あけましておめでとうございます。

 

 年明け早々、ミシェル・フーコー(1926-1984)の権力論について考察してみたいと思います。

 といいますのも、医療における権力の議論が、彼の登場以来、根本的に変化したと言われるからです。

 

 「権力」と聞くと、みなさんはどのようなイメージを持たれるでしょうか?

 市民デモを強制的に排除する国家警察や、独裁者のイメージでしょうか。あるいは、組織の中でワンマンにふるまうトップを思い浮かべるかもしれません。

 しかし、それらはフーコーの言うところの「規律権力」というのものにすぎません。

 

 フーコーは、権力には大きく二種類あるといいます。

 

(1) 規律権力

 一つは先ほどの「規律権力」。

 これは、死なせる権力(死なせるか、生きるがままにしておく)とも言われます。

 支配する側が支配される者を、規律=訓練する(discipline)力です。

 近代においては、軍隊や工場、教育制度=学校など、システムによる監視と処罰を通して、この権力が働きます。

 

 また、この規律権力は国家や支配者という上から働きかけるだけでなく、支配される者の中に内在化されるように働きます。

 これをフーコーは「パノプティコン」(一望監視装置)という例を使って説明します。

 パノプティコンとは、円形に配置された収容者の個室が看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えない一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができる監獄装置のことです。

 (これは、イギリスの哲学者ベンサムが考案し、後にアメリカやフランスで実現化されます。下の写真は、キューバに実在したパノプティコン型刑務所です)

 

 

 フーコーはパノプティコンを規律権力の比喩として使っていますが、この装置のポイントは、実際に監視塔に人がいなくても、収容者は監視塔に常に誰かいると思いこむというところです。つまり「監視」という装置によって、監視される者の中に第二の監視者(自己監視のシステム)が生まれるのです。

 

(2) 生-権力(bio-power)

 フーコーは近代以降、もう一つの権力「生-権力」(bio-power)が登場したと言います。これは、いわば生きさせる権力(生きさせ、死ぬがままにしておく)です。

 

 これは一体、どういうものでしょうか。

 

 フーコーいわく、これは規律権力のように調教する権力ではなく「管理」する権力なのです。つまり、我々人間の身体、集団としての身体を管理するように働くということです。

 この権力が登場した理由は、伝統的な主権による権力では、人口の爆発的増加と工業化が進む近代社会における身体にうまく機能させることができなかったためだと言います。近代にいたって、権力が「死を与える」権力から、「生きさせる」権力、どのように生きるかを規制し管理する権力となったということです。

 

 フーコーが例に挙げている、性(セクシュアリティー)について、二種類の権力がどのように働いているかを考えてみましょう。

 

 18世紀末から子供のマスターベーションの問題が大きく取り上げられるようになり、当時の社会において、性が身体的ふるまいとして調教的な管理を引き起こしました。これは、抑圧するように働く規律権力の例といえます。そして絶えざる監視(パノプティコン)のもとに、主体的な個人の形成にも寄与します。

 

 しかし性は生殖の機能も果たすため、集団や住民を構成する生殖行為=生物学的プロセスの管理の手段として、性の医学や衛生学が発展することになります。例えば、生殖行為の社会的管理(人口調整の手段として)や、性的「倒錯」者の排除(同性愛を矯正すべきものとみなす)などです。これは、どう生きるべきかを規制し管理する権力、生-権力の例といえるでしょう。

 

◼︎ 権力の構造

 いかがでしょうか。みなさんの権力に対するイメージが少し変わったのではないでしょうか。

 

 フーコーによって、権力とは、上から一方的に働くという単純なものではないこと、抑圧し処罰するだけの権力ではなく、生きさせるための権力(しかし巧妙に不可視化され管理システムに組み込まれている)があることなどが分かりました。

 

 フーコーは、権力の構造として以下のようなことを述べています(「性の歴史1」より)。

 

  • 権力は、無数の点から出発し、不規則な一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能する。

  • 権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出している諸関係の外にあるものではなく、そうした諸関係の中に作りだされているものである。

  • 権力は、下部からくる。支配する者、支配される者という古典的な二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や社会、サークルなどの小集団の中に生み出される力の関係が、全体を統括する権力関係の基盤となる。

  • 権力をふるうのは、特定の個人でもなく、特定の司令部でもない。あくまでも、諸関係の中で、その作用によって権力が行使されるに過ぎない。

 

 

 フーコーを読んだ後に感じるもどかしさというのは、「ではどうすればいいのか」という行動指針が浮かばないことです(笑)。

 しかし、私たちが普段感じている「権力」というものに、上記のような図式や背景を考え、分析していくと、大きく異なった地平が見えることでしょう。

 

 

参考

中山元:生の権力-1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義『社会を守れ』(最終回).  http://polylogos.org/soc27.html

上村芳郎:フーコー. 村のホームページ 〈哲学の畑〉.  http://www.ne.jp/asahi/village/good/foucault.htm

ミシェル・フーコー:フーコー・コレクション〈4〉権力・監禁. ちくま学芸文庫. 筑摩書房