梅雨の合間の晴れ間にはせっせと火事にいそしむことにする。

部屋の家具も移動させたり窓を開けて風の通りをよくしたり。

日用品の買い出しも行ってしまおう。

 

たぶん今年の出版界の大きな話題の一つ

ガブリエル・ガルシア・マルケス『百年の孤独』(新潮文庫)を先日漸く購入。

発売日にはやはり並んでいなかったが、どうやら初版で買えた。

 

ただこの話題は文庫になったということで、作品自体は本屋に並んでいるし

読もうとすれば手にすることはさほどむつかしいことではない。

むしろ今回の出版をきっかけとした環境の変化を願う人が多いのではないか?

購入した書店では集英社文庫『族長の秋』も並んでいた。こういうこと。

ここ10年くらいで入手がむつかしかった状況が改善されてきているけれど

いかんせん発行部数が少ない。書店の棚は限られているし

海外文学は取り扱われなくなってきているからよい影響を与えてくれれば…

 

つぎに文庫化されるとしたら、と考えてサルトル『嘔吐』を挙げてみるけれど

これは『百年の孤独』以上の無理筋かも。

 

懸案事項に少し道筋がついて暫し安堵した。

月も替わるし何とか自分の発破をかけなければ、と

来週友人と大きな街へ出かける約束をした。

その期待感が生活に色をつけてくれる。

 

どうやら漸く日本列島は梅雨へと移行しはじめたようで

当所も晴天は途切れて雨が降る日が続きそうな気配を見せている。

少しく懸案事項があって気分が上げられず低空飛行を保たせている感じが続く。

 

インターネットで遊んでいたら

昨日、ジュンク堂池袋本店のオンラインイベントで

『『ストーナー』刊行10年 翻訳家・東江一紀没後10年』が

行われていたことを知った。もう10年になるんだ、と思い返す。

転勤したのだがいまいち新天地での感覚がつかめなくて難儀した年だった。

 

『ストーナー』はそんな中で手にした一冊で読み始めたら止められずに一気読み。

読み終えたのは午前4時だった。残りの頁数を気にしながら

頁を繰る手が止められない、けれど、読み飛ばさないようにと気をくばる

焦る気持ちとそれを抑えようとする意識が混じり合い

読み終えて暫し呆然として中空を仰いでしまう。

そんな読書経験はなかなかあるものでない。

 

東江一紀は一頁を残して亡くなった、と編集協力者があとがきに書いていた。

そんなことは知らず

『ストーナー』の前に読んだのはピーター・マシーセン『黄泉の河にて』だったので

作品社の本では東江訳が続くな、と手にしたとき思ったことを覚えている

東江が亡くなったのが10年前の昨日、6月21日だったが

『黄泉』の訳者あとがきの日付は同年5月。ピーター・マシーセンが亡くなったのは4月5日。

 

某所でこの年に読んだ本について書いた。思わず『ストーナー』を推奨した。

載せた文章を読み返すと、そこでは

この年、前年に亡くなった連城三紀彦の作品が三冊出た、とも書いている。

週刊現代のエッセイ『わが人生の10冊』で死期を悟ったと思われる文章を寄せ

読んで衝撃を受けた直後に訃報が…という流れだった思う。

このように、示し合わせたような死の符号が重なり

また『ストーナー』の内容もあって

読み終えた後に思わず自分も引っ張られるような感覚を味わった。

 

一昨年に出た向井和美『読書会という幸福』(岩波新書)は

筆者が東江の関わる読書会に参加しており、東江の翻訳姿勢も知ることができる。

何より読書会の持つ魅力を知ることができる良い本だった。

 

日曜日に半年ぶりに帰省。

当地の名産品を持参するという目的だったが

当日朝、販売所に駐車することもままならないほどの混雑に吃驚した。

もともと平日に休日がある仕事をしていたから

人込みを避けて買い物をする習慣が身についている。結局手ぶらで帰省。

 

『本の雑誌』で続く堀井憲一郎の連載「ホリイのゆるーく調査」

7月号では「ときどき降ってくる本の意味を考えてみる」と題打って

漫画文庫本に挟(ママ)まっていた昭和53年10月26日付けの

東京・中野の某書店のレシートについて書かれていた。

 

先日、隣市の某新古書店で購入した河上徹太郎『日本のアウトサイダー』(中公文庫)

新潮文庫、中公文庫でも持っていたけれど安価だったので手を伸ばす。

この本にも奥付のところにレシートが貼られていた。奇しくも同じ昭和53年。

12月8日付けだから280円のこの文庫新刊を新宿紀伊國屋書店で購入したようだ。

蔵書印の代わりに横書きの氏名スタンプ印と苗字丸印。

 

本を買うという行為が購入した場所と強く結びつくことがある。

レシートを挿み込んだり購入記録を記す習慣を持ってはいないから

所有しているほとんどの本の購入の記憶は定かではない

だからこそ購入の記憶を有する本は印象深い。それも所有の愉しみ。

 

今年の梅雨入りは遅れているとの報道があったみたいだが

この暑さは明らかに先月のそれとは異なる夏のもので

この天気は数日続くようなので、これ幸い、と

布団を干したり、厚手の物の洗濯をせっせとこなしてゆこうか。

 

昨年の9月から通っていた歯科治療が一応終了する。

これまでに通ったことがある歯科医院はいずれもこじんまりとした

治療台もふたつ程度の規模だったのだが、今回最初に通った歯科は6つ。

それはそれで構わないが、この医者レントゲンの結果や治療方針についても

本人がせずに助手にさせる。これって今のやり方なの?と訝しんだのが第一印象。

さて、下にある歯の治療に進んだとき麻酔が効かない。

先に別の歯を治療してから後日もう一度試みてもやっぱりだめ。

効きにくい体質のようだから隣市の全身麻酔を行う歯科医に紹介状を書くという。

これまで同じ歯を治療したときに麻酔が効かないことはなかったから

それを説明し、別の歯科医を受診すると断って縁を切った。

その後、近隣の別の歯科医を受診すると普通に治療を行うことができた。

これって麻酔が下手なだけでは? 

 

逆流性食道炎の治療については再度受診して整腸剤が処方された。

これもまた効果を実感できない。

困ったもの。世にセカンド・オピニオンという言葉も通用するようになって

医者を変えるということがさほど重荷にならなくなったのは幸い。

オーメンか!と思わず叫びたくなるような日。

もしくは6歳のこの日に藝事を始めていればよかったかな、とか。

 

学生時代和楽器のサークルに入っていたのだが

楽器そのものが大きくてね、卒業後は続ける意思を持てなかった。

でも静岡に住む先輩の家を訪ねたとき

アパートの壁に立てかけてある楽器を見つけた。

そうか、自分の考えは言い訳だったのだな、と思い知らされた。

彼女は今でも弾いているのだろうか、と考えたりもする。

 

先週後半から胃腸がすぐれず寝ていたり遠出をひかえたり。

2月の人間ドックで逆流性食道炎の要治療判定が出て治療を開始した。

摂食障害の気がある身としては逆流性食道炎は宿痾のようなもので

数年前の人間ドックでは『治ってますね』と言われたのだけどな。

どうも先週冷凍保存していた焼芋を食してからという気もする。

 

もっとも今の身分として気長に過ごしていられるのだけれど

そうなるとますます曜日の感覚がなくなって来る不思議な感覚。

 

久しぶりに車を走らせたときに流れたラジオでボブ・ディランを特集していた。

PPMが好きだったから、遡ってディランに行くのだけど声がどうにも苦手。

マリー・トラヴァースは亡くなっているから3人での歌はもう聞くことはできない。

何年前のことになるかPPMのベスト盤『CARRY IT ON』の日本語盤が出た。

CD4枚+DVD1枚にライナーノート。1万円くらいした記憶があるけれど購入。

これをときおり部屋で流している。

『DON'T THINK TWICE IT'S ALL RIGHT』が今はヘビーローテーション。

ポール・ストゥーキーの声が曲によく合う。

動画サイトでPPMとアンディ・ウイリアムズで歌うバージョンもあるけれどこれも好み。

天候もだけれど気温が安定しない日が続いている。

夏日になったかと思えば、最低気温が低く最高気温もそれにつられる。

かと思えば、翌日の最低気温は前日の最高気温に近い。寝具の選択に悩む。

 

環境が変わるたびに人間関係をリセットする人がいると聞く。

 

悩み事を聴くことを業務のようにこなしていた日々が以前にあって

そんな話の内容は人間関係、家族関係に関することが多い。

なかなか口に出せないこちらの返答(アドバイス)は

『(誰の人生でもない自分の人生なのだから)

  そんな関係自分から断ってしまえばいいのではないか』ということ。

じゃあ『貴方はどうなの?』と反問されることもあったのだけれど

実際に自分がそうしてきたから言えるのだ、とまでは返せなかった。

 

知人の近況を知る機会があって、まだ延々と続いているようだ。

この人には上記の話をしたことがあった。こちらの意図することを

わからないとも思えないのだが、どうあってもむつかしいことなのだろう。

それは、自分に振り向いてほしいという承認欲求であることも理解しているはず。

 

漫画『きのう何食べた?』に

弁護士が遺産相続の関わる手間についてのエピソードがあって

 

 どんなに少額でも 

 もめ方の面倒さは変わらないのが遺産相続です。

 金ではなく愛の問題だから

 

と書かれていたけれどそんなイメージ。

それは知人にとって愛と呼べるかはわかないけれど。

現在、置かれた状況にも尾を引いているからこれはなおさら。

 

いまイーヴリン・ウォー『ブライヅヘッド ふたたび』(ちくま文庫)を読んでいるが

こんな個所に目が留まる。

 

 「ここは金の甕を埋めるのに丁度いい所だ、」とセバスチアンが言った。

 「私は私が幸福な思いをした場所毎に何か貴重なものを埋めて、そして私が

  年を取って醜くてみじめな人間になってからそこへ戻って来て

  それを掘り出しては、昔を回顧したいんだ。」

 

 

結局連休も遠出することはなし。普通の日常。

友人の実家が営む蕎麦屋に昼食を食べに行ったことくらいかな。片道25km。

 

最初の勤務場所は閉鎖されてしばらく経つ。閉鎖時その地の温泉宿に集まったが

今夏また集まろうという計画がある、と隣県の元同僚から連絡が入った。

社内LANで情報が回っているとのことで退職者にも連絡願う、とのことらしい。

別の隣県に勤める幹事に参加希望の連絡願う、と返信した。

 

…と、ここまで書いて放置してしまったのが6日。

 

風薫るの5月の晴天にもどうにも気持ちが上がらない。

上げなければそれでもかまわないのでほおっておくのだが

このまま時間を流してゆくのも勿体ないかな。

 

そう思っていたところ、旅先から友人の便りが届いた。

うん、返信を認めることをきっかけにしよう、と考えて

街中に出掛ける途中、郵便局に葉書を投函した。

 

しばらく時間をかけてきたヴァージニア・ウルフ『波』読了。

これで『ダロウェイ夫人』『燈台へ』と併せて読み終えた。

いわゆる「意識の流れ」という手法は

個人的には、(素人の)読み手のコンディションで読むスピードが変わる。

間を置くことなく情報が注ぎ込まれて情報を捌ききれなくなるから。

 

『三月のライオン』という漫画があるじゃない?

たしか、主人公が先輩格の棋士を相手に将棋を指したとき

相手の思考が流れ込んできて慌てふためく場面があったかと思うけれどあんな感じ。

 

しんどかったけれど、読み終えることができたこともよい兆しかな。

GW連休の間の平日、天候も一休みという感じ。

しのぎやすいともいえる。

 

特に何もなかったのだけれど朝方に夢を見た。

 

夢は目覚めた瞬間から過去に向かって構築される…

てなことを竹本健治が小説で書いていたような…『匣の中の失楽』?

うろ覚えなのであてにならないか。

 

それはさておき、夢の中だけれど久しぶりに会えた人がいる。

会えなくなってからの先のことを少し話してくれていた。

もちろん接触はないのだから

自分の中の過去の記憶の何が「先のこと」を形づくったのだろうと

目醒めてから暫し考え込んでしまった。

それでも当時の声で、姿かたちは少し歳を重ねて感じで

何もわだかまりを感じさせず会話をすることができた。

 

いま何をしているのかもわからないのだが

元気でいてくれるといい。

週末であることはわかっていたのにGWが始まっていることには気づかない。

晴天かつ気温が上昇することを知ったので洗濯と布団干しに励む。

衣替えとは別に、この時期は田圃に水が入る辺りで体感気温は下がる。

だから少々の冬用は残しておくこととし

真冬に身にまとっていたものを片付けられたのは嬉しい。

先週は黄砂の影響があったので出来なかったから。

 

先日某所の読書会に参加した。対象作家は永井荷風。

小学生低学年の頃墨田区東向島に住んでいた。通ったのは第三寺島小学校。

遊んでいた場所の近くには、今は東向島と名が変わった当時の玉ノ井駅。

あのころ『濹東奇譚』なんて知らないもの。

墨田川高校、向島百花園、露伴児童遊園、隣の曳舟駅には鳩の街

当時の自分の小さな身体のスケールで眺めた街並みはとても広く感じられたが

今になって地図で確認すると、なんてそれらが密接していたと驚かされる。

 

東向島の次は八広に住んだけれど転校はしなかった。

近くに親戚の家もあった。映画『下町の太陽』のあの辺り。

今は八広駅になった当時の荒川駅近辺や、そうそう橘銀座商店街も遊び場所。

 

その後は葛飾区亀有に移ったが微妙に墨田区とは雰囲気が違う。

 

あのころ…色々と流転の時代だったけれど

少なくとも懐かしい、と振り返ることができる場所であったことには違いない。

 

 

時ならぬ暑さー暖かさ、ではなくーに少し戸惑うが、気温より何より晴天が嬉しい。

 

先日、昨年も書いた場所に櫻を観に遠出した。片道130km。

仕事をしていたころと同じだけれど、こんなとき平日に動くことができるのが利点。

秋の台風一過の朝のように

前日までの風雨が春の霞をふきとばした抜けるような青空。

いつものように櫻を見たときに引く千家元麿の詩を。

 

『桜』 千家元麿

 

桜の並木の上の空

冷たいくらゐ落ち着いた高貴な空

花はその下に簇り咲いてほんのり空気を染めてゐる

 

昨年は曇天だったから嬉しいなぁ。

この観櫻は、いうなれば儀式。なればあとは当地の櫻を観に歩く

 

さきいずるさくらさくらとさきつらなり 荻原井泉水

 

床に本の山が並んでいるため組立式のブックシェルフを3本購入。

全集の端本や床に並んでいた本の山を収納できてだいぶすっきりした。

これまで賃貸や社宅に住んでいたから、いや、状況は今も同じなのだが

家具類を増やしたくなかったので、買い控えていたのだがまあよいか。

 

物に対する執着はさほどない、というより持たないように努力してきた。

その努力はいつか平素のものとなり意識せずとも自然になった。

仕事を辞め当地に移動する際に、食器棚や本棚を含めて相当数を処分した。

それは何より、物に沁みついた過去(時間?)を捨ててしまいたかったからだ。

そして、生活に慣れるにつれ必要なものを少しずつ、本当に少しずつ増やしている。

そんな感じの自分の中の駆け引きを少し楽しんでいる。

 

ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』(新潮文庫)読了。『波』(角川文庫)を読み始める。