ある時期からこころが不安定になり難儀していた。
原因についてはいくつも心当たりがあったからまだしもだったけれど
いよいよもって落ち着かない。親しい人に感情をぶつけてしまうこともあった。
クリニックに通う友人がいたので色々教えてもらい通うことにした。
そんな折、隣県の櫻の名所に出掛けたとき、櫻は満開で人も多く賑わっているのに
音が消え、自分が周囲から隔離される感覚を覚えた。
不思議な感覚で、少しまずいところに来ているのでは、と考え
懸案事項をはっきりさせてゆかなければならないんだろうな、と思った。
その前年の大晦日にメールを貰ってから連絡が取れない人がいた。
毎年送られてくる年賀状も来ない。メールには年賀状の準備がまだ、との記載。
今になって思えばよくそんな大胆なことが、と思うのだが
住所は知っているから先方御自宅近隣の寺院へ連絡をしてみると
『正月の4日に亡くなりましたよ』との返事。そこから記憶は飛んだ。
トリガーが引かれてしまったようで一気に不安定さを増し
仕事は病休となり、それらの生活の中である日、クリニックを受診すると
入院することになった。その日上司も呼ばれていて先に診察室に入ったのだが
出てきたときに真っ青になっていた気がする。午前中に受診して午後から入院。
その年は暑い夏だったが余り記憶がない。それが2010年の夏
退院後は担当職務から外され、上司直属で事務仕事をすることになった。
定時きっかり、同僚との接触も制限されるような感じ。
その日は受診のため15:00から有休を取ることになっていて
手を付けていたその日の仕事をまとめていた時に揺れ始めた。
そこから職場は怒涛の如く動き始めることになったが、一応安全が確認され
定時で職場を後にすると、クリニックから診察中止の連絡が来ていた。
実家は被災県にある。
幸いライフラインが切れていなかったから帰省することにした。
結果としては夜中に到着。買い込んだ品物を渡して夜通し対応を話し合い
夜が明け、薄明が始まったところで実家の安全確認を父親と行ってから戻った。
ちなみに一番役立ったものは車のシガーソケットから行う携帯充電器だったそう。
真っ先に買いこんだものだった。
それからが大変だった。
こちらはライフラインがあるので実家から知人の安否確認の依頼が舞い込む。
被災地の自治体や諸々のHP他を探しまわり、結果を実家に伝える毎日。
安否不明だった従姉妹一家は、住んでいる自治体HPに貼り付けられていた
ある避難場所の一枚のPDFに手書きで家族分の名前を探し出した時は安堵した。
だたこの作業は本当に疲弊した。
あれから13年。
数年後こちらの状態が整ったところで
連絡した寺院に再度連絡し中国地方まで足を運び知人を発見した方とも話をした。
十数年来の付き合いで初めて目にする知人の遺影に手を合わせた。
前年も含めたあの年のことは自分の中で不可分なものとなっていて
ほかにもっといろいろなことが起こったのけれど
これでようやく一つの区切りができたのではないかと思ったことを覚えている。