「空くう」を生きる
分離の消失【空:非二元】を 一時的に体感する「一瞥体験」は 極限的至福感を伴い、
これこそ 「悟り」 であると思い誤るほどに 強烈なようだ。
そのような体験をする人は たしかに存在し、 その至福感の強烈さゆえに それを語り伝えようとし、
語る言葉もまた 非日常的かつ大言壮語的なものになりがちだ。
道を求め その言葉に惹かれるものたちは、
悟るためには 同じような体験することが 必須である と思ってしまうかも知れない。
しかし それ(一瞥体験)は 真の 「悟り」 のための必要条件ではないし、 ましてや十分条件などではない。
そのようなタイプの人たちがいて、
その体験の希少さと 表現の特異性のために 人目を引きやすいが、 ただそれだけのことだ。
たぶん 体質的なものだろう。 みんなが そのような経験をする必要もないし、
それは「空性」 の理解【目覚め】に至る たくさんある道の一つに過ぎないだろう。
それは 真理(空:無我)を目撃(体感)した という意味で、 大変貴重な体験であろう。
だから、進むべき方向を しっかりと指し示してくれる導きの星となり得る。
しかし、 そこで終わってしまってはダメだ。
真理【空】の認識の理解が 人生のすみずみにまで浸透し、
毎日の日常生活【色】に反映されるまでは、 けっして その 「歩み」 を止めてはならない。
目覚め【空即是色】の日常化・真理の浸透は、 自分が生きている間は永遠に続く過程である。
日々の出来事を「目覚め」 の観点からチェックし、
それを より善い生き方につなげるように心がけながら、暮らしていこう。
思考のフィルター【無明】が外れた「ありのままの真実」は、
(もしも 言葉で表現するなら)喜びと安らぎに包まれた 平和な世界であるが、
それと同時に 悲しくて虚しく せつない世界でもある。
言葉の世界は相対的であり、対になる概念で常に相殺される。
だから、 「言葉」 を超える世界を生きよう。
したがって、ありのままの真実である「空(非二元)の世界」にいるときの感覚を
「至福」という言葉だけで表現するなら、 それは誤解を招くことになり、
マインドフルネスの修行の妨げにさえなり得る。
「目覚めの一瞥」のような 強烈な体験で 直接感得した「空の世界」 を 「至福」 と感じるのは、
たんに それを経験する直前の ネガティブな状態とのギャップの大きさと、
変化の急激さ によるものであろう。
「空」は 本来「中道・ニュートラル」で、ポジ/ネガ・是/非などの 対になる意味を持たない
裏表のない・対立しない・二分されない 相対的ではない(非二元の)世界である。
もちろん、
「空」 は 「苦悩」 を内包した「我」 という(想→行→識)システムが剥ぎ取られた世界であるから、
苦悩が存在しないという意味で たしかに「至福」であるとも言えるが…
しかし、 「空性を理解し目覚めた。 やったー ここがゴールで これで終わり」と思ってしまったなら、
その瞬間に その人の人生は 本当に終わってしまうだろう。
終わりのない 変化し続ける歩みという 一瞬一瞬の中に 「生き続ける」 ことが、
「本当に生きる」 ということであり、 それが「無常を生きる」 ということなのだ。
真理とはなにかを理解することを「目覚め【色即是空】」 と呼ぶなら、
目覚めは 人生のゴールではなく スタートである。
「目覚めた後、 どう生きる(どう実践する)のか」
それが「悟り【空即是色】」の意味するところであり、
目覚めたのちの生き方が 「空を生きる」 ことである。
それは、 「空に裏づけられた色を どう生きるのか」ということだ。
目覚めにより 「あるがまま」 の受容が(理解として)可能になり、 すべてがOKと知る。
しかし、 「目覚め」 は 「悟り」 ではない。 「理解」 と 「実践」 は 違う。
実際の自分の人生(日常生活)と どう関わるのか、
暮らしの中で(実践として)どう受容していくのか。
覚醒後の悟りとは、そのプロセスのことである。
目覚めたのちの生き方は 遊びのようなもの(リーラ)だと言われる。
目的も意味も求めず、それ自体(過程)を楽しむことが 「遊び」 だ。
生きることの中には 特定の意味も目的もなく、 だから そのための準備も計画も不要だ。
「生きている(being)」 ということ自体に 意味がある。
遊ぶこと自体が目的で、結果はいらない。
人生とは遊び(のようなもの)だ、 と気づくことが目覚めだ。
ただし、
「人生とは遊びだ」とうそぶいて いいかげんに生きることと「空を生きる」ことは、明確に異なる。
そして 遊ぶことを狭い意味の遊びと捉えることも間違っている。
「遊ぶように生きる」 ことと 「遊ぶ」 ことは違う。 これは、 よく見られる 大きな間違いである。
リーラとは、余裕を持ちつつも 力いっぱい心を込めて遊ぶように生きることだ。
それは、過程を味わい 楽しむことだ。
ダンスもピクニックも、 遊び だから楽しい。
川が 自由に悠々と流れるように、イキイキとした 「いのち」 が ただ流れている。
それは、気負わず 肩肘はらず、結果を気にしないで淡々と、
しかし なおかつ 深刻でなく真剣に 「いまここ 」 を生きるという在り方だ。
いいかげんでなく 真剣に「遊ぶ」 のである。
深刻でなければ 笑えるハズだろう。 真剣でありながらも 笑えるハズだ。
「遊び」 と 「笑い」 は似ていて、 ともに 「いまここ」 に在る。
遊んでいるときは 心の底から 「寛いで」 いて、
自分が何ものであるかを 証明する必要がなく、
だから 「どこかの誰かの目」 も気にならない。
全体という因縁・縁起の中で、 ネッワークの在り方 に従い、 やりたいように やればいい。
どんな結果であろうと受け入れて あるがままを認める覚悟があれば、
つまり、どんな結果であろうと 引き受ける覚悟があり 結果を気にしなければ、
やりたいようにできるハズだ。
「愛する」 ことは 「受け入れる」 ことである。 愛することができれば やりたいようにできる。
(最終改訂:2023年3月20日)