るとは、信じていたことが「思い込みであったと知ることである。


存在心の座の本質

①  内面を見つめて 自我(エゴ)としての自分を見つけないことが、存在していること(存在として)の自分を見つける始まりである。

②  存在(すなわちスピリット)は不変であり、あらゆる条件・あらゆる見方・あらゆる意識の対象・あらゆる主体が生まれる前に存在している。

③  存在は、すべてのものの本質である。

④  すべてのものの本質でいると、存在の他には何もない。

⑤  存在は自己認識し、気づいている。今この瞬間に!

⑥  存在はすべてを説明しない、存在はすべての本質なのだ。

⑦  存在を実感するのは唯一、存在そのものである。

⑧  あなたを通して、あなたとして、そして存在するすべてのものとして、存在のみがそれ自身を経験している。

⑨  存在は 生まれる前、創造される前のものであり、すべての源であり 実体である。

⑩  存在は 私たちの原状であり、あらゆるエゴの行為に先立ち、あらゆる思考に先立ち、あらゆる描写に先立ち、過去と未来に先立つものである。 

⑪  存在であることとは、時空の世界に先立って今ここにあり、常にあること。

  それは 雨の一滴、木から落ちる一葉、心臓の一鼓動である。

  それは 世界のない世界、空(くう)の実体である。

⑫  「私はある(I AM )」とは、純粋な存在()であること。

  それは 永遠不滅の真理全体にこだまする、リアリティの究極の告白である。 

 

無限なるもの心の座を超える 大いなるもの

①  エゴを超越したものが 普遍の存在であり、存在を超越したものが 無限なるものである。

②  無限なるものは 形を持たない純粋な可能性であり、存在と非存在、生と死、形あるものと形ないものに先立って存在する。

③  無限なるものは 一つでもなく多でもなく、二元性でもなく非二元性でもなく、世俗的でもなくスピリチュアルでもなく、自己でもなく他でもない。

④  無限なるものは、独自に持つ純然たる直感的な見地から、それ自身の隅々において それ自身を知っている。そして無限なるものは、それ自身が全く不可知であり、完全にそこにあることを知っている。

⑤  無限なるものを実感するとは、あなたの内的な世界を失うこと。

⑥  あなたの内的な世界が消えることは すなわち、永遠の沈黙ということ。それは 光り輝く存在になるということ。

⑦  万事良好。想像しうる以上にすべてはうまくいっている。   

     初めからずーっと、ありのまま・そのままでよかったんだ!



結び

  本質を発見することは 目覚めであるが悟りではない。それは始まりであり内なる変革への入り口に過ぎない。内なる(自己)変革こそが悟りである。

  本質の実感(目覚め:色即是空)が変革(悟り:空即是色)を保証するわけではないが、本質の実感なくして 変革することはできない。

 

内なる変革

  この変革とは、エゴとは思い込みであったことに気づき、今まで繰り返してきた(思い込みに基づく)反射的・無意識的な 認識と行動から脱し、自分自身と世界に対する(思い込みからの脱却という本質的目覚めを 日常生活に生かしていくことである。

  それは 生涯続くプロセスである


  目覚めたからといって、人生に対する認識方法・反応の仕方・行動パターンが 継続的に変革していくわけではない。この変革・深化が保証されるわけではない。真理を求め本当の人生を生きたいという強固な意志だけが、これを可能にする。


  内なる変革が起きなければ条件づけされたもの(思い込み)が繰り返されるだけで、新しいもの・新鮮なものは開花しない。無限の可能性が目を覚ますことはない。


「リアリティ」は、私たちが持つあらゆる「リアリティの観念」を超越している。草の葉の中・ティーカップの中・秋風の中・歯磨きの中・一喜一憂するすべての一瞬一瞬の中に、それを見出せる。

  人生のあらゆる表現の中に 神聖なるものが見いだせる

  すでに知っていること、過去のこと、あるいはいかなる「条件づけ」も参照することなく、未知の領域に進んで一人で立たなくてはならない。まったく無防備で、無心に、謙虚に 立たなくてはならない。

  根拠もなく 受け入れなくてはならない一瞬だけでなく、終わることなく永遠に。そのとき、聖なるもの、分離していない完全なものが 意識の中で生まれ、自己表現を始める

 

 

終章

  

  ある朝目を覚ますと、すべてが違っている。これまで感じたことのない気分だが、夢ではない。今までが夢で、今こそが本当なのだ。どうして 今まで気づかなかったんだろう。

  内側を見てみると、そこには誰もいない。今まで自分だと思っていた自分がいない。外側を見てみると、いたるところ自分だらけだ。今までの自分ではない自分だらけだ。他のすべてと同一の自分とは いったい何なのだ。奇妙だ。

  他のみんなの話していることが本当でないことに気づく。全部がでっち上げたものでありながら、真実だと見なされている。なぜ みんなは分からないのか。彼らにとっては、それが現実である。何と不思議なことだろう。

  立ち止まって 公園のベンチに座る。そこに座ると すべてが止まり、突然 落ちていく。下に地面はなく、頭上に空はなく、圧倒的な沈黙だけがある。自分がバラバラになりそうなのを実感する。逃げ道はない。委ねるしかない。

  すると、あらゆるものが空っぽになる。生死以前に消えてしまう。不死なるものが 生命に目覚め、あなたの目を開く。あなたという存在は、まだ公園のベンチに座っている。周りの景色は変わらないが、どこも空っぽだ。完全にありのままで、完璧であり、無限が広がっている。その他には何もない。

  今までの人生は、無限なるものの無限の可能性が 実在へと行き来している つかの間の表れで、実にささいな出来事であったこと、そして 今もそうであることを実感する。

  この公園のベンチの上で、異なる二つの世界が交差している。「どうかした?」って、誰かが尋ねる。「別に、なにも」と、あなたは答える。

 



教えの要約


  静寂であること。


  それは「思い込み」 ではないのか? と、すべての考えに 疑問を投げかけること。


  リアリティの源を黙考すること。

 

  そして、いつも目を見開いていること。


  まったくたいしたことがないように見えるものが、いつ あなたの世界全体を永遠の歓喜へと 大きく開くのか 分からない。

 



(最終改訂:2021年4月3日)