母親の大学受験、昭和29年 | spinflopのブログ

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(2022年1月から~) 
両親が亡くなり空き家となった実家の売却と確定申告日記(2023年6月納税完了)。遺品・写真から亡父母の生前を振り返り菩提を弔う。そして父の遺品の一眼レフカメラSONY α350の交換レンズを購入し使い倒す。

子供の頃はずっと、自分の母親(1978没)は、高校を出て、東京の洋裁専門学校に1、2年通ったあと、新潟に戻って1、2年働き、23歳で見合い結婚した、と思っていたのだが、、ある時、実は大学受験をしていたことを、直接本人から聞いた記憶がある。

 

もう何十年も前の昭和のことであるが、当時、母親がぼそりと語った。

中学校の頃は、中央高校(新潟市の女子高)に、絶対入りたくて、死ぬ気になって勉強したけれど、

高校に入ってからは、授業について行けず、「お客様」だったわ。

大学は、ぽん女(日本女子大)も、津田も受けたけれど、、全部だめだった。

お前は、「お客様」にはなるなよ。

この話を自分がいつ聞いたのか、実は判然としない。中学生の頃(70年代半ば)だったような気もするし、高校に入ってから(70年代後半)だったような気もする。

ただ、はっきりと、「ぽん女も津田も落ちた」 と言っていたことだけは記憶に残っているので、高校のときである可能性が高い。

田舎の中学生が「ぽん女」と言う、日本女子大の略称を知っているとは思えないからだ。

今回、実家1の売却にあたって、掃除をしていて、その母親の大学受験にまつわる古い写真を発見した。

 

 

▽昭和29年、どこかの女子大での記念撮影。 「受験の記念に写真写しましょうよ~ そうしましょう~」。

(後記)2023年8/1記、S叔母に見て貰ったところ、大人の恰好をしているし、受験のときではなく、ドレメに通っている際に遊びに来て撮ったのだろうと。



母親はもう四十年以上前に亡くなっているので、父親の葬儀(2018年)の際に、母親の妹(自分の叔母)に、当時の話を聞いてみると、

姉ちゃんは、卒業の記念にサイクリングに行って、何か体調不良を起こして、あまり受験勉強出来なかったんじゃないかな。

と言われた。

 
母親はこの大学受験で挫折した結果、数年後に父親とお見合いで結婚することになるのであるが、当時、昭和30年代の若い女性としては、ごく普通の人生の選択であったであろう。しかし、その後、1978年に四十代で病死してしまう。

もし、万が一、受験に成功していたら、全く別の人生を歩んでいたのではなかろうか、また、若くして死ななかったのではなかろうかと思うと、万感である。

  

実家で見つけた写真をさらに貼って行く。月末が買主(株式会社I )への引き渡し日なので、既に取り壊し工事も完了しているであろう。
 

▽ 写真に写っている学生は上の写真と一人だけ違う。

おそらく四人で受験しに来ていて、順番にシャッターを押す係になったのだろう。

四人とも、新潟から一緒に受けに行ったのだろうか。

未だ上越新幹線はおろか、上越線の特急「とき」 すらなく、清水トンネルも単線(新清水は1963年開通)、全線電化(1962年)も未だで、新潟から東京まで、六時間以上もかかった時代である。

昭和29年、女子生徒の進学率が全国平均で5%の頃である。

どういう心境で、大学、それも東京へ行こうとしたのだろう。

当時の入試の倍率とかはどうだったのだろう。

写真の後ろに学部の案内板が見えるが、どの学部を受験したのだろう。他の方々の結果はどうだったのだろう。
※上の写真(1955年)が、どちらの女子大(おそらく、津田か日本女子大)か、当時の風景がお分かりになられる方、教えていただければ大変うれしいです。 

 

 

▽叔母(母親の妹)の言う話の通り、サイクリングに行っている写真も見つかった。上の写真の大学受験組とは別のグループのようである。

 

▽どこにサイクリングに行ったのだろう。また、これでどうして具合が悪くなったのか、、。  楽しそうだから、まあいいか。

 

 

(後記)2022年8/25記、母親の大学受験(昭和29年)について、少しは分かった気になっていたのだが、、、、。

家の人に写真を見せたところ、「服装が少しおかしいのでは?」と言う指摘。

まず、全員が私服であり、高校生にしては大人びているような。

当時は、女子の結婚可能年齢も早かったのだから、みんな大人びていたのかも。

しかし、もう一つ、半袖の人がいるのである。

受験日程はいつだったのだろう。現代のように、年が明けてからならば、真冬のはずである。

あるいは、秋頃の推薦入試、と言うものが、昭和29年当時も存在していたのだろうか。

いずれにしても母親は受験に失敗し、東京の洋裁学校に1,2通ったあと、新潟に戻り、ドレメに勤めたり、どこかの料理屋で仲居をしたりして、23才頃に父親と見合い結婚した。

どういう経緯で引き合わされたのかは、伯母Sさん(亡次兄の奥様)から聞いたことがある。

中央市場で、実家の○○屋の商売の手伝いをしていて、あんたのお父親のお祖母さん(K家ハナさん)の、目に止まったんだよ

 

 

▽前回の写真はここ。