前の記事で、これからの世界の動向に関する見解については書きました。
そこまでは純粋に、世界情勢、社会学的な視線によるものです。
この絶望的な状況に関して、社会学的な「加速主義」の意向を持っている学者たちが居ました。
つまりは、このトランプ派の反知性主義の勢いというのはもう止めようがないのだから、むしろ加速させて政権を取らせればいい。それからやりたいほうだいやらせればいい、という考え方です。
そうなるとどうなるでしょうか。
彼らは反知性主義者なのでアホです。
何をやっても失敗します。
犯罪を犯して有罪となったりしています。
ですので、彼らの流れは必ず自壊して崩壊してゆくのです。
だって、一定の計画の下に成り立っているのではなく、ただ暴走しているだけですから。
そしてその崩壊の中で、反知性主義者達は滅びてゆきます。
そうして焼け野原となったところで、知性主義者はスクラップ&ビルドで新しい秩序を建て直せばよいと言うことです。
これまでのように、少しづつ抑圧をして事態を長引かせるよりも、一気に爆発させて滅ぼした方が被害が少ないという考え方なのです。
この加速主義の思想は、非常に私たちの学んでいる東洋思想的です。
陰陽転化の法則である「陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる」を地で行くような考え方です。
また、その思想をさらにさかのぼれば、インド最古の哲学書だとも言われる「バガヴァット・ギーター」の姿を私は観ます。
ギーターでは、反映している一族の間での争いの結果、戦場に立つことになった王子に、幼馴染の御者が延々と「厭戦などしてどうするのですか。さっさと敵を殺しなさい」と説諭する様が描かれます。
戦争は良くないからしたくないというのは当然の話だと感じますが、それに加えて敵対しているのも彼の親族です。これは誰にでもわかりやすく戦いたくないシチュエーションでしょう。
しかし、この口説いているのは実は調和を司るヴィシュヌ神の化身です。
神の命令で戦争を起こせ、皆殺しにして滅ぼせと言われているのです。
なぜというなら、そうやって相争うことで栄えた物が滅び、強者も廃り、弱者が興ってはまた滅びてゆくと言うのが生命の円環、サークル・オブ・ライフであり、自然のあるべき姿だから、ということです。
同じ人間同士だから殺したくない、同じ一族だから滅ぼしたくないと言うのは、一強を栄えさせて世界のバランスを崩す不道徳な行為だとみなされている訳です。
この恐るべく深い哲学は、まさにいまのこの状況と加速主義について語っているようです。
彼らを栄えさせろ。そうすれば必ず自ら滅びてゆく。
そうやって、次の新しい世界をまた築くのだ。と。
この日本と言う国もまた、大戦で焼野原となって生まれ変わりました。
また、民主主義そのものも旧体制の貴族主義を滅ぼして興って来た物です。
この起源は、世界中に伝わる洪水神話や神殺しに求められます。
私が継承している東洋思想と、ジョーゼフ・キャンベル式の神話学的に言うと、これはそのようにも観ることができます。
もちろん、彼らが栄えて滅びることで、被害は返って小さくなるという物の、コラテラル・ダメージは確実に存在します。
沢山の命が失われてゆくことは間違いありません。
そのことが私には辛くてしようがありませんが、しかしその私の横には恐らく、見えざるヴィシュヌ神の化身の牧童が居て、そこで囁いているのであろうとも感じるのです。
私たちは肚を据えて、時代への覚悟を決めなければならない。
犠牲の時代の中で、救える物を救い、ここを乗り切り、次の最盛期のための備えを蓄えてゆくことを考えてゆかねばならないのではないかと思うのです。