始まって以来の事ですが、題名が文字数制限を越えたみたいで、曲名を補足します苦笑。下が今回の題名になります。

The Style Council−Walls come tumbling down

 一時代を築いたザ・ジャムのリーダー、ポール・ウェラーが1982年に立ち上げたユニットがスタイル・カウンシルであり、その2ndアルバム『アワ・フェイバリット・ショップ』から1985年にシングルカットされたのがこの『(邦題)タンブリング・ダウン』です。
 アルバム『アワ~』は当時実際購入しましてよく聴いておりました。非常にポップで聴き易く、私的には結構な名盤だと思っています。『タンブリング・ダウン』も最初から最後までハイテンションに終始し、思わず弾けたくなる様な爽快さと疾走感を感じる曲です。
 ポール・ウェラーは、歌詞の中に結構反体制的なメッセージを折り込む事で有名なんですが、そうした視点ではどうも私なんかは上っ面な感じがしていけ好かない部分もあるんだけど、ソングライターとしてはやっぱり大した人だなと。もう日本風にいえば還暦を回ってるんですが今なお第一線で活躍中です。

 ところで話は変わるんですが、こうしたリズムや旋律が(つまり音楽が)人の感情に作用するのは何故なのか、という根本的な疑問が昔からありまして。
 ある曲を聴いていると悲しくなる。別のある曲を聴いていると楽しくなる。曲には短調や長調があって、短調の曲を聴けば哀愁を感じたり、長調の曲を聴けばウキウキしてきたりする。だとすれば、感情とは音階なのか。なんて、よく分からない理屈をこねくり回したりの今日この頃ですw

 1985年、私は21歳でした。最初に就職した大阪の会社で3年目を迎え、そろそろ辞めちゃおうかなと思い始めていた時期でした。既に世間はバブルの時分で、鬱屈として今の仕事を続けるより新たな事を始めるなんてのが許される時代だったのです。まあ、そんなに悪い会社じゃなかったんだけど。一応後悔はしてませんが(^.^)


(本文中の敬称は省略しております)

 敬称を省略すると冒頭で断っておきながら恐縮の至りなのですが、布施明というと私にとっては呼び捨てにするのも憚られる畏敬の対象です。
 昔さる評論家が彼について「なぜ布施明がオペラ歌手の道に進まなかったのか不思議でしょうがない。彼の力量なら日本を代表するテノール歌手になっていただろうに」と評していたのを思い出しますが、私も全く同感です。ポピュラーソングの男性歌手としては、私の知る限り日本が生んだ最高の歌い手の一人ではないかと。
 かつて人気を博した『8時だよ全員集合!』というお化け番組があったのは大概の方がご存知かと思います。あの番組は地方々々の総合体育館みたいな施設にセットを設えて生放送で配信されていたのですが、当時のマイクの性能がアレだったせいで、ちょくちょくハウリング等の音響トラブルが起きたりしていました。それでも毎回ゲスト歌手達が持ち歌を歌っていたのですが、歌い手さんの声量がデカ過ぎると稀に音が割れてしまう(ノイズみたいな感じになってしまう)事がありました。私の記憶ではこの音割れトラブルが起きたのは後にも先にも布施明と西城秀樹の二人だけです。ブラウン管にかぶり付きで見ていた私はただただ唖然とするばかりでした。

 『シクラメンのかほり』がリリースされたのは、調べてみたら1975年の事なんですね。もうじきあれから半世紀が経つ訳です。それまで目立った賞を受賞していなかった布施明は「無冠の帝王」と呼ばれたりしていたそうなのですが、この曲でレコ大を始めとする多くの賞を総なめにして、実力歌手として一気に飛躍しました。

 1975年といえば私は11歳。前年に父が亡くなり、既に父と離婚していた母に引き取られたものの、その母は別の男性と同棲中でお互いにギクシャクとした日々を過ごしていた頃になります。
 私を20歳で生んだ母は当時まだ31歳の筈で、そういう事情があっても別におかしくはないし、私としても自分のせいで母の幸せを壊したくはなかったので、その男性について悪感情を持ってはいなかったのですが、やはり互いにしっくり来なかったのでしょう。この翌年でしたか、彼は家を出ていきました。
 我が家はそれ以降長い事母子家庭になりました。まあ、それもこれも今では遠い過去の話ですがね(^.^)


(本文中の敬称を省略しております)

 かつて渋谷陽一は70年代にチャートを賑わせた幾つかのロックグループを、産業ロックであるとして批判していた訳ですが、Totoもその範疇に含まれていました。
 私としても彼の物言いに異を唱える気は毛頭ありません。しかしながら、多感な十代から二十代にかけて最も多く耳にもし、また親しんできた洋楽アーティストといえばイーグルスであり、ジャーニーであり、Totoであった訳で、それはどうにも否定のしようがありません。

 この曲はTotoのセカンドアルバム『Hydra(ハイドラ)』収録のナンバーでシングルにさえなっていないのですが、興味ある向きには是非とも一度聴いて頂きたい曲です。ハードロックとは言えないけれど、その彼岸に立っているとも表現すべき疾走感のある曲で、ツェッペリンを少しポップにするとこんな感じになりますかね。
 歌っているのは初代のメインボーカルであるボビー・キムボールです。Totoは何回もボーカリストを変えていますが、やはり私的には彼がベストですね。もう齢75になるそうですが、今も敬愛するボーカリストの一人です。

 『ハイドラ』がリリースされたのは1979年。私はその時15歳でして、当時実際にこのアルバムを購入し(もちろんレコードで)、それこそ針が擦り切れる程聴いたものです。中でもこのWhite Sisterは常に私の意識の片隅にありました。ドラムなど叩けないにも関わらず、この曲が流れてくる度に、ついつい爪先をタップしドラムワークをなぞってしまうのです苦笑。