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山本祥一朗の酒情報

山本祥一朗の酒情報

日本吟醸酒協会は、昭和55年4月の発起人会が最初で、8月に本田武義会長の他、竹内孝也副会長、島崎利雄副会長はじめ蔵元37社の加入でスタートした。

第1回のフェアは日本酒センターで57年4月、その後大阪文化センターで開かれ、58年には三越本店(東京)でこの時は52社を数えていた。以来、62年からは虎の門パストラルで、その年の8月には77社を数えている。
平成元年には第10回となり、参加者も1000名を越えた。さらに平成7年4月の第22回では会場をホテルニューオータニに移し、メッセに1,100人、味わう会には2,700人を集めた。

……このようにして時は流れて、今では東京では春に有楽町交通会館、秋はホテルメトロポリタンエドモント。理事長は宮坂直孝氏が務めていて、蔵元は58社。

なお、別掲は産経新聞で私が書いた『吟醸酒の来た道』(篠田次郎著・実業之日本社)の書評である。

前回、「芝居に酔った話を出したところ、面白いという反響が多かったので、今回はその続きともいうべき「役者の話に酔った」話を出す。

長谷川一夫が東宝移籍にからむトラブルで、暴漢に左の頬を切られたのが話題を呼んだことがあった。その黒幕だったのが後の大映の社長・永田雅一だったという話には驚いた。『二枚目の疵(きず)』(矢野誠一著・文藝春秋社)にあるのだが、のちに長谷川一夫は大映の映画で海外の賞など多くを得たことを思えば、なんとも驚く話ではないか。

『映画主義者・深作欣二』(立松和平著・文春ネスコ)は、『仁義なき戦い』をはじめ多くの強力なエネルギーを発するような作品を手がけた深作欣二の話だが、これが単なるヤクザ映画として片づけられないものが底に流れていることを書いている。息子の深作健太は、俳優の高倉健と菅原文太から一字ずつとった名前だそうで、その健太が深作が途中で倒れて遺作となった『バトル・ロワイヤルⅡ』を引き継いで撮った話で結ばれている。

月刊「文藝春秋」新年号は、高倉健の最後の手記が話題を呼んでいたが、この人は酒をあまり飲まない人だった。
それよりも同誌の戦後70年記念として各界の著名人が書いたエッセイが面白い。石原慎太郎が「芥川賞は私が有名にした」と題して昔の話を書いているが、その中で一橋大学の学生寮にいた時の酒の話が出てくる。

ビールは高くて手が出ない。いつも日本酒の冷酒が多かった。一人が百円ずつ出し合って四人で360円のトリスを買い、お釣りで柿の種なんか買っていたのである。
弟の裕次郎は慶應に行っていたが、その彼女が銀座のホステスをしていたので金もあり、それにたかって飲んだこともあるという。

今から思えばビールが高くて手が出ないというのはウソのようだが、私の年賀状にも書いたように、私は慎太郎より四歳下であるだけに実感としてよくわかる。