「異土の乞食となるとても帰るところにあるまじや」、とうたったのは室生犀星であるが、自分は一応、まだ「こつじき」にはなっていないので、法事のついでにちょっと帰ってみた。
▽新潟みらいトンネルをバスでくぐる
JR鉄道が廃線になっていたり、広い空き地だったところにスーパーが出来ていたり、大きな変化はあったものの、人々の生活は半世紀後も意外と変わっていなかった。
今回、生家を見に行ってみて本当に良かったと思う。
信濃川の下を通る「みなとみらいトンネル」もくぐれたし。
昭和36年に新築して昭和57年に亡父が売却した生家も目の当たりにしたし。
十分、冥途の土産になった。
▽旧実家の二つ前のバス停。昔、70年代には、ここまで市内料金で乗れた。
当時、この停留所の一つ先まで乗ってしまうと、定期券料金が二倍以上になる、と言う、「暴虐侮人」のバス料金システムだった、新潟交通。
なお現在は、旧市街からここまで、「C51西堀通線」と言う、平日のみ一日二本の運行しかない、マイクロバスの直行便がある。それでもありがたや。(後記)2024年10月記、一日一本になってしまっていた。
市役所前発で、西堀、古町、東堀、本町、を通って、入船営業所を過ぎ、川の下をくぐる「みなとみらいトンネル」経由で、山ノ下に入る路線である。
この時点で臨港病院は目の前なのだが、その後、一旦、末広橋から「飛行場道路」まで出て、再び、桃山町から、終点の臨港病院に向かう。
(以下、撮影は全て、AQUOS sense4)
▽貨物専用線の国鉄廃線跡(Youtubeで「まゆのすけ」さんが解説しておられる)。
この引き込み線が使われていた当時は、信号付きの踏切だったため、自動車も一時停止不要だった。
遮断機は「バー」ではなく、ロープで吊り下げる方式で、昭和四十年代頃は、列車が近づくたびに、職員が操作小屋に入って、ハンドルを回し、手動で上げ下げしていた。
また、この頃、一度だけ、SLが黒煙を吐きながら走って行ったのを目の当たりにした記憶がある。
1960年代の終わりごろだと思う。
当時(昭和四十年代)すでに、殆どの鉄道がディーゼルに置き換わっており、SLはかなり珍しいかった。
煙と汽笛と蒸気と車体の黒色と、全てが恐ろしかった。
もし、旅客輸送の駅があったなら、この地域も何倍か、栄えたことだろうに、、、、。
▽ここ「秋葉一丁目」で下車。乗車して来たバスは、この直前で飛行場道路を曲がり、本停留所と桃山小学校を通り、終点の臨港病院へ向かう。
郵便局の看板がJPになったこと以外は、街の雰囲気はほとんど半世紀前と同じだ。
以下、実家近くの写真をどんどん貼って行く。
ご関係の皆様、失礼がありましたら、コメント等でご指摘、ご連絡下さい。
▽「山新食堂」の跡地(滝沢さん)。今でもどなたかお住まいらしい。残念ながら自分はこの食堂で食べたことはない。
今、検索しても「山新食堂」は見つからないので、インターネットが普及するよりもずっと前に閉店なさったのだろう。
▽この界隈では知らぬ人がいない、超有名パン屋店、「秋葉製パン」。
こちらの店はYoutubeでもおなじみである。
確か、昭和40年頃に出来たと記憶する。
開店日のことは良く覚えている。近所の山ノ下中学校に通う生徒が殺到し、店の前は黒山の人だかりで、歩道があふれかえり、何と警官が出動するほどだった。
パンの美味さは、山ノ下・長者町の「南雲ベーカリー」 と、双璧だった。
子供の頃は、秋葉製パンへ、しょっちゅう、買いに行っていたと思う。
▽「福島さんの駄菓子屋」。昔は駄菓子屋のことを「なんかや」 と言っていたような気がする。
幼稚園の頃、10円持って散々通ったものだった。
もう廃業されてから、大分たつ。昭和50年頃には既に閉まっていたような気もする。
残り少ないくじを全部引いたのに、一等が当たらず、文句を言った記憶がある。「そういうものだ」と言われ、それ以降、行かなくなったような、、、。
▽メガネのテラオ。昭和四十年代後半に開業され、以来、半世紀。子供の頃、ここで何回か、メガネを作った記憶がある。
小学生の頃、自分が近視になったのを、母親(生母)が妙に、気にして情緒不安定になってしまい、「視力回復センター」などに通わせたりなど不毛な努力をしたのだが、こちらの眼鏡店で、
(テラオ眼鏡店) 原始時代じゃないんだから、細かい字を毎日見るわけで、ある程度、近眼になるのは現代社会への適応とも言え、仕方のないことです。
と断言され、納得したのを覚えている。
生母自身が近眼だったので、子供に遺伝したのではないかと、しばらくの間、気に病んでおり、ちょっとヒステリー気味であった。
大昔のことであるから、そういう心配をするのも仕方のないことだが、自分にはたいそう迷惑な話だった。
数年後、無事に中学生になった自分の学生服姿を見て、母親の気持ちも落ち着いたのだろう、「悪かったね」 と謝られた記憶がある。
当時、親に謝られて、たいそうびっくりした。今思うと、いろいろアホな点があった母親であるが、大好きだった。
そういうことがあって、このメガネ屋さんはいまでもありがたい存在だと思っている。半世紀、続いているだけのことはある。
▽床屋さん。昔(昭和40年代)は、子供の散髪料金は100円しなかったような気がする。
店名は変わっているかも知れないが、理容店として半世紀以上続いている。上のめがね屋よりもさらに数年、古いと思う。
▽昨年か、今年の始めくらいに新装オープンの「秋葉交番」。
新装オープンはおかしいか、、。でも実際、ここしばらくの間、工事中になっており、交番自体も山ノ下の方と合併状態だった。
秋葉区や、秋葉原の交番ではない。読みは「あきば」。
秋葉交番は正式な固有名詞らしく、タクシーでも一発で通じる。
昭和三十年代から立っていて、建物は三代目。昔はベージュ色だった。初代は平屋、二代目は二階建てで、赤い電灯の看板に「派出所」、と書いてあったのを覚えている。今は「交番」だ。
新潟地震(昭和38年)の際に、家から運び出した荷物(唐草風呂敷包みの衣類)を、「しばらく預かってくれ」、と父親がお巡りさんに頼んだところ、「本官もいつ呼び出されてここから居なくなるかも知れませんから、置きっぱなしは困ります」 と押し問答になり、結局、祖母が付いて番をすることで、祖母ごと置かせて貰ったような気がする。
▽去年くらいに改装工事をしていたのだが、やっと新装オープン、と思いきや、昨今の人手不足か、中には誰もいらっしゃらなかった。
「両津巡査」でも、「タイホする~のお巡りさん」 でもいいから、常時、誰か居た方がいいなぁ。
▽ここを曲がると生家である。左側は、戦後、半世紀以上、ずっと空き地のままで、多くの近隣住民から、非難されていたのを覚えている。
2015年のGoogleマップではスーパーが見えるが、2011年版では未だ空き地のままである。
この空き地こそ、地域一帯の雰囲気を悪化させ、開発を停滞させた原因の一つであった。
今でも、この土地の所有者だった人に文句を言ってやりたいと思っている。
数年前にやっと、スーパーになった。きっと所有者が代替わりしたのだろう。自分が子供の頃は、脇の道路も非舗装で、昭和50年頃に、町内会が、住民からの強制寄付(一軒あたり、数万円)を徴収して舗装された。
▽渡辺さんち。大変、良くしていただいた。生母の葬儀にも来ていただいた。
回覧板を持って行くと大変、丁寧に応対していただいた記憶がある。当時、小さな子供は居らっしゃらなかったようで、遊びに行ったことはない。
▽生家である。昭和35年新築で、当時は平屋、昭和46年頃、右半分を二階建てに増築した。
平和町から強制移転(どの程度強制されたのかは不明だが、石油コンビナート建設のため)して、この地に移ったらしい。
元の平和町の家を建てた費用はどこから工面したのか、全く分からない。
おそらく、祖母の実家からの財産分与・相続なのだろうけれど、今となっては聞ける人が誰も居なくなってしまった。
新潟地震(昭和38年)にも耐え、半世紀以上も倒壊せずにいるとは、昭和の大工さんに敬礼。
二階のエアコン、BSアンテナ装備であるが、トイレは未だに汲み取りらしい。
手前の物置小屋は今の住人の方による設置。
▽生家を過ぎてちょっと行って左側、ひとしさんち。
三、四歳の頃、何回か、遊びに行った記憶がある。昔は本家と分家と二軒あったような気がする。
子供の頃は本当にありがとうございました。家は新築されておられるようで、当時とはまるで異なる。
▽引き返して、西側から生家を見る。
手前の畑の部分は、昔(昭和三十年代)は、家が建っており、元々は件の左官屋さん一家が住んでおられた。
この一家(小林さん)が近くの別の場所へ引っ越した後は、借家になって、しばらくは中年のご夫婦がお住まいになり、朝な夕なに「ナンミョウホーレンゲーキョ」と言う掛け声が聞こえていた頃もあった。昭和四十年代の頃だ。
それから、昭和五十年代には再び空き地になり、小林さんの奥様が畑を丹精しておられた。
たまに、取れたての野菜が、家の玄関に置いてあり、「まるで、ごんぎつねだねぇ」、と、父親と話していたのだが、ある時、父親が、昼間、会社から戻って現場を見たらしく、、、、
(父親)小林さんの奥さんが、 どうして、うちの前に野菜を置いていたのか分かったよ。
うちの水道を勝手に使って畑の野菜に水やりしてたんだ!
まあ、知り合いだし、文句言うのも何だしなぁ、、、。やれやれ。
その後、昭和五十年代半ばに、以前、記したように、自分の生家ごと、左官屋さんに買い取られた言うわけだ。
今回、その左官屋さんの家(かなり大きく立派な家が建っていた)も探したのだが、ついに見つけられなかった。
▽畑は今でも何かの野菜が植わっているが、一体、どなたが丹精しておられるのだろう。
Googleマップの2011年版では、畑に人影が見える。小林さん(左官屋さん)の奥様か、あるいは、この家にお住まいのお嬢さんか、、、。
▽青空と雲がきれい。炎天下にリュックと礼服の物を背負って歩くのはきつい。
▽(ここから写真サイズ小)車の出入り用に鉄板が敷いてある。
昔、昭和三十年代頃は、浅い側溝があって生活排水を流しており、遊んだり、また、掃除させられたりした記憶がある。
また、コンクリ塀も、手前の境界まで家を囲むようにずっと繋がっていたのが、昭和40年代末頃、駐車禁止の規則がうるさくなって、家の前の道路に車を止められなくなり、塀を一部壊して庭を駐車場にした経緯がある。右手前の物置小屋は、最近のものである。
▽失礼して、玄関付近をパチリ。庭の植物が多くて楽しそう。
昔は、右側にイチジクや桜を植えていたのだが、すっかり別の木になっている。
電動自転車をバリバリ使いこなしていらっしゃるらしい。
▽こういう風に、窓につたを這わせると、冷却効果になって良いのかも。
▽右側の物置小屋は、昔は無かった(最初はあったのだが、昭和三十年代後半に撤去した)。
▽裏側の勝手口。半世紀前、いや60年以上経過して、ほぼ「そのまま」の状態を保っている。
メンテナンスが行き届いていることに驚き。
元々の買主が、土建屋さんだったからだろう。トイレが汲み取りでさえなかったら、意外と居心地は良さそうだ。
▽お隣の「富岡さん」の家は既になく、一本過ぎたところを左に曲がると、文ちゃんち(文一さん)。
自分より何歳か年上で、小学校の一、二年くらいまで大変仲良くしていたと思う。
その後は、近所よりも学校の友達と遊ぶようになり、残念ながら疎遠になってしまった。
佐野さんと言うお宅らしい。今まで名字を知らなかった。
▽今でもお住まいらしい。表札は昔のままだった。家が昔のままかどうかは不明だが、少なくとも昭和四十年代には、トタン張りではなく、壁も木造であったと記憶する。
▽一軒戻って、きみちゃんち。小さい頃、こちらへも頻繁におじゃましていた。お世話になりました。
GoogleMapで見ると、2011年には既にこの建物になっている。
▽二世帯住宅らしい。君弘ちゃんは正義感溢れる、まじめな子で、別のクラスではあったが、気が合って良く遊んだ。
▽お父様の山田さんは日本通運にお勤めで、小さい頃、「この、丸に通の、マークは日本一なんだぞぉ」 と言われた記憶がある。確かに、正しい。
▽何ともおしゃれな出窓なので、失礼してもう一枚。
▽元の道路に戻り、奥に進むと、火力発電の柵がある。小さい頃、君ちゃんと、二人で虫取りのために、中に入ろうとして、上の鉄条網にひっかかり、大騒ぎになったことがある。君ちゃんのお母さん、自分の母親、そして、発電所の係員までかけつけて、外してくれた。
職員の人に「もう、入ろうとしたらダメだよ。」と注意はされたが、大して怒られなかったので、逆に、記憶残っており、それ以来、入ろうとしたことはない。
この発電所は、現在、天然ガスで、100MW程度の規模で運転しているらしい。過去にはもっと多く、数百MWの設備があり、重油なども使ってガンガン発電していたらしい(昭和38年の新潟地震でこの重油タンクが大爆発を起こした)が、80年代に入り半減され、2000年代になってさらに半減されて現在に至る。
▽生家に今生の別れを。右手前の、富岡さんの家は、もう、別の方がお住まい(御子孫かどうか不明)になっているようだった。
Googleマップで確認すると、2011年までは昔の家が残っていたようだ。
▽これ以外の家々の所在は、全く分からなかった。諦めて、最寄りのバス停留所に戻る。
平成初期に作られたこの停留所は、バスが近づくと、表示が変わり、上のスピーカーで知らせる機能で、当時としては最新鋭ハイテクで画期的だったのだが、今や、完全に古物と化してしまった。インターネット恐るべし。
ほんとは、飛行場道路を挟んで反対側にある、みきおちゃんち、や、のりちゃんち(元 内閣参事官)の家も見に行きたかったのだが、炎天下で大きな荷物を持っての移動であり、バターンの行軍になりそうだったのであきらめた。
▽帰路に付く。通船川の上を通る。この川は、信濃川と阿賀野川をつなぐ川であり、イザベラバードの旅行記にも登場するほど有名な川であった。
現在はその一部分のみ残り、昭和40、50年代には未処理の生活排水がそのまま流れ込んで、ドブ川化していた。
バスの中に居ても、川に近づくと、はっきりと臭いが分かったのを覚えている。
それが、平成の頃には、相当、浄化され、それが人工的に行われたものなのか、あるいは、自然に浄化されたのか不明であるが、ともかく、見違えるようになった。
しかし、Wikiに記されているように、現在、再び、急速に、水質が悪化して全国でもワーストリスト入りしているらしい。
▽右手にJALホテルを見ながら、東港線を駅に向かって進む。
JALホテルは朱鷺メッセとか言われているらしい。
いつから、この、松浜バス路線に、新潟駅行きが開設されたのだろう。
昔は、古町行きか、県庁前行き(旧県庁、今の市役所)、しかなく、駅へ行くには、まるでスイッチバックするように引き返す路線に乗り替えたりする必要があった。
自分も、通っていた高校があった「関屋」の方へ行くには、どうしてもバス乗り換えが必要で、それもとんでもなく不便だったため、バイク通学をするようになった。
当時(昭和四、五十年代)は、高校生のバイク運転を、「不良」の始まりだとして、禁止する風潮が強く、「三ない運動」とかをPTAが推進していた。しかし、自分の行っていた高校は、毎年、警察署主催のバイク講習会を受講することを条件に、バイクでの通学が認められていた。
交通費も。当時のバス定期代が六千円近くするのに対し、原付バイクだと、自賠責保険料やガソリン代を払っても半額以下で済み、所要時間も半分以下だったので、受験勉強にも好都合だった。高3のときには、ほぼ隔週くらいで、いろいろな全国模試を受けに行っていたと思う。
今は、この路線でも、関屋の方まで向かう直通バスが、平日のみ、毎日三本だけ開設され、多少は便利になっているらしい。
(後記)今回、山ノ下に行ってみて、半世紀前と一番変わったのは、末広町から紡績口あたりのアーケードが撤去されたことだろう。
おかげで、その辺りを通っても、自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなった。
アーケードの設置と維持には、近隣の商店街のパワーが必要なのだ、と言うことが良く分かった。
どうか、古町のアーケード(古町モール)が無くなりませんように、、、。
注: ご関係の方々で、もし失礼がありましたら、コメント等でご連絡下さい。