「 思い出せないのよねぇ。」
気だるげに彼女はそう切り出した。向かいの椅子に座った男は ため息をつき問う。
「 本当に? 」
ううむ、と彼女はうなって記憶を遡る。
右手人差し指で机をこんこんと叩く。綺麗に伸ばした爪が心地よい音をたてる。
彼女の爪には桜色のマニキュアが塗られ、その上に白と赤で小さな花が描かれている。
親指のその柄が一部剥がれていた。
「 あ、金曜の夜頑張って塗ったのに。 」
三日もてば充分か。彼女が自分を納得させたのに男が興味を示す。
「 そういうのって時間かかるんだろ? 何時頃に塗ってた? 」
「 確か9時頃、そうそう、好きなドラマ見ながら塗ってたんだ。 」
彼女は記憶をたどるきっかけがつかめたというように目を輝かせた。
いつも見ているドラマは、夏の定番である野球中継の延長により、日頃より遅く始まったと言う事を思い出す。
その時の気分は最低で、仕事はミスして上司に説教をくらうし、残った仕事をほったらかして退社したのに夕方からの約束はすっぽかされる、家に帰って紅茶を入れればお気に入りのティーカップは割ってしまう。
仕方なしに、色気のないマグカップに紅茶を注いで本を読んだりテレビを見たりと時間をつぶしていたのだ。
「 約束していたのに彼とはあってないのか。 」
朧な記憶に浸っていた彼女を男の声が引き起こす。
「 うん、約束してた時間に遅れた私も悪いんだけどね。それでも、たかが数分よ?待っててくれてもいいじゃないねぇ?」
頬を膨らませ同意をもとめるが、男はそんな事には興味ないよとでも言うように軽く首を振った。しかし彼女はお構いなしに愚痴を零し始める。
「 その約束だって、やっと取り付けたのにさ。会社変わってから忙しくなったのか中々デートも出来ないんだもん。会社の近くに新しいパスタのお店が出来たから夕飯くらいたまには一緒に食べようって。 」
私はトマトソース系が好きで、彼はペペロンチーノを良く食べるの、不愉快だった気分
を払拭した彼女は、愚痴から一転、のろけモードに突入した。
同期で入社した彼とは仕事を通じて意気投合した。
仕事帰りに呑みに行ったりする事も多くなり、恋人に発展するにはそう時間はかからなかった。仕事の飲み込みの早い彼はよく彼女のサポートをしてくれたり、悩んだ時も力強く励ましてくれたりした。
「 私、彼程好きになった人いないんだ。 」
微かに頬を染めつぶやいた彼女。
ふと、その顔に影が差す。
「 なのに… 」
声に張りが無くなる。消え入るような声でつぶやく
「 なのに、他に女が居たなんて… 」
髪を乱暴にかきあげ左手で目元を擦ったあと、うつむき目を閉じる。。
瞼の裏に蘇る様々な光景。
ベットに放り出していた携帯がなった。同僚の女友達からの着信。
耳に流れ込んできたのは、街の雑踏と友人の潜めるような声。
…アンタの彼がホテルから出てくる所みちゃった! ほら、広報部のあの女! ずっと色目使ってたのは知ってたけど、マジ許せな…
そこまで聞いて、背後で玄関のドアが開く音に振り返った。
そこには彼が居た。 愛想笑いを浮かべ、残業が長引いて と、彼女の顔色を伺っている。 パジャマ姿の彼女は右手に携帯を握り、左手に彼がいつも使っているマグカップを持って立ち尽くしていた。
小刻みに震え、友人の言葉を思い返しながら大好きな彼に近づいていく。
ふわりといい香りが鼻をくすぐる。
あの女の香水だ
紅茶が床に飛び散った。
携帯がその上を転がる。
2DKの部屋は玄関を開ければすぐキッチン。夕飯の片付けは後回しにしてたっけ。
流しに置いてあった万能包丁を掴み彼にぶつかって行った。
驚いた彼の顔。
真っ赤な血。
風呂場の排水溝に流れる大量の髪の毛。
旅行用のボストンバッグ。
真っ暗な夜道を照らすヘッドライト。
草むら。
土。
いろんな場面がフラッシュバックする。
そして彼女の思考は真っ白になった。
「 何の話してたっけ? 」
つけくわえて彼女は思う、私何してたんだっけ?
きょとんとする彼女に目の前の男が唖然とした表情で話を元の位置に戻す。
「 君の行方不明になった彼の話をしてたんだよ。 」
6畳程の殺風景な部屋。
そばでは彼女の話の内容を無言で書きとめる壮年の刑事。
飾り気のない机にはデスクライトと彼女の分のお茶。
向かいの椅子には父親と同年代位の男が真っ直ぐこちらを見て取り留めの無い話を根気強く聞いている。
浮気されたのがよほどショックだったんだね、と向かいに座った男がなだめると、忘れてしまった過去の記憶に小首をかしげた後 彼女は姿勢を正しスッキリとした笑顔で答えた。
「 私 嫌な事はすぐ忘れるようにしてるんです! 」
すっかり暗くなった空を仰ぎながら彼女は帰路に着く。
どこかぼんやりとしながらも 明日の昼はまだ行ってないパスタのお店に行こう なんて事を考えながら。
おわり。