現代の〝 戦争 〟から学ぶ☆彡(*´ω`*)/☆彡☆彡 | source message

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人生は素晴らしい! 世界はこんなにも美しい!!

 

 

 

 

世界中どこにいったって、

 

 

 

 

すべての人たちが、

 

 

 

 

自分の価値をしっかりと、

 

 

 

 

心に抱く時が来る日まで、

 

 

 

 

私は祈ることをやめません。

 

 

 

 

 

世界中どこを見渡してみても、

 

 

 

 

すべての人たちが、

 

 

 

 

ときめきに瞳を輝かせて、

 

 

 

 

生きる時が来る日まで、

 

 

 

 

私は祈ることをやめません。

 

 

 

 

 

必ずすべての人たちの、

 

 

 

 

祈りが響く時が来る。

 

 

 

 

 

世界中のすべての祈りが、

 

 

 

 

響き合う時が来る。

 

 

 

 

 

その素晴らしい光景を、

 

 

 

 

確かにこの目で確認するまで、

 

 

 

 

 

私は祈ることをやめませんキラキラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

㊲広島から、平和の祈りを!

書籍『人生は素晴らしい、世界はこんなにも美しい』 ~ 天使と共に歩む道 ~

 

世界中の人々が平和を欲していながら、

 

未だ世界が平和になっていないのはなぜだろう?

 

 

 

それは、人々が、

 

本当に心から平和を望んでいないから、

 

あるいは、真の平和の姿を、知らないでいるから…

 

武力から平和が生まれるはずがなく、

 

対立や分離から、真の調和が生まれることはない。

 

 

 

日本は世界に向かって、

 

真の平和を叫び続ける天命を持った国だ!

 

平和の意志や祈りは、

 

日本が中心になって発信されるキラキラ

 

 

 

国と国とが、腹の内を見せずに牽制し合い、

 

人と人とが競い合っている今の世界のままでは、

 

いつになっても平和の姿は現れてはこない。

 

 

 

人々の心を「 平和の祈り 」に結集して、

 

敵を認めない、人類を一つの家族と観た、絶対調和の歩みが必要なのだ。

 

 

 

心は天と繋がり、人々が手を繋ぎ合って、

 

日本の天命が果たされていくことを、

 

その天命を担う「 日本人の一人 」として、

 

 

これからも祈り、平和のメッセージを発信し続けていきたいと想いますキラキラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先に時世ネタからーッキラキラべーっだ!キラキラ天使

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、マウイ島では、ラハイナを含めて、3カ所で山火事が発生していることが Google Map で示されています。

 

 

 

8月11日時点のハワイの火災の状況

 

 かなり大変な状況になっているのですが、「なぜハワイで、このような同時多発的な火災が?」とは思います。現在のハワイの気温は平年と同様であり、最高気温が 30℃前後の毎日であり、猛暑とは無縁です。

 

 

 

 

 先月、ギリシャで深刻な山火事が発生しましたが、ギリシャ政府が、これが自然発生したものではなく、「ほとんどが放火だった」と述べていたことなどを思い出します。

 

(記事) 現在のギリシャの山火事は「ほとんどが放火」と同国政府が発表
2023年7月31日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁ「 真相 」は、時が経てばはっきりとしてくるでしょうが、

 

 

 

世界では本物の自然災害も多いですが、

 

 

 

なんでもかんでも自然災害に見せかけて、

 

 

 

こんなことをしてくる馬鹿もまだいるということを。真顔...

 

 

 

 

 

災害に見舞われた方の、一日でも早く平穏な日々が戻ることを祈っていますキラキラ

 

 

 

 

 

スマートシティね…そーいや、日本でもそんなんあったな汗

 

 

 

 

 

 

亀ちゃんの動画30:00~が光ってましたキラキラべーっだ!キラキラ天使

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現代の軍事では戦闘が行われる戦場領域として、

 

・陸

・海

・空

・宇宙

・サイバー空間

 

の5つに分かれると定義されています。

 

 

 

ここへ新たな領域として加わったのが、

 

・認知(脳)領域

 

です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本では「 終戦記念日 」と言われていますが、

 

 

 

 

あれから日本人は何かを学んだのでしょうか?キラキラ

 

 

 

 

 

 

 

『 ある異常体験者の偏見 』(1973年)より

 

 

 

 原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーが、ある対象に向かうように誘導するのである。

 

 

 

 …そして、それが世の常識となる。するともうどうにもならない。動かすことも、ゆるがすこともできなくなる

 

 

 

 すると人びとはその不動の常識によりかかっていた方が楽だから、そこで思考を停止し、他に規定された判断をそのまま自分の判断とし、そしてその常識なるものに反対するものは自分の方から排除してしまう。ひどい時には村八分にしてしまう。従って事実を知っている者はみな沈黙する。

 

 

 

 いったんそうなると、もういいも悪いもない。その常識という虚構の上に順次に虚構が積み重ねられていき、しまいにはどんな誇大妄想狂も口にしないようなことを言っても、人びとは何の抵抗もなく受け入れてしまう。

 

 

 

 

(中略)

 

 

 

 

 ここまでくれば、もう先導者の任務は終わったわけで、そこでアントニーのように「……動き出したな、……あとはお前の気まかせだ」といって姿をかくす。というのは、扇動された者はあくまでも自分の意志で動いているつもりだから、「扇動されたな」という危惧を群衆が少しでも抱けば、その熱気が一気にさめてしまうので、扇動者は姿を見せていてはならないからである。

 

 

 

 扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし、「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。

 

 

 

 いつもながら同じことがくりかえされる……専門家のデータは無視され、何やらわけのわからぬ全く無根拠の一方的強弁にすべての人が唱和していくという……。

 

 

 

なぜそうなるのであろう。不思議である。(『私の中の日本軍』)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぶっちゃけ、あの頃のまんまやったわッキラキラ笑い泣きあせるあせる

 

 

 

 

 

 

 

 


 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 

 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。

 

 

 

(中略)

 

 


 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。


 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。


 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。


 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。


 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。


 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 

 


(中略)

 

 


 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 

 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 

 

 

(中略)

 

 

 

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
 

 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
 

 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 

 

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 

 

 

 

 

 

「映画春秋 創刊号」 1946(昭和21)年8月 初出

https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三次世界大戦は、国と国との争いでも政治と政治の争い、宗教と宗教の争いでもない、国を乗っ取った国際的な企業連合 対 民衆の間で行われる最終戦争なのかもしれません。民衆はまさか自分に銃砲が向けられていることなど知らされずに進む戦争ですので、その実態がつかめずにいます。個の自由な意識がないと戦えない戦争なのです。個の自由意志を貫いた人ならば、とりあえずワクチンを避けられたように、この戦いは今後もそうして進んでいくでしょう。

 

 

 

 メディアはもちろん嘘を流します。知られたらお仕舞いだからです。なのでもっともらしいものの中に真実はなく、むしろ嘘と思われがちなものの中にしか真実を探せないという今の状況を、個々がどう理解していくか、それが最終戦争のカギを握っています。

 

 

 

 

 

私は「 戦い 」とまでは感じてなくて、

 

 

 

あまりにもお粗末なメディアや政府の〝 嘘 〟と、

 

 

 

それに翻弄されていく民衆の姿を眺めて行くだけの、

 

 

 

私にとってはとても平和な〝 コロナ禍 〟でした汗(^^;

 

 

 

 

 

ただ、昨日もいつもの茶屋で団子を食って、キラキラ 平和な休日 キラキラ を味わっていたら、

 

 

 

これもいつものように、〝 救急車のサイレン 〟が遠くで聞こえて来て、

 

 

 

あ、今は戦時中なんだな。と汗(^^;

 

 

 

 

 

表を歩くと、未だにマスク民がいたり、〝 シェディング 〟の臭いは相変わらずだけれど、

 

 

 

一見、みんな平和そうに見えるキラキラ

 

 

 

 

 

ただこれは「 世の中の現象 」次第で崩れ去る、まやかしの平和であったことが分かり、

 

 

 

メディアの一声で、こんなにも冷静(霊性)でいられなくなるのは、

 

 

 

今まで キラキラ 本質 キラキラ を生きてこなかったからなのだろうなキラキラ

 

 

 

 

 

日頃から キラキラ 天 キラキラ と繋がって、祈りある生活をしていれば、

 

 

 

どんな世の中になろうと、腹を据えて生きられるのにキラキラ

 

 

 

 

 

それをしないで、「 今だけ・自分の周りだけ 」を大事と考えて、

 

 

 

 

生きて来てしまった結果なのだろうなキラキラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 滅びゆく村ではなくて、みんなで看取り合う場所。誰かが旅立った後に、あの人よく生きたねって言える場所。そのために、その人はどう生きたいのか、なにを大切にしたいのか。お互い語り合うこと。

 

 

 

農業も医療ともキーワードは依存と自立。

自立していけば余計なお金を使わずに済む。

 

 

 

みんな生きるために働いている

というけど

その時間を

生きるために必要なものをつくって

生きるために働く時間を、

どんなことして生きていきたい?

と問いかける。

 

 

 

そして、その時間を

好きなことしながら生きていけるようになる

 

 

 

そのための自給自足。

 

 

 

滝沢 泰平さんが立ち上げている

八ヶ岳のキブツというコミュニティは

チームで農業をしたり

みんなが出し合える時間を分け合いながら

農業をしたり衣食住を自給自足を意識している。

 

 

 

社会や地球の大きな変化を見据えつつ

わたしたちはどう生きるかを考え

実践しているのが本当にすごいなあと思います。

 

 

 

 

(中略)

 

 

 

 

「盲目であってはならない。この世界で起きていること、

足元で起きていること、しっかり見て、そしてどうに生きるか」と

素敵なシンガーソングタイターさんが教えてくれました。

 

 

 

本当にそうだと思います。

 

 

 

もっと自分のことを知ること

自分の身体がどうなっているのかを知ること

知る術を持つこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また素敵な方を見かけました!キラキラべーっだ!

 

 

 

 

 

 

 

日本の キラキラ 小さなコミュニティ キラキラ から、

 

 

 

 

 

新しい日本の未来が花開いていくのでしょうね!キラキラべーっだ!キラキラ天使

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ響きの言葉には、同じ意味があります。

 

「 令和 」、私はこの時代を、

 

霊が合一していく時代、

 

今までの物質主体の時代から、

 

いよいよ日本が世界に先駆けて、

 

人間の本質である、「 霊性 」が主体の世界を創っていく、

 

 

そんなニュアンスに感じられました!キラキラ

 

 

 

 

 

人間には、動物性と、「 神性(霊性) 」という、

 

二つの性質が内在されています。

 

 

 

動物性とは、肉体が持っている本能。

 

神性とは、霊体が持っている本能。

 

理性、自らを高めようとする意志、この世界を開拓し、

 

よりよい世界を創造しようとする天命、

 

それは人間にだけ持たされた、この地球上で生きる、他の動植物にはない、

 

天から与えられた「 特権 」でありますキラキラ

 

 

 

人間だけが、自らを高めることが出来る!

 

人間だけが、自らの選択によって、この世界を創造することが出来る!

 

猿やチンパンジーにはその特権は与えられていません。

 

その神性を、いかに多く現しているかによって、

 

その人の人格の高さが決まり、

 

その集合が、この世界の意識レベル、社会の姿が決まるのです。

 

 

 

人間だから、自らを守ろうとするのが当たり前だ、

 

それが本能だと人は言うが、

 

今まで、この世界を生きた聖人は偉人たちはみな、

 

「 不惜身命 」の覚悟で、自らの肉体の命を惜しまずに、

 

大志に生きたのではないですか?

 

 

 

自己保存の本能を、魂の意志が超越させてしまった!

 

動物性よりも、神性が勝った、良い手本となる生き方なのです、

 

今までの聖人や偉人たちの生き方は!

 

 

 

調和を重んじる、それは日本人なら誰もが、

 

もう既に当たり前に出来ていることです。

 

日本人が、世界の人々の霊性を目覚めさせる役割を担っている。

 

 

 

霊性進化!

 

それが私たちがこの世界に生まれて来た目的です。

 

人間から進化して、

 

神性を秘めた、「 人(日人・霊人) 」の姿を、

 

この世界に現わそうとしているのです。

 

 

 

もし彼らが何もしないで、滅びを選ぶなら、

 

私たちも共に滅びましょう。

 

しかし彼らが、自らの中にある希望を信じて、

 

それでもあと一歩、手が届かないのならば、その最後の犠牲を、

 

私たちが担いましょう!キラキラ

 

 

 

その「 一瞬 」のため、

 

この世界に生きる、すべての人たちの結集された願いを叶え、果たすために、

 

我々は今のこの時代を、

 

あなた達と共に生きている。

 

 

 

世界の人々が、真に自らの神性を悟り、

 

自らの意志で、自らの天命を成就していけるようになるまで、

 

私の祈りが止むことはありません!

 

 

 

世界の人々の上に、

 

どうか天の祝福が降り注がれんことをキラキラ

 

神様どうか、この世界の人々を苦しみ少なく、

 

一人一人が、その御手に抱かれて生きていることへの、

 

感謝の気持ちを想い出すまでの道のりを、

 

 

与え給えキラキラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界が平和でありますようにキラキラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キラキラ 星 キラキラ

 

 

 

キラキラ