「かごめかごめ」は,日本全国で歌われている童謡ですね。歌詞は地域によって少しずつ異なるそうなのですが,私の住んでいる地域では次のような歌詞となっています。
「かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
うしろの正面だあれ」
私も子供の頃にこの歌を歌いながら遊んだ記憶があります。目隠しをした人が中に入り,その他の人が周りを回りながら,歌が終わったところで,その目隠しをした人の後ろに来た人は誰かを当てる,という遊びです。皆さんがされたのもそのようなものだったのではないでしょうか。
ただ,よく歌詞を読んでみますと,とても不思議な内容であることに気付くのです。
まず,「かごめ」とは何か,です。
そして「籠の中の鳥」とは本物の鳥を意味しているのでしょうか。それとも何かの比喩なのでしょうか。
さらに,その鳥が「いついつ出やる」とは何を意味しているのでしょうか。「出やる」とは何を意味する言葉なのでしょうか。
続く「夜明けの晩」とはどういう意味なのでしょうか。「夜明け」なのに「晩」とはどのようなことを意味しているのでしょうか。
さらには,「鶴と亀がすべった」とはどういうことなのでしょうか。
そして「うしろの正面だあれ」とは何を意味する言葉なのでしょうか。「うしろ」と「正面」は全く逆の言葉です。では「うしろの正面だあれ」とはどのような意味なのでしょうか。
このように,「かごめかごめ」はよく考えてみますと,とても不思議な世界観が描かれた,神秘的な雰囲気の歌であることに気付きます。
私達はその不思議さを感じつつ,その歌で遊んできたということになりますね。
実はこの「かごめかごめ」の歌詞の意味につきましては,数々の説があるのです。その代表的なものは,元々児童遊戯として作られたのだ,という立場でありまして,通説的な存在です。
この児童遊戯説では,籠の中の鳥は「オニ」を意味する言葉であって,「かごめ,かごめ」は「囲め,囲め」を意味する,とします。
そして,「オニの人はいつになったら次の人と交代できるのでしょう」が「いついつ出やる」という言葉である,とされるのです。そして,私達が遊んでいたとおり,「うしろの正面だあれ」で見事に当てれば,オニは交代できる,ということになります。
この通説は,一見もっともなのですが,実は1つ弱点があります。それは,「鶴と亀がすべった」という歌詞の意味を説明できない,ということです(通説的な立場は,通常それは「リズムを合わせるために挿入された言葉だ」と説明するにとどまっています)。
そのような通説的な立場に対し,異を唱える立場があります。
その代表的な説に「囚人説」があります。「かごめかごめ」は,牢屋に入れられている囚人の歌だ,というものです。「鶴と亀がすべった」とは,その囚人に悲劇が起きることを,「うしろの正面だあれ」とはその囚人に起きる悲劇をもたらす人が,すぐ後ろまで来ていることを意味する,というものです。
その他にも有名な立場として,「遊女説」があります。「かごめかごめ」は,家の借金のために遊郭に売り飛ばされてきた女性の悲劇を歌ったものだ,というものです。
6月8日放送のTVドラマ「都市伝説の女」では,「かごめかごめ」には徳川埋蔵金の隠し場所が隠されている,という説が紹介されていましたね。「鶴」と「亀」が日光東照宮に設けられている「鶴」と「亀」の像を意味している,という立場です。
実は,「かごめかごめ」の遊びの起源は,神の託宣を聞く行為から来ている,という立場がありまして,私はこの立場が有力ではないかな,と思っています。柳田國男の『日本の伝説』にも,東北の地方で見られた「地蔵遊び」の報告が書かれてあります。
福島県のある村などに「地蔵遊び」と呼ばれる遊びが残されており,その内容がかごめかごめとほぼ同じなのです。
その「地蔵遊び」とは,「おのりやれ地蔵様」と唱えながら,1人の子供を中心に置き,その周りを人が回っていると,その中央に位置した子供に地蔵様がのり移るという儀式です。
そして,その子供にのり移った地蔵様に,周りを回っていた人が,それぞれ質問をして返事を聞く,というものです。
その「地蔵遊び」で,子供に地蔵様をのり移してまで聞きたいこととは何か,が問題ですが,私は,それはやはり,もう既に亡くなられた方は今どうしているのだろう,ということだったのではないか,と思うのです。
生きている間,一緒にいる間はいて当然と思っている肉親や親しい人が,突然この世から消えてしまった深い悲しみを,せめて天国で元気にしていると地蔵様が教えてくれた,ということで,いやそうとした人々の思いが,「地蔵遊び」を編み出したように思えます。
愛する人への思いが編み出した「地蔵遊び」が,世代を経て「かごめかごめ」となり,さらにはその歌詞に色々な意味が与えられながら,現在に伝わっているのかもしれません。そしてそれは,もうこの世にはいない,自分を愛してくれた人を懐かしみ,愛おしく感じる私達の思いが,現在でも変わらないことが生み出したことなのかもしれませんね。