本当のわたし
自我は エゴとも呼ばれ、 価値判断して その価値を追求する「わたし」 のことであるが、
それは「本当のわたし」ではない。
「エゴ」という言葉には「悪い」イメージがあるが、
でも 自我が いつも悪いわけではないし、 自我には自我の役割がある。
「自我:エゴ」 は 「本当のわたし」 ではない と気づくことが「目覚め」 であるが、
目覚めたとしても わたしたちは「自我なし」では やっていけない。
だから エゴを否定し、滅尽させようとしてはいけない。
エゴは 仮なるものであり 機能に過ぎない、
ということを理解した上で エゴと仲良くやっていく。
ただ エゴに 「しがみつく」 ことはできないことを知る。
「エゴとして」 だけ生きるのではなく、「エゴをなくす」 のでもなく、
「エゴを抱えたまま」 エゴを超える「全体」の中に生きる。
「自我」 を確立した上で【戒】→ しかも 自我に囚われず【定】→ その自我を超えて生きていく【慧】
「戒」は、健全な・真の自我を確立するために 必須の「始めの学び」なのだ。
「智慧」を身につける その前に、まず先に「戒」を身につけなければならない。
そして 「真の自我」 の確立のためには ただ たんに 「戒」 を守るだけでなく、
自我の思考によって「善い」と判定され 受け入れられた「表のわたし」の影に隠れてしまった、
「悪い」と判定され 否定/抑圧された「負のわたし」に光をあてる(無視しないで関心をもつ)
ことによって 同じように受け入れ、
その二つの対立を解消できれば「分離した自我」が統合され、
二つの自我の葛藤がなくなり 要素をありのまますべて認めた 完全な自我になる。
これが 「自我レベルのわたしの統合」 であり、「真の自我」の確立である。
普段の自分には「表の善いわたし」 しか 意識できていないが、
無意識下の 「別(負)の悪いわたし」 も 「わたし」 であることを忘れたままにしておいてはいけない。
では「自我でない本当のわたし」とは 何か? 「本当のわたし」を構成する「要素」は、
自我(という心)だけでなく、身体、そして わたしと関係のある
外部の存在(社会・自然環境)の すべてである。
「わたし」と関係のないものは この世に存在せず、
「わたし」の生存に必須の条件である 社会や自然環境は、
「わたし」と 常に相互依存し 因縁の絆で強固に結ばれている。
それら すべての要素に公平に 関心(social interest)を寄せ、
真の自我(という要素)と わたしのからだ(要素)と外部のすべて(の要素)と
そして、「要素」ではない 要素が存在する(要素を入れて それを認識する)
広く開かれた「空間」としての 本質(基盤:心の座)を さらに 統合することによって、
「分離したわたし」が統合され、
自我を超えた存在としての「真の実在(大いなるもの:全体)」 となる。
これが「実在レベルの より大きなわたしの統合」 であり、
「梵我一如」 という言葉も 同じことを表している。
「真の実在である 本当のわたし」とは、 本質(座:空)だけのことではなく、
「要素(色)」 と 「本質(空)」 の 両方を備えた「大いなるもの」である。
すなわち「色即是空即是色」が、大いなるものの「在り方」でもある。
以上は あくまでも 「私が」 そう定義してみたことであり、 「私の」 理解と説明の仕方(方便)である。
そして 「真の自我」 と 「真の実在」 の間には、様々なレベルの「わたし」が存在する。
たとえば、自我:心と 身体:体を統合した「心身一如のわたし:現象」
一つの生命体の中にあって、 その心と体を認識している「心の座としてのわたし:本質」
これらを 「本当のわたし」 と呼ぶことも可能だろう。
どれもこれも 「わたし」 であるが、
「わたし」 という言葉を使うとき それは 一体 どの 「わたし」 なのかを意識するようにしてみよう。
説明の仕方の枝葉に拘ることなく、ここから 「自分の智慧」 を見つけて欲しい。
以下に、本質としての「心の座」をベース(本当のわたし)としてみた人生について、
「表現」という観点で考察してみる。
本質【空:心の座】は、現象という形【色:要素】を通してしか 自らを 「表現」 することができない。
心と体という 現象は、心の座という 本質の「表現形」である。
だから 表現することが 生きることである。生きることによって 「本質」 を表現している。
「生きる」ことは「表現する」ことだ 、 とも言える。
そして「作品や業績」 だけが 表現の手段なのでなく、
わたしの生きている姿・存在自体が、すでに表現なのだ。
何をしていようと(doing)何もしていなくとも、 どのように在ろうと(being)
それが 表現であることに変わりない。
人間は(なんらかの形を通して)表現したくて仕方ない生き物なんだ。
そして その表現は、 カルマとしてでなく、 無為の表現であるべきだ。
素直に楽しく、 わたし自身のあるがままの全体を 表現しよう。
怖れることなく、 つまり 自己防衛ではなく 自己開示しながら、
サンカーラなしに 因縁の流れの中で、 自分らしく 「本当のわたし」 を表現しよう。
「わたし」 の表現である 日常生活の「形」を おろそかにしてはいけない。
丁寧に 丁寧に、 「過程」 を大切にして、 日々を暮らしていこう。
「良好な人間関係を築く」ことは、もっとも重要な 表現の形である。
良好な対人関係という 「表現」 が、 わたしの幸せをもたらしてくれる。
「本当のわたし」 は、心の底から 強く「自分自身」 を「表現」 したがっている。
(最終改訂:2023年3月10日)