ウゼイル・ハジベヨフ(Üzeyir Hacıbəyov)アゼルバイジャンの作曲家 | 妄想印象派 自作のイラストや漫画、アニメ、音楽など

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やあ、おいらは音符の妖精ワンプくんと、

休符の妖精ベティ・キューフよ💕

 

おいら、ベティちゃんとずっとこうしていたいよォ~♪

 

Satoš:その方が、新たに描かずに済むわ。

 

いや、新しく描いてよ、

ベティちゃんとラブラブなやつ♩

 

Satoš:時間があったらな!

あと、手でハートをつくったつもりだけど、

形が間違ったみたい。

親指が下に向くんだよ。

だけど面倒なので描き直さない。

 

描き直せよ♫

まあそれはともかく、

今回は、アゼルバイジャンの作曲家だ♬

 

Satoš:アゼリークラシックはあまり紹介したことなかったな。

戦争映画音楽みたいな「アゼルバイジャン奇想曲」を書いた、

フィクレト・アミロフ以来か?

 

今回は、

〝アゼルバイジャンクラシック音楽の父〟

らしい作曲家のご紹介だ🎵

 

Satoš:こういうネタ、胸が高鳴るな!

 

またまたあんたたちばっかり、私にも言わせて𝄞

 

そうだったね、ゴメンよ🎶

 

彼は、アゼルバイジャンの伝統的音楽と、

西洋クラシック音楽の融合を図った最初の作曲家のみならず、

アゼルバイジャンで初めてオペラやオペレッタも書いたんですって𝄢

 

Satoš:地元ではそれなりに知られているのかもしれないけどね、

日本では殆ど全く知られていないよね。

 

そういうわけで、

アゼルバイジャンの知られざる作曲家、

いくわよ~ッ𝄡

 

ウゼイル・ハジベヨフ - Wikipedia

 

ウゼイル・ベイ・アブドゥルフセイン・オグル・ハジベヨフ

(ユゼイル・ベイ・アブデュルヒュセイン・オク゚ル・ハジュベヨフ)

Üzeyir bəy Əbdülhüseyn oğlu Hacıbəyov

 

1885年9月18日(6日)、

ロシア帝国エリザヴェトポリ県

シュシャ郡(Şuşa qəzası)

アグジャベディ(Ağcabədi)生まれの、

作曲家、指揮者、音楽学者、劇作家、教師。

 

アゼルバイジャン初のプロの音楽芸術家であり、

伝統的音楽とクラシック音楽の融合を図った作曲家。

イスラム世界で初めてオペラとオペレッタを作曲した作曲家。

「アゼルバイジャン共和国国歌」と、

「アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国国歌」の作曲者。

 

1938年、

ソビエト連邦において優れた芸術家に与えられていた、

「ソ連人民芸術家」(SSRİ xalq artisti)

という栄誉称号と「レーニン勲章」を授与されたほか、

様々な賞を授与されている。

 

1948年11月23日、バクーで死去。

 

歌劇「キョロク゚ル」より、序曲

"Koroğlu" operası - Uvertüra

 

歌劇「レイリとマジュヌン」より、序曲

"Leyli və Məcnun" operası - Uvertüra

 

アゼルバイジャンの作曲家、凄い久々です。

 

フィクレト・アミロフ以来、14年ぶりですね。

フィクレト・アミロフ(Fikrət Əmirov)アゼルバイジャンの作曲家

2010年1月19日

 

「アゼルバイジャン奇想曲」

(Azərbaycan kapriççiosu)

が、もろ戦争映画音楽な感じで迫力あります。

彼自身、第二次世界大戦で徴兵されて従軍し負傷しています。

後半部では、モーリス・ラヴェルの「ボレロ」っぽい描写も…。

 

で、今回取り上げるのは、

〝アゼルバイジャンクラシック音楽の父〟

なんですけど、本当は、その従弟の、

ソルタン・ハジベヨフ(Soltan Hacıbəyov)

を取り上げるつもりでした。

 

スルタン・ガジベコフ(Султан Гаджибеков)

というロシア語読みの名前で知られる作曲家です。

(追記:アゼルバイジャン初の交響曲を書いたのは、

ジョヴダト・ハジイェフ Cövdət Hacıyev です。

ここにお詫びして訂正します)

 

スルタン・ガジベコフ - Wikipedia

※某イルソンさんに似てる?

 

それが、そのおじの日本語のWikipediaも作られていて、

更に、アゼルバイジャンクラシックの父らしいことも知り、

こちらを優先で取り上げるべきじゃね?となりました。

 

ソルタンさんの方は追々ご紹介するとして、

まずはおじの方を…。

 

Wikipediaの経歴を読んでみると、凄いエリート振りです。

(記事末に詳細な経歴を記しました)

 

これまで数多くの作曲家をご紹介しましたけど、

〝教師〟というと大抵〝音楽教師〟なんですが、

彼の場合は、音楽に限らず、数学や地理、歴史、語学

にいたるまでカバーしていて、かなりの〝秀才〟です。

 

それに加えて、

アゼルバイジャンの伝統音楽と西洋音楽の融合を図るという、

これまで誰もしていなかった事業を切り開いたという意味では、

〝天才〟なんだろうなと。

 

その溢れる才能でもって大活躍し、

為政者に積極的に意見や提案を訴えてそれを認めさせ、

栄誉に輝くという。

 

結婚はしていますが、残念ながら子どもは生まれず。

妻は、別の女性と結婚して子どもを作ることを提案しますが、

それを拒絶します。

 

ロシア帝国に編入され生活様式に制限が加えられているとはいえ、

一応イスラム世界ですし、

当時のアゼルバイジャンの婚姻制度については

どんな感じだったのか?よく分かりません。

イスラム世界では、妻を4人まで持てるそうですけど。

 

でもそれを思うと、

妻を本当に愛していたんだなと。

彼の人格者ぶりがここに垣間見えます。

 

「歌劇」「オペレッタ」について

 

ウゼイルは、7つのオペラを書いています。

 

「レイリとマジュヌン」1908

(Leyli və Məcnun)

「シェイフ・サナン」1909

(Şeyx Sənan)

「ルスタムとゾホラブ」1910

(Rüstəm və Zöhrab)

「シャハ・アッバスとフルシュド・バヌ」1911

(Şah Abbas və Xurşud Banu)

「アスリとカラム」1912

(Əsli və Kərəm)

「ハルンとレイラ」1915

(Harun və Leyla)

「キョログル」1936

(Koroğlu)

 

最初のオペラは、

「マジュヌーンとライラー」(مجنون و ليلى)

という中東の古典的悲恋物語が元になっています。

ライラとマジュヌーン - Wikipedia

 

مجنون ليلى (رواية) - ويكيبيديا

 

数多くの詩人によって詠われているそうですが、ウゼイルは、

オスマン帝国のフズーリー(فضولی)という詩人の詩をもとに

オペラを創作。

フズーリー - Wikipedia

 

YouTubeにその〝序曲〟が上がっていたので貼らせていただきましたが、

通常序曲というのは、純粋器楽曲で声楽が付いていないのですけど、

この序曲には声楽がついていて、その意味では画期的かもしれません。

 

ちなみに「マジュヌーンとライラー」は、

他の作曲家も題材にしており、

アゼルバイジャンの作曲家ガラ・ガライェフ(Qara Qarayev)

が1947年に交響詩に、1969年にバレエ音楽にしています。

Leyli və Məcnun (balet) — Vikipediya

アメリカの作曲家アラン・ホヴァネス(Alan Hovhaness)が、

1973年に、テノール、独奏ヴァイオリン、合唱、室内管弦楽のための

交響曲第24番「マジュヌーン」を書いています。

Leyli və Məcnun — Vikipediya

アゼルバイジャン、イラン、タジキスタン、インド

などで映画化もされていますね。

 

(追記:ペルシアの詩人、

ニザーミー・ギャンジャヴィー

のものが特に知られている様で、

そのペルシア語の題名は、

「レイリーとマジュヌーン」(لیلی و مجنون)

という風に、名前が前後入れ替わっています。

アラビア語以外の題は殆ど〝ライラ〟が先ですよね)

 

彼の最高傑作とされているのは、

「キョログル」(Koroğlu)

だそうです。

 

 

「キョログル」というのは、

中東のテュルク系民族の間に於ける、

民間伝承の英雄叙事詩です。

 

16世紀末にアゼルバイジャンで成立したとされ、

農民反乱の際農民の側に立ち権力者に立ち向かった義賊

を描きます。

英雄叙事詩 –コーカサスの口承文芸- : テュルク&モンゴル

Koroğlu — Vikipediya

 

Koroğlu dastanı — Vikipediya

 

ウゼイルのオペラ「キョログル」は、

1941年に「スターリン賞」を受賞。

(全くもって皮肉なんですけどね)

 

ウゼイルはその他、

オペレッタを3曲書いています。

 

「夫と妻」1909

(Ər və arvad)

「あれがダメなら、こうしよう」1910

(O olmasın, bu olsun)

「布の行商人」1913

(Arşın mal alan)

 

「夫と妻」は、

初演から100年間上演されず、

2010年に復活上演。

 

「あれがダメなら、こうしよう」

「布の行商人」

は、後に何度か映画化されています。

 

ウゼイルは、

「キョログル」以外のすべてのオペラの台本を書いています。

 

「フィルザ」(Firuzə)

(〝トルコ石〟〝ターコイズ〟という意味です)

という未完のオペラを遺しましたが、

ソルタン・ハジベヨフの息子、

イスマイウル・ハジベヨフ(İsmayıl Hacıbəyov)

によって補筆完成。

 

1941年、ペルシアの詩人、

ニザーミー・ギャンジャヴィー(نظامی گنجوی)

の生誕800年記念式典に合わせ、彼の

「七人の美女」(Yeddi gözəl)

に音楽をつけるため、7曲を作曲することを計画。

 

「ガザル=ロマンス」(Qəzəl-romans)という、

登場人物の音楽的肖像、心理状態、感情、内面世界、

精神的な美しさを音楽で描写するという、

新しい形式の声楽作品を追求しようとしましたが、

「あなたなしで」(Sənsiz)

「愛する人よ」(Sevgili canan)

の2曲のみが完成。

Sənsiz (romans) — Vikipediya

 

ちなみに1949~1952年、ガラ・ガライェフは、

「七人の美女」をバレエ音楽にしています。

Yedi Güzel (bale) - Vikipedi

 

ギャンジャヴィーの作品に基づいたアニメーションも、

過去にブログでご紹介しています。

 

フィトネ(Fitnə)くまとねずみ(Ayı və siçan)アゼルバイジャンのアニメーション

2019年5月17日

 

ヘイルとシェル(Xeyir və Şər, 1980)アゼルバイジャンのアニメーション

2021年10月1日

 

アゼルバイジャンの2つの「国歌」について

 

1919年、

「アゼルバイジャン国歌」(Azərbaycan himni)

を作曲。

詞は、アフマド・ジャヴァド(Əhməd Cavad)

 

もとは

「アゼルバイジャン行進曲」(Azərbaycan marşı)

という曲だった。

 

1918年に、アゼルバイジャン民主共和国が成立。

1920年に、政権によって国歌の作成が決定されると、

そのコンテストが行われ、

同年5月28日にその結果が発表される予定であった。

 

ところがその直前の4月28日に、

ソヴィエト軍に侵略され、

民主共和国が瓦解すると、

この国歌が採用されることはなかった。

Azərbaycan himni — Vikipediya

 

1930年、ソヴィエト政権樹立10周年を記念して、

ウゼイル・ベイ(Üzeyir bəy)が新しく作詞し、

ウゼイル・ハジベヨフの指揮によって国歌が演奏された。

 

1944年に、新たに

「アゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国国歌」

(Азәрбајҹан Совет Сосиалист Республикасынын Дөвләт Һимни)

を作曲し、ソ連崩壊まで採用されていた。

Azərbaycan Sovet Sosialist Respublikası himni — Vikipediya

 

1991年、社会主義政権が崩壊し、

「アゼルバイジャン共和国」が成立する。

 

1992年5月27日、議会は

「アゼルバイジャン共和国国歌に関する法律」を採択。

採用されることなく埋もれていた、

「アゼルバイジャン民主共和国国歌」

が、新しい国歌として承認された。

 

アゼルバイジャン国歌

 

アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国国歌

 

CDについて

 

Uzeyir Hajibeyov – Leyli & Majnun (2001, CD) - Discogs

歌劇「レイリとマジュヌン」

Leily & Majnun

レイリ:ゼイナブ・ハンラロヴァ

Zeynəb Xanlarova

マジュヌン:アリフ・ババイェフ

Arif Babayev

合唱指揮:ニジャット・マリコフ

Nijat Malikov

アゼルバイジャン国立アカデミック・ オペラ ・バレエ劇場合唱団

Azərbaycan Dövlət Akademik Opera və Balet Teatrının  Xoru

指揮:カズム・アリヴェルディバヨフ

Kazım Əliverdibəyov

演奏:アゼルバイジャン国立アカデミック・ オペラ ・バレエ劇場交響楽団

Azərbaycan Dövlət Akademik Opera Və Balet Teatrının Simfonik Orkestri

【AICD1031, 1032】2001

 

Uzeyir Hajibeyov – Koroghlu (2001, CD) - Discogs

歌劇「キョログル」

Koroghlu

キョログル:ルトフィヤル・ムスルム・オグル・イマノフ

Lütfiyar Müslüm oğlu İmanov

アゼルバイジャン国立アカデミック・ オペラ ・バレエ劇場合唱団

Azərbaycan Dövlət Akademik Opera və Balet Teatrının  Xoru

指揮:ニヤズィ

Niyazi

演奏:アゼルバイジャン国立アカデミック・ オペラ ・バレエ劇場交響楽団

Azərbaycan Dövlət Akademik Opera Və Balet Teatrının Simfonik Orkestri

【AICD1036, 1037】2001

 

代表作はほぼカバーされている様ですが、

アマゾンやタワレコ、HMVなど、

主要な販売サイトでは取り扱っている様には見えず、

入手は極めて困難と思われます。

 

アゼルバイジャン語「Ğ」「ğ」「I」「ı」の日本語表記について

 

私は、かなり昔からですが、

フランス語やドイツ語の「R」を日本語で表す時、

「ラ」の濁音で表すべきと主張しています。

勿論、言語学界に全く力は無いので影響力なんてありません。

 

アゼルバイジャン語には「Ğ」というのがあって、

喉の奥から出す「ガ」の音なんですけど、

フランス語やドイツ語の「R」や、

オランダ語の「G」に似ています。

 

日本語での表記をどうするか?と思った時、

「ガ」の半濁音だろう、と思いました。

 

で、最近なんですけど、

クの半濁音のフォント「く゚」「ク゚」

が作られているのを知り驚いています。

く゜ - Wikipedia

というか「カ」行全ての半濁音のフォントですね。

 

なので、

「キョログル」「オグル」など、

「ğ」のところで使わせていただきました。

 

ちなみに、

「ラ」の半濁音のフォント「ラ゚」も作られています。

ラ゜ - Wikipedia

 

私は個人的には、

「L」は「ラ」で、

「R」は「ラ゚」にすべきと思っているのですけど、

他の人は真逆なんですよね。

 

「R」って、

仏語や独語では「ガ」みたいな発音じゃないですか。

英語の「R」も日本語やイタリア語の「ラ」とは違って、

「ワ」に近く聴こえます。

 

その一方で「L」はどの言語もほぼ同じ発音。

日本語の「ラ」もどちらかというと「L」に近いんじゃないかと。

なので「R」こそ「半濁音のラ」にすべきと思っているんですけどね。

 

「ラ」が「R」な理由は、

幕末に来日した宣教師ヘボンによって、

日本語の「ラ」のローマ字表記が

「R」で表されてしまったからですよね。

(「L」が「ラ゚」行なのもヘボンによる考案だそうです)

ヘボン式ローマ字 - Wikipedia

 

「i」の上に点の無い「ı」も、

日本語標準語の「ウ」(浅いウ)に近いので、

「Hacıbəyov」が「ハジュベヨフ」になる筈なんですけど、

FORVOでは「ハジベヨフ」に近く聴こえていました。

Hacıbəyovの発音 - FORVO

いずれにしても、正確な日本語表記は不可能なので。

 

一般的に〝曖昧母音〟(シュワ―)を表わす「Ə」も、

アゼルバイジャン語では、

ドイツ語の「Ä」のように「開き気味のエ」なので、

「ア」に聴こえる場合もあれば「エ」に聴こえる場合もあって、

正確な表記が不可能です。

 

ウゼイル・ハジュベヨフの経歴

 

今回より、作曲家の詳細な経歴は、

記事末に示すことにしました。

 

記事を読みやすくする工夫のつもりです。

通常、全部読んだところで内容を憶えられるわけでもないので、

あくまで「興味のある人だけ読んで」な、

資料としての「読み飛ば推奨」記事です。

 

1885年9月18日(6日)、

ロシア帝国エリザヴェトポリ県

シュシャ郡(Şuşa qəzası)

アグジャベディ(Ağcabədi)生まれの、

作曲家、指揮者、音楽学者、劇作家、教師。

 

父のアブドゥルフセイン・ハジベヨフ(Əbdülhüseyin Hacıbəyov)は、

カラバフ・ハン国最後の統治者

メヘディグル・ハン・ジャヴァンシル(Mehdiqulu xan Cavanşir)

の娘で、有名な女流詩人であった、

フルシドバヌ・ナテヴァン(Xurşidbanu Natəvan)

の秘書をつとめていた。

 

ウゼイルの誕生後、一家は、

アゼルバイジャン文化の中心地のひとつ、

シュシャ市へ移住した。

 

ナテヴァンのサロンは、

シュシャ最高の音楽コミュニティであり、

若いウゼイルは積極的に関わった。

 

ウゼイルは、民族楽器サズ(Saz)の奏法や、

民族音楽のムガム(Muğam)を学んだ。

 

マドラサ(イスラム学校)で初等教育を受け、

アラビア語とペルシャ語を習得し、

その後2年間、ロシア・タタール語学校での教育を修了すると、

1899~1904年、

現サカルトヴェロ(ジョージア)のゴリ市に当時存在した、

「ザカフカース教職神学校」

(Zaqafqaziya Müəllimlər Seminariyası)

で、ヴァイオリン、チェロ、金管楽器の演奏技術を学んだ。

 

卒業後、算術、地理、歴史、ロシア語の教師となり、

新聞社でも翻訳の仕事をする。

 

1907年、政治、法律、経済、軍事用語専門の

「トルコ語とロシア語の対訳辞典」を執筆。

1908年、教科書(算術問題)を執筆。

それぞれ、オルジョフ兄弟出版社

(Orucov Qardaşları Mətbəə Nəşriyyatı)

から出版された。

 

1909年、教師をしていたマレイキャという女性と結婚。

彼女は、マレイキャ・ハジベイリ(Məleykə Hacıbəyli)となる。

ウゼイルは、マレイキャが音楽院に入学する手助けをした。

 

ウゼイルとマレイキャとの間に子どもはできなかった。

マレイキャは、別の女性と結婚して子どもをもうけるよう提案したが、

ウゼイルは受け入れなかった。

 

1911年、音楽を体系的に学ぶためモスクワへ1年間留学し、

その後、サンクト・ペテルブルクへ移って更に1年間学んだ。

 

1914~1918年、

「新しい運」(Yeni iqbal)紙の編集者から運営者となり、

その後「アゼルバイジャン」新聞の編集者となった。

 

1918年6月~9月、

イランのバンダレ・アンザリ(بندر انزلی)と、

ラシュト(رشت)へオペラの演奏旅行を実施。

 

1920年、アゼルバイジャンにソビエト政権が樹立された。

同年、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国教育人民委員会に、

音楽アカデミーと国立音楽院の設立と、

旧音楽学校の建物の寄贈の必要性に関する報告書を提出した。

 

1922~1926年、1939~1941年、

ウゼイルの主導で設立された

アゼルバイジャン・トルコ音楽学校

(Azərbaycan Türk Musiqi Məktəbinə)

現:アセフ・ゼイナッル記念バクー音楽大学

(Asəf Zeynallı adına Bakı Musiqi Kolleci)

の校長を務めた。

 

1925年にバクー労働者人民代議員評議会の議員に選出され、

その翌年には、アゼルバイジャン国立音楽院

(Azərbaycan Milli Konservatoriyası)

の副学長に就任した。

 

1931年に民族楽器のオーケストラを組織し、

1936年には合唱団を組織した。

 

1938年5月7日、共産党への入党を申請し、認められる。

同年、レーニン勲章と、ソ連人民芸術家の称号を授与された。

 

1939年にアゼルバイジャン国立音楽院の院長に就任し、

第1回ソ連作曲家同盟大会の組織委員会のメンバーに選出された。

 

生涯の最後の10年間、

アゼルバイジャン作曲家同盟

(Azərbaycan Bəstəkarlar İttifaqına)

の会長を務めた。

 

1945年9月、

アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国科学アカデミー美術研究所

(Azərbaycan SSR EA İncəsənət İnstitutunun)

の所長に就任。

同アカデミーの常任会員となる。

(EAはElmlər Akademiyasıの略)

 

1937年と1941年、

ソビエト連邦最高会議

(SSRİ Ali Sovetinin)

の副議員を務めた。

 

晩年は糖尿病を患っていたが、

誤った治療法により病状が悪化。

1948年11月23日、心不全で死去。

Üzeyir Hacıbəyov — Vikipediya

※その他、英語版なども参照

 

【追記:2024/2/18】

なんと、この記事が「クラシック」部門で1位となりました!!

ありがとうございます!!

励みになります!!

今後とも、頑張らせていただきます!!