小学校一年の高志は総合病院前にある公園で一人つまらなそうにブランコにのっていた。そこへ見知らぬ背の高い細身の男が声をかけてくる。
「 どうしたの?なんだか寂しそうだね? 」
高志は悩みを持っていた。それを誰にも話せず心に重く抱え込んだまま、幼い頭で難解な問題を必死に考え苦しんでいた。
そこへ声をかけてきた目の前の男は自分の生活になんの共通点もないことから、子供ながらにこの人になら話しても大丈夫だと思い、男の優しそうな笑顔に安心しきって話し始めた。
「 僕のおばあちゃんが入院しちゃったんだ。もう何日も起きてない。」
ぽつりぽつりと話す、その表情は酷く心を痛めている様子で、男の方も深刻な空気に水をさす事のないように、時折頷きながら高志の言葉を待つ。
高志の話では、祖母のお見舞いには両親で来たという。病室には父親の姉にあたる親戚の伯母、そしてその夫である叔父もきていて、今後の祖母の面倒を見る人を誰にするかで話あっていて、高志は生臭い話を聞かせまいとする母親に病室を追い出され、一人公園で暇をつぶしていたのだ。
「 あれじゃ、おばあちゃんが可哀想! うちのお父さんとお母さん仕事でいつも遅くなるから、僕毎日おばあちゃんの家で夕御飯食べてたんだよ!伯母さんだって、叔父さんと喧嘩するとすぐにおばあちゃんの所にきて文句言って、何日も泊まったりするのに!」
高志は、大人の身勝手さに酷く憤慨しているようで、顔を真っ赤にして話し続ける。おばあちゃんが困ってる時になんで助けてあげないんだよ!と半ば泣きべそをかく。
高志の頭を男が優しくなでた。
「 私は“思い出屋”なんだ。私の思い出で、おばあちゃんを少し元気に出来るかもしれない。」
高志は男の顔を見上げる。男が懐から小瓶とストローを高志に見せるように取り出すと、瓶の蓋をあけ中の液をストローですくい取り、ふぅっと緩やかに息を吹き込み小さなシャボン玉を作り出した。そしてそれを高志の手の上にのるように風に流す。
手の平にシャボン玉を受け取った高志は、ふわふわと揺れながらも、それが壊れる事なく虹色の光を映しているのを不思議そうに見つめた。
「 これをそぉっとおばあさんの鼻先で割ってあげなさい。」
柔らかく諭す声に、高志は力強く頷き、小走りで病室へと向かった。勿論高志だってそれを鵜呑みにしたわけじゃない。だけど、何であってもすがりたかった。祖母の眠る病室の前まで来て一度深く深呼吸をした後、音を立てないように慎重に引き戸を開き中へ入る。
両親と伯母夫婦はその場には居なかった。きっと場所を変えて相談してるのだろう。高志はベットに忍び寄り、祖母の顔を覗き込む。青白い顔に表情は無く、昏々と眠る姿に死を連想して高志はぎゅうと胸を掴まれた感覚を覚える。
目を閉じて祖母の回復を何度も祈って、小さな手に包むように持って来たシャボンを祖母の鼻先に押し付けるようにして割った。 ぱちん、
簡単に弾けたそれはふわりと柑橘類の香りをふりまく。高志は祖母の顔をじっと見つめた。そのしわだらけの目元から、一筋の涙が毀れる。弱々しく震える口元から消え入りそうな声がきこえた…。
「 ねぇちゃんと食べた夏みかんのにおい… 」
祖母のその言葉はどこか幼さを感じる言葉だった。高志は眠ったままの祖母が反応を示した事に驚きながらも歓喜し、細い枯れ枝のような手を握りはやる気持ちを抑えながら、おばあちゃん!と声をかける。
うっすらと目を開いた祖母だったが、それ以上の反応はなく、高志を落胆させたが、シャボン玉の効果で目覚めたという事実に励まされ、高志は再び男の居る公園へ走った。
男は高志が先ほどまでのっていたブランコに揺られながら、空を仰ぎ口笛を吹いていた。駆け寄ってきた高志に「どうだった?」と、良い結果だという事を知っているよという柔らかい表情で問いかけて来た。
「 お、おばあちゃん、目ぇ覚めた!でも、もっと元気にならなくちゃ、さっきのシャボン玉もっと欲しいんだけど… 」
息せき切ってお願いをする少年に男は少し困った顔をしたが、すぐにまたあの小瓶を取り出してくれた。
シャボン液に息を吹き込む前に男はこう言った。
「 思い出は万能じゃない。お祖母さんを完全に元気になんて出来ないよ。でも、君がどうしても困った時は、このシャボン玉を君の鼻先で割るといいよ。 」
とにかくシャボン玉の欲しい高志はうんうん、と何度も何度もうなずいた。そして望みの物をもらったら、すぐに走りだしながら後ろに大きく手を振り男に聞こえるよう「ありがとう!」と叫んで行った。
病室の前でぜいぜいと背中を丸め自身を落ち着かせ、今度は姿勢を正して戸に手をかけた。しかし、開けきる前に中から聞こえる会話に動きを止められた。
「 なぁ、母さん。姉さんの所がいいよな。姉さんは専業主婦だし、俺達は共働きで日中は母さんの面倒みれないもんな。 」
高志の父の声だ。声は優しいが、どこか祖母に頷かせようとする言い迫った感じもある。戸の隙間からのぞくと母の姿も見える。その手は父の腰辺りに軽く当てられ父にプレッシャーをかけていた。その様子に高志は嫌悪感を抱いた。
「 ちょっと、高次。うちにはアンタ達の家程経済的にゆとりないの知ってるじゃない!」
伯母のヒステリーを起こしそうな声。自分の老いた母親を前にしても遠慮はない。そんな図々しさが高志は嫌いだった。
「 お義母さん、私達が協力してお金を用意しますから、施設に入られては?プロの方にお世話していただいた方が私達も安心ですし…。」
にこにこと愛想笑いを浮かべる叔父にも腹が立つ。
祖母は悲しそうに微笑して、諦めている様子で返事をする。
「 お金の事も気にしなくていいわ。私の事だもの。施設もいいかもねぇ、お友達も増えるわ。」
病室の戸を閉め、その戸にもたれながら高志は歯を食いしばり、にじみ出る涙をぐっとこらえた。手にしたシャボン玉を見つめ、目覚めた事で家族のあんな姿を目の当たりにしてしまった祖母に、心の中で謝罪する。
強く目を閉じた時、高志の目から毀れた水滴がシャボン玉の上に落ちた… ぱちん。
ふわりと廊下を抜ける風邪にあおられ閉じ込められていた香りが高志の鼻に届く。
どこか埃っぽいような、それでも気持ちのいい緑の匂いがした。
目を閉じたまま高志は見た。
教科書でしか見た事の無い田園風景を、日本の古き良き田舎の風景を。
高志が高志として誕生するよりずっと前の景色。魂の記憶。
遠くまで続く青空の下、まだ育ちきっていない稲が、ざぁあと風になぶられ波打つ。
その先で自分に手を振る女性の姿が見える。
もんぺ姿に頭に手ぬぐいを巻いた女性は、手に持った包みを高く掲げ
「 お昼にしましょー 」
と、元気にこちらへ呼びかける。
「 さなえさーん、今日の昼飯は何かー? 」
自分が女性に声をかける。
目を閉じたまま高志はみた。
駆け寄ってくるあの女性は、写真で見せてもらった事がある若い頃の祖母だ。
若くして無くなった祖父は、祖母の事を「 さなえさん 」と呼んでいたともきいた。
初めて見たその光景に、高志は懐かしさを感じていた。けれどそれは鮮明な記憶として少年の中に息衝いている。それは自分の魂がその昔、一人の男性として存在していた事の証だった。
悔しくて流れていた涙はいつのまにか、思い出を儚むあたたかいものに変わっていた。
顔に付いた雫をゴシゴシと乱暴に拭いた高志は、病室の戸をあけ堂々と中に入っていくとこう言った。
「 さなえさんの世話は私がやるよ。 」
そして、祖母の傍に近付き彼女の頬をなで、こう続けた。
「 寂しい思いをさせてすまなかったね。 」
祖母が唾液をこくんと飲んで、涙声で高志の手を握る。
「 英次さん… 」
遠い昔そう呼び合っていた若い夫婦がそこにいた。
幼い少年と祖母が寄り添う姿に、まわりの者は何故か自然とそう印象を受けた。
高志は学校から帰ると、そのまま祖母の家へ行くという生活を送っていた。
毎日の日課は夕方の散歩。
その日も高志が祖母の乗る車椅子を押して、他愛ない会話をしながら住宅街を30分程巡っていると、どこかでパープーパーと豆腐売りの鳴らす音が聞こえる。
「 あの音だけは昔と変わらないわねぇ。」
彼女が目を細めていうので
「 今日は冷奴でも食べたいねぇ。さなえさん、家に小ねぎはあったかな? 」
と今日の献立を高志が提案する。
普段はおばあちゃんと読んでいるのに、何故か昔の話が出ると、祖母の名を自然と呼んでしまう。そんな自分に戸惑う事なく高志は幸せを噛み締めていた。
それは今の二人の時間が思い出とともに流れているからなのだろう。
おだやかに時間が過ぎてゆく。その中に息づく小さな幸福に二人は感謝しながら、長い影を地面に落とし、家に帰って行った。