サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマ(フィリピン武術)ラプンティ・アルニス・デ・アバニコを横浜、湘南、都内で練習しています。オンライン・レッスン一か月@10000で行っております。
連絡southmartial@yahoo.co.jp

 先日も、当たりのある稽古をしていました。

 これ、中国武術では定番で、初めは柔らかくやっているところから、徐々に強くして当てることが求められます。

 前腕を使ってやるのですが単純に前腕を強化すること自体が目的と言う訳ではありません。

 ちゃんと勁の通りを強化するための内側の練功なのですが、でも、最も基本としてはやはり腕の強さを高める要素も存在しています。

 中のことだけを考えてやっていても、必然腕自体は物に当たるので鍛えられてゆくことにもなります。

 この時もひたすら瞑目するように意識は内側のラインにだけ向けてやっていたのですが、終わったら左手の甲に内出血が出来ていました。

 これはですね、ここに繋がっている血管からの物ですね。

 前腕に何かダメージがあったからここに血が流れて来たと言うことです。

 どっか強くぶっけたんだろうなあ、と思っていたのですが、一晩寝たら手首の近くが腫れていました。

 折れていればもっと内出血するし腫れあがります。触診してみても折れてる感じもありませんでした。おそらくは骨膜の打撲ですね。

 まぁ私は、よく知らない間にどこかを強打していてこうなることがあるのです。

 学校でも鍼を打たれている時たまに「痛くないんですか?」と訊かれることがありますが、そんなん痛いとか痛くないとか考えたこともない。

 足の裏とかにも自分で平気でガンガン打ったりしています。

 質問に対しては「もうどっかぶっ壊れてるんだと思う」と答えていたのですが、長くに渡る稽古のせいで痛みを感じる機能が鈍くなっているのではないかという気がしていました。

 が、これね、授業で習ったことでちょっと思い当たることが出てきました。

 鍼の効能の一つに、麻酔鍼という物があります。

 これ、効果を顕す方法として「痛くないといけない」という変な機序があります。

 鍼で痛くすることによって、下降性痛覚抑制系と言う鎮痛機能が働くのですが、これは痛みを与えることで脳幹にある橋のノルアドレナリン分泌と、延髄のセロトニン分泌が作用して、痛みを感じなくなるというシステムです。

 この、ノルアドレナリンとセロトニン、オピオイドと言われている物質です。

 オピオイド、アメリカでは病院で処方されて大量に中毒者が発生して社会問題になっていますが、まさにそういう物なのです。それが人体では精製されているのですね。

 これね、そういう訓練があるんです。武術に。

 苦行や荒行と呼ばれる修行というのは、それを目的とした物だと言う人も居ます。

 これを経ると脳の分泌系が発達して、容易に脳内麻薬が出やすくなり、ブーストが掛かりやすい人間になるのです。

 私はそういうことをしてきたので、もしかしたら知らない間にすぐに脳内麻薬が出て、平素から痛みを感じにくくなっているのかもしれません。

 鍼や点穴を学ぶと経絡を突いて外部からこれを行うことが出来るようになるのって、ちょっと面白いことではないですか。

 前回、自分たちの世代よりさらに、この国が地盤沈下しているということを書きました。

 なぜそんなことが書けるのかというと、いま犯罪で世の中で顰蹙を買っている若い人達、インフルエンサー、格闘家、アスリート界隈の連中と、私は全く同じことをしていたからです。

 彼等や闇バイトの連中と言うのは、訳も分からず道を踏み外していて、中にはそれが犯罪なのかどうかさえ分からないままバイトだと思って連れてこられて気が付いたら犯人になっていた、という話も聞きます。

 私も、私たちもそうでした。

 ここから先は犯罪だぞ、覚悟を持っていけよ、とハンコを押して先に進むようなことはしていません。

 ただ、困ってるからついてきてくれと言われて、現場でいいように動かされて気が付いたら既遂だという、そういうことが繰り返されてきました。

 その繰り返しの中で、その中でのし上がろうとしてゆく者も居れば、私のように早い段階で気付いてすぐに降りた人間もいるのでしょう。

 しかし、本当に頭が純朴で他人任せの連中は「やれって言われたからやっただけなのに、何が悪いんだよう」というような形で連行されてゆき、人生を棒に振ってしまうことになるのでしょう。

 私たちのような人間が、クズレと言ったりしていました。

 ボクサー崩れ、空手崩れ、自衛官崩れ。みんな頭が緩くて、年上の人間の言うことを聴くのが良い若者だと思っているような連中で、ジムや飲み屋であったようなヤクザ者に酒をおごられて、悩みを聞かされて手伝ってくれと言われてホイホイついてきて一方通行の隘路に入り込んでしまったような連中でした。

 中には、田舎から出てきた新聞配達員が、というような話も聞きます。

 ホステスのスカウトから食えなくて集団窃盗団に入った人間も知っています。

 そういった、頭の緩い人間、自分で判断して生きてゆくと言う訓練が出来ていなかった人間が、悪い処で悪い大人に引っかかるとそうなってしまう。

 今朝のニュースで、JPドラゴンの一員が逮捕されたという話を聴いて驚きました。

 JPドラゴンについて、一般メディアではどれだけ紹介されているでしょうか。

 私は以前からここで書いてきましたね。

 闇バイトの代表的な存在であるルフィ一味と言うのがフィリピンから指令を出して日本の頭の緩い若者を行使していたというところまでは有名な話でしょう。 

 しかし、そのルフィ一味なんてのは中間管理職で、本当の親玉はさらにその上に居て、それはJPドラゴンと呼ばれる日系のフィリピンの犯罪集団で、現地ではもう彼らに牛耳られたような街もあり、殺人が起きても、買収された現地の警察ではもみ消されて現地の手が出せないという存在だということを書いてきました。

 ですが、流石に国際問題だと言うことで外部からの権力が動いたのでしょう。

 逮捕されたルフィ一味の年齢が40代。

 今回逮捕されたJPドラゴンが私と同じ50代。 

 闇バイトの実行犯たちの世代と並べてみて、もうがっちりこれまで書いてきた構図があてはまります。

 私たちの世代でそういった業界のことを覚えて、それをそのままマニュアル化して下の世代にはめこんでいる。

 その中でどんどん国は、というかもう世界全体がどんどん悪くなっていており、貧困化が進み、学習能力の中央値は低下して行き、知的分断が広がっています。

 これはね、資本主義が煮詰まって、再分配をしなければいけないときにそれが行われず、世界中の富が極一部に集中してしまったためです。

 バノンやマスクの計画は、この時代の流れを活用した物です。

 闇バイトの流れと同じく、バノンやマスクと言った上流の人間だけに富は集中してゆき、国際的な単位で中間管理の連中が悪しき企業を展開してゆき、もっとも若く、知的な発育の遅れた者たちが加害者と言う名の被害者になってゆく。

 これがね、私が十年も前から繰り返し、ブラック社会とブラック企業という言葉を通して予告してきたことの実態です。

 そりゃあこうなるに決まってるんですよ。

 堅気で社会で働いても、闇バイトしても、基本的にまったく同じ構造なんですもの。

 この、構造という視点で物を観ることが、構造主義という哲学の視点からの抽象です。

 私自身、自分の経験から犯罪社会も表の中流社会(そのころはそういう物があると思っていた)がまったく変わらないという事実に直面して衝撃を受け、隠棲を決意したところからいまの人生に至っています。

 残念ながら、この判断は正解で、それだけが唯一私に出来る正しい選択だったといまでも思っています。

 ですので、私が提唱している伝統文化、身体心理学、学問、身体哲学と言った視点からのライフ・スタイルはみな、この社会の負の構造からの隠遁法であると言えます。

 アメリカ大統領選、日本でのいくつかの選挙など、これらの構造はもう、裏側に潜むのではなく明白に表に出てくる段階に入りました。

 私たち一人一人はより早く、そのことを自覚して自分の選択をしてゆく方が絶対に良い。

 それが遅れるとどうなるのか。

 そのことを沢山のニュースが見せてくれています。

 以前から、この社会における底辺のマッチョ界隈について繰り返し書いてきました。

 こと、最近では一般マスコミにおいても格闘技関係者の犯罪が取り上げられることもあります(私はラジオの報道番組で聴きました)。

 ですので、今回の件も正直「またか」と思いました。

 インフルエンサーや格闘技関係者、そしてこれからは恐らくフィジーク関係者が、こういったことでどんどん挙げられてゆくだろうと言う予想を以前紹介しました。

 私も同感に思っています。

 昨今の選挙についても、日本の若年層が思ったよりもネット・リテラシーが低く、デマゴーグに流されやすかったり、ネット内の情報への依存性が強かったりしているという指摘を目にしています。

 私たちのようなMSX世代からすると、すでにそのような傾向は00年代までで薄れていて、デジタル・ネイティヴ世代は現実とネット内の区別が付くようになっているのだろうと思い込んでいたのですが、実際はそうではないようでした。

 やはりまだまだ、私たちの時代の捉え方は甘すぎ、せっかちすぎだったようです。

 これから、進化の前の過渡期として一旦どんどん悪くなる時代が続くだろうと言うことが社会学の方面からは指摘されています。

 21世紀だから、デジタルネイティヴだから、Z世代だから、いまの子たちはしっかりしてるから、そういう見方で、私たちとは地続きではないような見方は間違いでした。

 そのような見解には、どこかでやはり、自分たちの世代のふがいなさの後始末を勝手に押し付けるような無責任な希望的観測があったのではないかと思われます。

 私たちの負債を背負わされた彼らは、やはり私たちの業と地獄を引き継いでいかなければならないのです。

 いまね、闇バイトの問題がよく報道されています。

 うちにも実は下見が来たのですけれども、もう、女の人みたいなひょろがりでした。

 いまはもう、ガタイの良いような如何にもな強面はガテンで自分で稼いでいて、その能も無いようなニートみたいなのがより下っ端の使い走り犯罪者をさせられている。

 私たちの世代より、さらに一段階社会が地盤沈下をしていることを感じます。

                                              つづく

 前回書いた、心身一如の考え方は当たり前に中国武術のコンセプトに普及しているものです。

 内功、いわゆる気功では、人間の感情は五臓に宿るとされています。

 つまり、ビクビクしたり興奮に駆られておかしな対人練習をしてしまう人は、この内臓の力のバランスが崩れていると考えます。

 肝臓の不調は短気を招き、心臓の不調はハイになっておかしくなってしまう自体を招きます。脾は失敗を恐れる心を招き、腎は人をビクビクとさせてしまいます。

 そして肝は筋肉の働きを司り、心は脈拍を、脾は皮膚感覚を、肺は呼吸を、腎は骨に影響をもたらします。

 つまり、それらの何処かのバランスが崩れていれば、それは動きに現れやすい。そして動きを通して自分を澄まし、鎮めてゆくことができれば、心と体のエネルギーの流れは調整されます。

 ここまで詳細が明確化されているのは中国武術の優位性でしょうが、私の日本武道の先生は、感情がおかしくなって動きがコントロールできなくなってしまうことを「けだものごころ」と呼んでいました。

 この獣心に操られてはいけないのだ。理性と訓練で規律のある動きを得ることが武道である。という考えですね。

 これは、和魂洋才の現代武道としては非常によく分かる考え方です。

 しかし、中国武術はこの考え方はいたしません。

 何しろ中国武術は陰陽思想。物事はすべて相対化して観てゆくのです。

 獣としての心を元神といい、この部分の活性化は非常に良いものだと肯定されています。

 これに操られてしまって、自分のしたいことができなくなるのは元神が悪いのではなく、単に陰陽の調和、バランスが整っていないというだけです。

 そこで、元神を抑制するのではなくて、活発な元神と陰陽関係にある識神を活性化させることにします。

 これは、理性や知性と言った部分ですね。

 そうやって、陰陽関係にある双方を活発化させることで、動物のような身体能力の回復と、それを意のままにコントロールする識神を併せ持ち、陰陽を大きく成長させるという機序を大切にします。

 いわば一人の中で、人騎一体、野生と知性を兼ね備えた、「高貴な野蛮人」的な思想的成長を理想とします。

 高貴な野蛮人が、ビクビクおどおどしていたり、メソメソしていて怒りっぽいわけがない。

 野蛮人コナンのように、まったき人間性を求めてゆく、ということです。

 戦後、多くの日本人が中国武術に取り組んだ物の、その殆どが挫折して体得できた人がほぼ存在していない理由の一つに「日本人は放鬆ができない」という問題があります。

 幸いにして名門で学んで成功したという先生の手記を読んでも、とにかくこれに苦労したと話していたりします。

 そもが、放鬆とは何なのかが理解できないという説もあり、また日本人は肩こり体質の国民であるからだという話もあります。なるほど。

 一大ブームを作った八極拳にしても、日本人がやると「日本人の八極拳」になるといい、通背拳類をするにしても、日本人は方に力が入っているからできないなどとも言われてきました。

 日本人が大好きな、太極拳をはじめとする内家三拳については?

 これもまた、人口がそれだけ多いにもかかわらずほとんど誰もできるようになっていないことを考えれば答えは明白です。

 ある先生が曰くには、日本人は力が入りすぎているし、力を抜けといえば抜きすぎるとのことで、それはすなわち「放鬆ができていない」ということだそうです。

 私自身、はじめに中国武術に打ち込んだときにはまさにこの問題に直面していました。

 しかし、蔡李佛拳を始めたときに、まずは勁を獲得し、後に勁をどんどん強くすることでおのずと拙力が不要になるという方法で私はこれを乗り越える事ができました。

 力がない人ほど、力むクセが付きます。

 なぜなら、大きな力を使わないと他人には簡単な日常運動ができないからです。

 巨大な力がプールされている人のほうが、無駄な力を使わないようにと脱力して動くことが可能になります。

 おそらく前時代の日本人中国武術家は、肉体的なコンプレックスの強い貧弱な人が多かったであろうことは想像に難くありません。

 しかし、問題は実はそれだけではなかったであろう、と思われます。

 沢山の生徒さんたちと練習をしてきている中で、何人もの「変な動き」をする人たちを観てきました。

 その中でも、トップクラスの危険行為であり、かつ存外珍しくないのが、兵器を持って対人練習をするときに、練習の目的としている内容ではなくて、適当にとにかく相手を武器でボカボカ殴り続けるという奇行に出る人たちです。

 信じられないでしょう?

 しかし、これが珍しくないのです。

 武器を持って危ないことをしているのだから安全に気遣って、無理をしないように混乱したら動きを止めよう、というのは理解ができます。

 これは訓練が足りていないだけで、数字で言うなら単に0です。

 しかし、ここで書いている人たちは突然、類人猿に退化したかのように適当に相手の体を棒の類で乱打し始めるのです。

 これらの人々の中でピークなのは、武器を握った手が固まってしまい、泣きながら「取れない! 取れない!」と自分の手を叩き始めた女性です。妖刀ムラマサでも持っていたのかという感じですがただの木の棒です。

 また、別の男性は「ぼくは人と組んで練習をすると頭がおかしくなってしまうので、組まない稽古をさせてください」と申告してきました。

 これらの人によって、私はこういった事例がただ、練習不足で下手だから起きるのではないということに気づき始めたのです。

 後者の男性は、自己申告にあるように本当に問題を抱えている人で、人格障害の人でした。

 不器用だとか練習不足ではなくて、メンタル面の問題なのだと思って見返してみると、必ずしも兵器を持っての対人練習ではないばしょでも、同様のタイプの人が思い浮かび、それらの人々が必ず怪我をして運ばれて行ったことを思い出しました。

 本当に、ただ一人で練習をしているだけで勝手に床を強く蹴ってアキレス腱を切って運ばれたりしているのです。

 これらの人々に共通するのは、他人を意識しすぎているということでした。

 他人なんて、関係ないんですよ、自分の進捗には。

 なのに、他人と比べて、負けては行けない、失敗を見せてはいけないというような思い込みに囚われているようで、勝手に変な自分の中での競争を始めて事故ってしまう。本題のはずの練習は進捗しない。

 これは、極めて日本社会的な精神病弊、というか、メンタルのクセのようなものだと思います。

 少し規模の大きい会社に行けば、かなりの割合で、自分の仕事に先進するよりも、他人の足を引っ張って自分が仕事をしているフリを演出しようとする人たちに出くわすはずです。

 日本の企業社会というものがそういうふうにできているのですね。

 今回の兵庫県での選挙でも、全くそういった空気の操作による事実の無効化が行われました。

 これは日本社会の持つ傾向なのだと思われます。

 そして、これが今回の結論なのですが、彼らの病弊を一言で中国武術の用語で表現するとしたら、それはやはり「放鬆ができていない」ということだと思い至ったのです。

 自分の心に変な力が凝り固まっていて、謎の行動に出てしまう。

 そして運が悪ければ大怪我をしていく。

 私は決して、対人練習時に成功のプレッシャーを掛けたりはしません。

「わからなければゆっくりやればいいんですよ。落ち着いて、ゆっくりでいいから」というのですが、ほとんどの人が絶対にゆっくりとはやりません。

 高速で動いて毎回失敗するのです。

 ゆっくりと動きを覚えてから、それを少しづつ速くしてゆけばいいだけなのに、みんな最初から速く動こうとして止まる。結果、いつまでもできるようにならない。

 こういうことなんですね。

 自分のエゴで、自らを低い地点に止めようとしている。

 こういうことと向き合って、自分の内側を放鬆させる。

 そしてただやる。

 その繰り返しは、人としての存在のあり方をきっと向上させるはずです。

 少林武術は禅の行ですから、大切なのはそこですね。