高熱の風邪で
金土日と3日間まるまる
寝込んでた訳なんですけどね、


体力って落ちるのがひどく
「あ"っっ」っという間なんですねっ(涙)


◆日曜の夜の大人クラス

しゃべってるだけで
冷や汗が水のように流れて
集中力の欠片もない。
ホントにすみませんでした。


◆月曜の小学生クラス

しゃべってて目がまわり
動いても目がまわって
息がすぐ上がるんだこれが…


◆同日夜の大人クラス

ここでようやくいつものペースを
取り戻した感覚に。


ほっ。


復活が遅くて情けない(涙)



でもいつもの自分が
いかに健康で体力があったのか
ってことを知れた感じだから
逆によかったかなと。


てか
そう思うようにしないとね。



もう風邪ひきたくない(涙)


今年のキーワード。

「健康第一!」



【普通】イコール
…【当たり前】??


【当たり前】だ
なんてことは実はなくって。


私の記憶が曖昧な
【普通】の部分には
ありがたさを感じてなかったんだと
今さら気づく。


14年前に
【普通】が【普通】じゃなくなった
経験をしてるのにもかかわらず
たった2週間たらずの記憶のみで
すぐ【普通】に戻ってた自分。


【普通】であることが
いかにありがたいのかを
すぐに忘れてしまってた自分。



大反省。



色んな人や物事のおかげで
今まで生きてこれたことに
まずは大きく感謝して、

大事な人や思いや行動を
精一杯大事にして生きて行こうと
改めて誓います。



…こんな頭が固すぎるのかもしれない私の長文。

そのラストまで
長々とお付き合いしてくださった
あなたにも
感謝です。
ありがとう。



昨日1日あまりにも寝過ぎて
眠れなくなったナナでした。

おかげさまで
まだ喉や関節は痛むものの
熱が下がって食欲も戻ってきたので
だいぶ復活です♪

ある駅前に設置された
つながりやすいと噂の公衆電話には
毎日長蛇の列。

1人が10回以上かけて
30人に1人
つながるかつながらないかの確率。


父親がそこに毎日何回も並んで
ようやく
大阪にいる祖母と連絡がとれた。

被害が宝塚よりは少なさそうで
ガスも復旧したとのことだったので
家族で居候させてもらうことに。

大阪まで電車で移動する途中に見た
街の凄まじい崩れようは
『テレビを見てる』
ような気持ちでしかなかった。


その時すでに
震災から1週間。


10日がたった頃に
ガスが復旧して
学校も再開したとのことで
宝塚に戻る。


でもまだ
脱線したままの電車とか
倒壊した家屋等の復旧作業は
まったくもって進んではなかった。


私の通ってた中学校は
午前授業だけやって
コッペパンと牛乳だけの給食を
みんなで食べてから下校。
の流れが結構続いたかな。

そこに
いちごジャムがついて
お味噌汁がついて
おかずが増えて…


いろいろなことが
【普通】へ復旧するにつれて
自分の記憶が曖昧。



記憶がない
【普通】ってなに。
ここで思う。


父親は結局
電信柱や家の2階部分だけが落ちてるのが
もはや普通になってる道路に
途中で諦め悲しくとんぼ返り。


帰りがけに何軒も寄ったらしいコンビニで
かろうじて売れ残ってたからと言い、

◇食器用洗剤と
◇スポンジを3個と
◇蚊取り線香と
◇ティーン向け雑誌を

買ってきた父親。
(言っておきますが本当です。)


…かける言葉が見つからなかったよパパ。



話は戻って。

明るいうちは
それぞれの家で掃除片付け作業等。
暗くなってきたら
体育館に移動して寝泊まり。
そんなサイクル。


皆がお互いに気を使ってるからか
体育館生活での夜は静か。

その反面、余震があると
その揺れがどんなに小さくても
すぐに悲鳴がたくさん上がる。

皆の眠りが浅いのが分かる。


3~4日程経った頃
(ちょっと記憶が曖昧)
電気と水道が復旧。
(水の量はすごく少なかったけど)


トイレは1日3回位しか流せないけど
それでも十分ありがたい。
(汚い話ですみません)


自宅の電気ポットでお湯を沸かして
身体が拭けるようになる。


そしてちょうどその頃
洗髪をしてくれる美容院や
浴場を開放してくれるホテルの情報が
出始める。


地区ごとに定められた
受け入れ日や時間帯が違うはずなのに
人でごった返す。


でも相当ありがたかったなぁ。


つづく


午前8時頃にようやく
救急車の音が頻繁に聞こえるようになる。

それを機に
父親がバイクで辺りをまわってから
会社(宝塚からは1時間かかる大阪)まで行ってみると言い出す。

母親が猛反発する中
行ってしまった父親を見て
もし両親が離婚したら
母に着いていこうと心に決める。
(この決心今も変わらず。)


母の近所での情報交換のおかげで
近くの小学校の貯水タンクから
水が汲めると判明。

母と私と小学二年生だった妹と3人で
バケツになるものを持って
長蛇の列に並んで
お風呂の浴槽いっぱいにためるまで
何往復もする。
寒くて重かったなぁ。


それを終えた後すぐに今度は
その小学校の体育館に
布団一式を運び込む。


ステージには
ちゃんと映るテレビが置いてあって

フロアーに設置された
いくつかのストーブの周りは
既に埋まってて。


どこがいいかなぁ
って母親に聞かれたので
当時好きだった男の子の家族の
すぐ近くの場所を確保。
ピンチはチャンス。
(↑ここ突っ込みドコロ)


学校にあらかじめストックされてた
非常食だったのか、
どこからかの救援物資だったのかは
わからないんだけど、

カップヌードルやおにぎり等が
体育館入り口付近に置かれて
自由にとれるように。


でもなんとなく
譲り合う気持ちが皆にあったのか
予想より全然量が減らなかった記憶が。


つづく
電気、水道、ガス。
ライフラインすべてがストップ。

頼りは電池式のラジオのみ。

『関西地方に大きな地震がありました。
震度は7。
落ち着いて、津波に注意してください』

っていう情報だけが
何度も何度も繰り返される。
それ以外は何も分からない。
どうすればいいかが分からない。


余震が何度も起きる中
時間はただただ過ぎる。



登校時間になって
いつも通り友達が迎えに来てくれた。

私も既に制服姿で準備していたあたり
大変なはずの状況を
把握していなかったんだと
今になって思う。


学校に行こうとした私たちに
向かって言った母親の、
「とにかく今は
少しでも長く家族と一緒にいなさい。」

この言葉で学校に行くのをやめる。


そこで初めて深刻に「死」を意識する。


つづく


あの悲劇から
14年が経ちました。ね。


当時私は中学一年生。
兵庫県宝塚市にある
一戸建てに住んでいました。

酷かった。
酷すぎました。


母の悲鳴で起きて
(↑ここは突っ込みドコロ)
長い酷い揺れに
身動きひとつとれず。


両親が家具を必死に押さえてくれたので
幸い家族全員が助かりました。

その押さえていた家具は
揺れに耐えきれず
脚の部分が折れてしまいましたが。


家は内外共にヒビだらけの半壊。

食器棚はぐちゃぐちゃ。
テレビや電子レンジは床に落ちて
両親の集めてたワインは
床で砕けて中身が流れてる。

もはや何の破片なのかも
わからない状態な床。


リビングテーブルの下に
布団を敷き詰めて避難。
ラジオをつけて
土足で余震に備える。


ドアや窓が歪んで開かない。
父親が力ずくでこじ開けて開けっ放しに。
寒い。


隣の家がうちに寄りかかってて
余震の度にギシギシと音をたててる。

辺りはガス漏れのにおいが立ち込めて
何軒かの家からは煙が立ち上がってる。

静まりかえってて不気味。


地震直後の様子。
まだリアルに記憶が残っていることに
自分自身驚きました。



つづきます



インフルエンザではなかったので
ちょっとホッとしました。

40度の熱は
さすがにしんどかったです。

レッスン代講してくださった先生方、
本当にありがとうございました。
急遽休講にしたレッスンもありました。
ご迷惑をおかけしてしまって
申し訳ありませんでした。


昨晩
深夜救急で病院に行って
点滴を打っていたら

交通事故で運ばれてきた
患者さんに遭遇して
ちょっとドキドキしました。

当たり前だけど、
テレビの中の世界ではないんですよね…。


点滴を終えて待合室に行ったら
深刻なムードの警察官がたくさんいて
これまたちょっとドキドキしました。


ちなみに
診察してくれた内科医が
俳優のようなイケメン先生だったので
かなりドキドキしました。


私がこんなこと言うのもおかしな話ですが
皆さんも身体に気をつけて
元気にお過ごしくださいね。

「わぁっ痛そうやねぇ…」


コンタクトレンズ(ハード)を外す私を見てた
おばあちゃんが渋い顔。


『ん?そんなでもないよ』
私が返すと


「そうか。
入れ歯と同じようなもんなんやろな」




おばあちゃん、
たぶん違う。
みなさん
今日の夜空見ましたか?


まーんまるなお月様
(画像伝わるかな。)


月、
すっごく好きなんです。


今日みたいな
綺麗で透き通った満月が見れると
幸せな気持ちになります☆