色即是空 (6)苦と苦悩は違う(苦から逃げない)PC版 | やすみやすみの「色即是空即是色」

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「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

苦から逃げない:苦と苦悩は違う


 から逃げても   苦悩 に姿を変えて 追ってくる。         逃げるから  追ってくる。
どこまでもどこまでも追ってくる。けっして振り切ることはできない。逃げれば 悩む

(不快な状態)          苦悩(苦を悩む・苦を否定すると発生する)           は違う
   価値判断からではなく 自然な 本心からの快を求める欲求:結果は関係ない
欲望価値判断に従って 「善い」 を望み 追求する気持ち           :結果が必要は違う
【と 定義してみると、仏教のことが よく分かるようになる と思う】


苦と苦悩欲と欲望は 違う

苦と欲(快)は リアルなあるがままの感覚で、ともに 等価に味わうもの。
一方、欲望:貪と苦悩:瞋は 人間が自分で創りだし非リアルな感情
が結果を求め、欲望と苦悩が生まれる。

                 欲望と苦悩は コインの裏表。
                   欲望が 苦悩をつくる
                 欲が 苦をつくるわけではない。
                            (結果を)望めば 悩む

仏教では、「欲が 苦をつくるので、苦をなくすためには欲をなくすべきだ」   と 教えられている、
                                                                  と 一般的には思われているようだが、これは誤解だ。

正確には、
      「欲望が 苦悩をつくるので、苦悩をなくすためには欲望をなくすべきだ」 と言うべきだろう。

欲と苦は 生存のためのリアルな存在であり、
                                                      人間が 創り出したものではなく 人間が 従うべき存在である。
そして 欲が苦を創るわけではなく、 欲も苦も ただ在るものである。苦と苦悩、 欲と欲望は 違う


欲望が苦悩をつくる」 とは どういうことか?
追求し・望むという 「欲望」 と 否定し・逃げだしたいという 「欲望」 が、 「苦悩」 をつくる。

リアルな現実においては 追求しても 手に入らないものがあるし、
                                     手に入れたものも いつかは再び なくなってしまう。
リアルな現実においては、 否定しようとしても 否定しきれないものがある。

だから(過剰に)追求したり 否定したりすれば、苦しんで 悩む(苦悩する)ことになる。

逃げれば・否定すれば 悩む。望めば・追求すれば 悩む。逃げても望んでも 悩む

リアルな現実に無理やり逆らうという 非リアルな 「欲望」   「苦悩」 を生んでいる

だから、
追求したいという 非リアルな「欲望」や 否定したいという 非リアルな「欲望」を
                                                                                                                   なくすのだ。
あるがままの リアルな現実を 「受け入れる」 のだ。あるがままでいれば 悩まないのだ。

ただし このとき、 心の奥底から湧き上がる リアルな欲まで なくしてはいけない
なにがリアルで、   なにが非リアルなのかは、 マインドフルネスが教えてくれる。

そして 避け得ないリアルな苦から逃げださず
                                     マインドフルネスでしっかりと受け止めて、受け入れる
「あるがままでいる」とは、このことだ。

リアルな欲には したがい   非リアルな欲望は なくすことだ。

苦と苦悩欲と欲望は違う
その違いをじっくりとマインドフルネスで感じ取ってみよう!


欲望(行)
「◯◯に違いない」 という観念(想:思い込みに支えられている(基づいている)
                                                               「だから、 〜ねばならない」 という想いである

「わたし」 欲望 を諦あきらかにし、 その欲望を支えている 観念 を諦あきらかにし
その観念はくう」 から 「わたし」 が創りあげたものだったと知れば
    苦悩は 自分が勝手に生みだしたものであったことが分かり、「苦悩」 は消えるだろう

一方の「欲」は、観念(思い込み)に基づくものではない。

非リアルな 「観念こころ」 に基づく 「欲求」  「欲望」 であり
                                                      リアルな 「身体からだ」 に基づく 「欲求」  「」 である

もちろん 身体の欲求を 100% 追いかけることは「渇愛」 であり、
                                                        それを 「ほどほどに」 コントロールする必要はある

自分の中にある「欲」や「欲望」を絶対視することなく ほどほどにつき合えばいいだけのことだ。


「不快(苦)」 を避けても「快(楽)」 を求めても 構わない。
それが 観念によるものでなければ、きわめて自然なことだ。

そして もし 避けられないなら、  求めても得られないなら、 (イヤイヤでなく)諦める
それを ただ味わう。当たり前の(諦かな)ことだ、そういうこともある と受け入れる

状況は 次から次へと流れ 変化していき、結果はコントロールできない のだから。

「苦を 受け入れられない。為すすべがなく 死ぬほど苦しい」と感じるなら、
                                                      苦しいと言っているエゴが 死ねばいいだけだ。


ブッダが「人生は苦である」と言ったのは、
苦悩ではなく 苦は 当たり前のことだ、だから 苦から逃げるな
                                                                                 ということを  伝えるためだ。

ブッダは、「人生は いつもいつも 全面的に苦しいものだ」 と言ったわけではない

ときには 人生のある局面において、  辛いこと・嫌だなと思うことあるだろう。
でも それが 人生の流れの中で取り組むべき 自分自身の課題であるならば
                                                     そこから 逃げてはならない」 と、 そう言ったのだ。

もちろん、  逃げた方がいいときもある。たしかに ある。
逃げる方がいいのか、 逃げてはいけないのか
                                                    その違いは マインドフルネスが 教えてくれる。

苦から逃げずに、むしろ 苦の中に深く浸透していくと、不思議なことが 起こる。
パラドックスが 起きる。そして「が ダイヤモンドに変わる
                                                                   これは、  「苦行」 とは違うものである。


四聖諦(苦集滅道)は 仏教の教えのエッセンスである。
まず、わたしに 「」 があることを認める。その 「苦」 には 原因()がある。
そして 正しい方法()で修行すれば、  その 「苦」 は 「 することができる。

四聖諦の
実は 三相(無常無我)の 「苦不快なこと ではなく、「苦悩」 のことである
そして その「苦悩の原因は、 「から逃れようとすることである。

だから 苦と苦悩を 分けて考えること名色分離智、限りなく重要だ

「道」は八つあり、 八正道と呼ばれる。
八正道の最後の二つは、  「正念と正定」  正念正定とは、 マインドフルネスのこと。

すなわち、マインドフルネス(八正道)により
                           から 逃れようとするのを止めれば、「苦悩はなくなる



(最終改訂:2022年11月7日)