武術研究科としての甲野善紀氏の語ること。
「よく分からないうちに頭で習ってなぞるっていうのは、本当に問題が有るな〜と、」
それは誰だって小中学生の頃感じていたことから、その一端が解るはず。
歴史? 年号覚えてどこが歴史の授業?
地理? 県を覚えて。県庁所在地覚えて・・ 何が地理?
つまらなかっただろ?
そう。あれは地理でも、歴史でも無かった。
やってるふり。教えてる体裁でしか無かったんだよ。
興味がある人はYouTubeのCGSで神谷宗幣氏がインタビューしてるから、そちらで戦前までは当たり前だった「地政学」など観始めると良い。
16歳の頃、インベーダーゲーム(名古屋撃ちで2画面クリアして、丁度2000円!
ってとこで、「ん?? なにこれ? 楽しい?? いや特には・・」
その後40数年間、ゲームというものには数百円・・使ったかな?というぐらい。
テレビ・学校教育・・・ その多くが「○○は☓☓ですね」 「これは悲しい事故ですね~」 「これはこう解きます。答えは○○ですね」 「良くできたわね~。良い子ね〜(そりゃ教育じゃない!調教だろうが?)」
「多数がこう答えてる。じゃあ僕も・・」
職人のように、じっと眼で学び、自分の中に写し取り→実践の中で身体知性と共に理解してゆき、安易な答えに飛びつかず、自己の内で考え続けてゆく。
だから私がやってるセラピーだって、安易に答えっぽいことを言ってはならないし、そう受け取られてる時には「いや、ちょっと待ってください。」と止めて、
相手が心の中で咀嚼し、血肉化してゆくように引き戻し、
当人の「心の智慧」へと身につけてゆくプロセスに寄り添ってゆくんだよ。
「あれ? え? 私って本当はすべて知っていた?」かのように、
《思い出してゆく。》
そうゆうものだったんじゃないかい?
ただ、セラピーでも対話っていうのは、そういった日常の仕事とは次元の違う、自分の体験している現実世界。のOSのバグや、親や世間からインストールされた思い込みや、親や教育の洗脳や、社会の呪いとか・・・
すべてを解除?しながら、
そんな頭に詰まった文字(観念)の外。の何の制限もない自己意識
に一旦目覚めてゆき、
同時に、頭上の膨大な集合知性から、その時、その瞬間にジャストこれ!って閃きや気付きを瞬時ダウンロードするようになってゆく。
元々それがオリジナルの自分であったかのように。
《思い出してゆく。》
だから、それを『覚醒』とか言ったりするけど。
(だから映画「マトリックス」で、ネオはエージェントの銃弾に「無駄だ」と悟ったり、
他の者が出来ないことを出来る(かのように)なってゆく。と描かれていたんだけどね)