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「悟り」は特別なことではない
「悟り」 を 生涯の目標として修行し・目覚め そして それを深めた人、
または 突然のように・強烈で・不可逆的な 目覚めを経験した人は、
「スピリチュアル・ティーチャー」 となる道を選ぶか または選ばされることが多いようである。
そして「悟りを伝える」ことが 彼らの 「目覚めた後の 悟りの生き方」 となるのだが、
その 「伝え方」 は 人により様々に異なっている。
一方、目覚めなど必要としない人々もいる。 目覚めや悟り という言葉を使わず
特別な修行などしなくとも、「人生において もっとも大切なものは何か」 と 誠実に追求して
それを理解し、 「普通に暮らしている人たち」が いる。 それもまた 「悟りの人生」であろう。
「空」 や「非二元」 を理解せずとも、 つまり「目覚め」ずとも、
人間として「正しい(適切な)生き方(悟りの人生)」を送っている人たちが いる。
ホモ・サピエンスは 思考:虚構という能力を使って、生に付随する 「苦」 を克服しようとしてきた。
それが文明の進展の形であるとも言えるだろう。文明は、 非リアルな虚構とともに発展してきた。
しかし「苦」は 減ったかも知れないが、 代わりに「苦悩」が 増えてしまった。
結局のところ 人類の営みは、 たんに 「苦」 を 「苦悩」 に変換し続けてきただけなのかも知れない。
そのように「文明に翻弄されてしまった人たち」 には、「目覚め」 が必要になった。
だが そこに巻き込まれることなく、「目覚めなど必要としない人たち」 も たしかに存在している。
「文明に毒された 目覚めが必要な人たち」には、
そのような 目覚めが不要な人たちの真の姿が見えていない。
だから、周囲の人たちを凡夫と呼んで 一括りにしてはいけない。
凡夫は 目覚めてはいないかも知れないが、
その中には すでに「正しく生きている人たち」 がいるだろう。
しかし 文明の進展とともに そのような人たちは少なくなってしまったのかも知れない。
文明(思考・虚構)が 「目覚めを必要とする人たち」 を増やし続けているように見える。
大切なのは「目覚め」ではなく、 「悟り」の方 なのだ。
「悟り」とは 小難しいことではなく、
「人間として正しく(適切に)生きる」 という それだけのことである。
「わたし」 は 文明に毒され、虚構の中に生き続けて
「正しい生き方」 を知らない凡夫であったが、他の人たちもそうだとは限らない。
平凡な日常の中に悟りがあり、 その日常を正しく暮らしている人たちがいるではないか。
自分が 虚構の夢から目覚めると、周囲の人たちが すでに悟っていたことに気づく。
非リアルな虚構の世界を構築することなく たしかな リアルな日常の世界に留まり続け、
リアルな 「苦」 に 適切に対処して 生きている人たちが いる。
そのように 目覚めなど必要としないで、 悟りを生きている人たちがいることに 気づく。
その人たちは、 「小さな苦」に適切に対処しながら
「小さな悟り」を少しずつ積み上げてきたのかも知れない。
「目覚め」 は 「悟り」の必要条件ではない。
あまりにも過酷な外部環境の中で とても辛い出来事に出会ってしまった人、
そのために リアルな 「苦」 から目を背けて 非リアルな 「虚構の夢」 の中に入り込まざるを得ず
「苦」 を「苦悩」 に変えてしまった人たちが、 「苦」 ではない「苦悩という 苦しみ」 の中にいる。
そのような「苦しみ」の中にいる人にだけ、 「虚構の夢」 からの「目覚め」 が必要なのだ。
「悟り」は特別なものではないし、 声高に叫ぶものでもない。
難しいことは 何もなく、 本当はシンプルなことだ。
(理屈で分っている)当たり前のことを(骨身にしみて)「当たり前」だと認め、
24時間・365日 忘れないでいて、ただ それを実践するだけのことである。
「悟り」を、 再び「承認欲求の手段」 と化してはならない。
(最終改訂:2024年3月11日)