(前回 の続き)


2-2.都市における情報の変化

科学や技術の進歩は、目覚しいものがある。
特に情報という観点からみたとき、
コンピュータや携帯電話の進歩・普及は情報の質と量を劇的に変化させた。

家にいながら世界と繋がることができるインターネットは、
世界との心理的距離を縮小し、我々の空間概念を非常に拡大させたといえるだろう。

吉岡(1989)は、このような時代が我々を
「空間的な拘束の自由と同時に、それまで遥かな想像の彼方に存在していた事物や

人々との同時的で過剰な<近接性>という環境にさらしている」
としている。

また、室井(1989)は、以前の物質的交通機関や身体の移動を伴う情報と比較し、

現在の身体の移動を伴わない情報の流れについて論じている。

どちらも情報の質の変化を論じたものであるが、
忘れてならないのは、インターネットや携帯電話がもたらした情報量・情報密度の増大である。

過剰に生産され続ける情報を我々はすべて処理することができないので、
自分に必要な情報だけを取捨選択する。
それは利己的な方法であるが、合理的な方法でもある。

このように情報の質と量が変化すれば、
必然的に都市と人間の関わり方も変化すると予測できる。
詳しくは、後に論じることにしよう。


2-3.都市を捉える地図

都市を記号論的に捉える時には、地図という要素も欠かすことができない。
なぜなら、地図には<恣意性>や<コード>および<コードからの逸脱>が関係しているからだ。

地図の恣意性とは、地図製作者が自由に処理することができる部分である。
それらは、縮尺・記号の使い方・道幅・等高線の処理・色彩の選び方など様々である。

地図の恣意性について疑問に思う人もいるだろうが、
地図も一種の表現手段(伝達手段)であることを考えれば納得できるだろう。

津野ら(1990)は、地図には様々な制約(決まりごと)が存在するが、
そのような制約上の必要な記載以外の恣意性があってはじめて地図は見やすくなるとしている。

つまり、これは<コード>および<コードからの逸脱>と<恣意性>といった記号論と

地図との関係を明らかにしているのだ。
恣意性が分かりやすさや見易さにつながるというのは興味深い現象でもある。

さらに、今日のGPSやカーナビは現在位置や目的地・経路選択といった情報を付加しているため

従来の地図より記号性を強調している点で注目に値する。



[参考文献]


室井尚 都市と身体の変容.日本記号学会(編) 1989 都市・建築・コスモロジー(記号学研究9).東海大学出版会.pp.69-79.

津野海太郎他(編) 1990 地図の記号論-方法としての地図論の試み-.
批評社.

吉岡洋 都市と近接性.日本記号学会(編) 1989 都市・建築・コスモロジー(記号学研究9).東海大学出版会.pp.57-68.

前回 の続きから)

市川らの考えは、都市と人間のトランザクションを示している。
つまり、都市は人間に影響を与え、
人間もまた都市に影響を与えているということである。

このような相互作用を論じる上で記号論は示唆に富んでいる。

都市は<近接性>・<コード>・<意味>・<象徴性>などといった
記号論の枠組みの中で論じることができる。

よって、ここでは記号論的な視点から都市空間と人間との
相互作用を論じていきたい。

2.都市における情報

都市が圧倒的な情報量を有していることはすでに述べた。
都市は様々な言説・情報・イメージ・文化を生み出すと同時に。
都市そのものも情報となっている。

Lynch(1960)は、都市環境のlegibilityを前提に、
都市のイメージの構成要素として

path(各種の道筋)
edges(各種の線状の要素)
districts(都市の部分)
nodes(都市内部の主要な集合点)
landmarks(外部から認識できる特徴的・点的な要素)

の5つを挙げている。

つまりこれは、都市が断片的情報から構成され、
それらをコード化し再構成することで我々が都市を捉えていることを
示唆しているのだ。

言い換えるならば、都市は記号をコード化し解釈し意味を抽出するという
記号論の一連の流れを経て捉えられているのである。

Lynchの研究は、都市計画や建築・心理学などにも影響を与えた。
今日ではLynchの概念に批判的な研究者も少なくないが、
それでも未だに引用される重要な文献である。

2-1.landmarksについて

Lynchの挙げた5つの構成要素のうち、
landmarksは特に記号論と関わりが深い。

津川(2003)によれば、landmarksとは
「極めて地理的な存在・対象であり、地理的空間において象徴性・記号性・場所性・認知性
などの諸特性を有し、人々の空間行動を支え、
空間イメージや原風景を形成する景観の一要素」であるという。

そして彼は、landmarksに求められるものとして、
「認知性・視認性・アクセント・利便性・快適性・時代性・芸術性・方向位置
などの多様な情報」としている。

これらは、
主観的・客観的、物理的・心理的・機能的という違いはあるものの、
情報を解釈することで得られるものであろう。

さらに、landmarksの象徴性は希少価値の大きさに比例し、
その記号性は適切・適度に分布・配置することで
空間認識を促進することも述べている。

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街並みの美学 (岩波現代文庫)/芦原 義信
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地域とランドマーク―象徴性・記号性・場所性/津川 康雄
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あなたの好きな街は? ブログネタ:あなたの好きな街は? 参加中

1.はじめに


 現在、我々が日常生活を営む上で都市は重要な役割を果たしている。

都市にはヒト・モノ・カネ・情報といった経済的活動と切っても切れない要素が多く流入し、

一つの流れが作り出されている。


都市というのは非常に不思議な空間である。

様々な人種・年齢・宗教・思想・目的などを持つ人々が一つの空間に集まっている。


様々な意匠を施された超高層ビルが乱立するさまは、

我々に畏怖や威厳といった複雑な感情を抱かせる。

さらに、多くの看板や広告ポスター、ネオンサインが溢れており、圧倒的な情報量を有している。

行き交う人々はうねりと混沌を生み出し、

それはさながら宇宙が誕生する前のような様相を呈している。


1-1.都市と宇宙論(コスモロジー)の関係


ところで、都市構想と宇宙論とは深く関係している。

市川ら(1989)は、都市と宇宙論の関わりと変遷について論じている。


まず、伝統的な社会では<宇宙-都市-建築-人間の身体>が入れ子構造をなしていると考えられ、

ルネサンス期には大宇宙と小宇宙(人体)が対応関係をなしており、

人間は自分の位置や意味を確信できたという。


そのような宇宙観において人間は、空間に様々な異質性・異方性・特異な場所を見出し、

理想都市として中心型(放射状)を構想した。

例えば、パリなどが有名である。





しかし近代になると、コペルニクスやニュートン、アインシュタインらの出現により、

宇宙は均質の空間で中心を持たないことが分かると、

都市のスタイルは大きく変わることになる。


その空間概念は三次元の立体座標で区切ることのできる均質なものへと変化し、

格子型(グリッド状)の都市が生まれることになる。

例えば、バルセロナが有名である。



バルセロナ


そこでは、箱型の画一的なビルが建ち並び、あらゆる空間が均質化していくという。

すべての空間が均質化されると、内部空間も均質化し、単一の機能を果たすだけの

機能的・合理的な空間へと心理的に変質するため、機能主義的な人間を生み出していく。


迷うことが楽しい街というのも存在する。

例えば、ザルツブルグやヴェネチアといった街である。




ヴェネチア



ザルツブルグ

これらの街はメインストリートを中心に魅力的なスポットが散りばめられ、

安心して迷える街になっているのだ。


仙田満の提唱する「遊環構造」も、これらの街に似た構造になっている。



これまで放射状、グリッド状、迷うことが楽しい街を紹介してきたが、

どれも異なる構造と特色を持っており、非常に魅力的である。


次回は、記号論と都市空間と人間との関わりについて論じていこう。


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環境デザインの展開―コンセプトとプロセス/仙田 満

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市川浩・原広司・伊藤豊雄・毛鋼毅広 錯綜体としての建築と都市-コスモロジーをめぐって-.

日本記号学会(編) 1989 都市・建築・コスモロジー(記号学研究9).東海大学出版会.pp.13-54.

子供の頃、夢中で集めたものは? ブログネタ:子供の頃、夢中で集めたものは? 参加中

私の趣味の1つに、おまけ集めがある。
どうやら、収集癖があるのは血筋からきているようだ。

ビックリマンに始まり、メンコ、
チョコエッグ、ペプシのガンダムボトルキャップ、大学のロゴ入りライターなどなど。

集めだしたら止まらない。
これが散在の原因の1つだろう。

ビックリマンチョコに代表されるように、
シール集めが目的と化している人は中味のチョコを食べないで捨てることも多い。

ガンダムボトルキャップを集めていた時は、
冷蔵庫に常にペプシの缶が数本入っている状態だった(後に捨てる)。

このように、実際の商品ではなく、付随するおまけやポイント(マイルなど)を集めること自体が
目的となってしまうことを、認知科学や行動経済学では「媒介の最大化」という。

おまけやポイントは販促にすぎないが、それらをいかに最大化するかに専心し、
実際の商品からの満足感は低下することもあるというところに人間臭さを感じる。

高所得を得ようとするのも「媒介の最大化」の1種である。

つまり、お金を稼ぐことだけを目的とし、仕事の内容はどうでもよいと考えることである。
仕事に喜びを感じないが、高収入だから満足って人も多いのではなかろうか。

んで、おまけの話に戻ろう。

秋葉原や中野ブロードウェイでは、そのおまけだけが売買されていたりする。
実際の商品を買うより、おまけだけを安価に集められるため、効率がよい。
しかも中身を確かめられるので、かぶる心配がない。

それはつまり、「商品の中抜き」現象である。
メーカー側にとっては、たまったものではないかもしれないが。

媒介を究極に最大化した結果が、秋葉原や中野ブロードウェイなのであろう。

というわけで、万代書店に行きたくなってきた。

他人の鼻毛出てたら言える? ブログネタ:他人の鼻毛出てたら言える? 参加中


鼻毛は、とかく私の注意を引きつける。

面と向かって人と話すときは相手の目を見るのが基本である。

しかし、相手の鼻から1本だけ鼻毛がひょろっと生えていた場合、自らの注意は鼻毛に向き、
すべての注意資源が鼻毛に注がれることになる。

鼻毛に奪われた注意は、もはや他の事に向ける余力など残されてはいない。
それが馴化するまで、鼻毛から目を逸らすことは不可能だ。

もはや、その会話は相手とのというより鼻毛とのものに移行する。

軽いジョークは、相手を笑わすためではなく、鼻毛をイキイキと活動させるためにある。

相手が笑えば、鼻毛が揺れる。
鼻毛のエラン・ヴィタール(生命の躍動)を感じる瞬間である。

特に、その相手が女性である場合は、とても豊かな会話が約束される。
女性には「おっぱい」という男性の注意資源を根こそぎ奪うリーサル・ウェポンがある。
しかし、それと同等の最終兵器彼女こそが鼻毛である。

とても美しい女性の鼻から1本だけひょろっと鼻毛が顔を出していることを想像してほしい。

のれんをくぐる時の江戸っ子のように実に爽快に顔を覘かせているのである。

コウノトリやキャベツ畑を信じている女の子に無修正のAVを突きつけるような、下卑た快楽がそこにある。

これは、「ホクロから毛が生えている人」と会話する場合でも同様だ。
もはや、真剣な会話など出来はしない。

私のバイト先には、鼻毛だけでなく耳毛もボーボボーな男性がいる。
彼に対するとき私の注意資源は、何対何で割り振ればいいのか葛藤を繰り返す。

さて、最近の私は鼻毛が伸び放題になる年頃だ。
もし顔を覘かせる事態となれば、これも誰かの注意資源を奪ってくれると願うばかりである。


このような理由により、私は鼻毛に対して自分の注意を注ぐが、鼻毛が伸びていること自体は注意しない。
つまり、私が人に対して鼻毛が伸びていることを咎めたり注意を喚起したりはしないということだ。

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