子供の頃好きだった「源氏物語」を、おとなになって読み返す。



不思議なことに、あのころとは少しだけ違う読み方になっている。

子供の頃も、いまも変わらず、一番好きな巻のひとつが「若菜(上・下)」。

あの頃は、ひたすら「紫の上」の立場に共感しながら読んでいた。

「朱雀院」の愛娘「女三宮」が降嫁することで、

「紫の上」は「光源氏」の正妻(北の方)ではなくなり、

妻のひとりにすぎない立場におかれる。

「紫の上」は、「どうしようもないこと」として決して夫を責めず、

積極的に「女三宮」を迎える準備にいそしみ、

迎え入れた後も「女三宮」と親しく付き合うようにつとめる。

そして、正妻(北の方)でなくなったことについては、

まるで気にしていないかのように受け流し、気丈にふるまう。

しかし、気にしていないふりをしつつも、

「紫の上」の心のなかには、しだいに「絶望」「祈り」に似た思いが育っていく。

そして、「光源氏」と共に余生を過ごすよりも、「出家」して「極楽浄土」に生まれ変わることを願い望むようになっていく。

「光源氏」にとっては、

「紫の上」はかけがえのない妻で、見捨てられて先に「出家」されることを許すことなどできなかった。

「女三宮」降嫁後は、(皮肉にも)「紫の上」の「光源氏」を思う気持ちよりも、「光源氏」の「紫の上」を思う気持ちの方がより強くなっていく。

読者としては、そのふたりの「すれちがい」が「源氏物語」最大の「萌えツボ」だった。

今読み返しても、そのあたりはやはり「萌え」てしまう。

でも、それ以上にすごく感動したのは、

「女三宮」のキャラクターと、その人生についてだった。

「女三宮」というと、

なんとなく「愚かな女性」「愛する価値もない女」「お人形のように生気なく味気ない女」

という「一般的イメージ(ステレオタイプ)」がある。

子供の頃は、「紫の上」に一方的に肩入れして読んでいたせいか、

「女三宮」のイメージは、一般的なステレオタイプそのままで、

「柏木」とのあやまちは「小気味よい」とすら思っていた。

でもいま、あらためて「若菜(上・下)」を読んでみると、

「女三宮」の性格や人生に「共感」してしまい、泣けてきてしまった。

紫式部の書いた文章をよく読んでみると、

「女三宮」は決して魅力のない女性ではない。

年齢のわりには、いつまでも「子供子供」している無邪気な女性で、

小回りがきいたり、気が利いたりしてはおらず、むしろぼうっとしている。

そのため、老練の「光源氏」には物足りず、モテない。

しかし、とても可憐で無心な姿の、かわいい女性なのだ。

「女三宮」は「光源氏」に愛されていないことを気に病んだりはせず、

それなりにストレスもなく自由に生活している。

そこに、プライドが高く思いあがった洒落者の青年「柏木」が登場する。

「柏木」はちょっとセンスのよい垢抜けした男で、

プライドがありすぎるため、「適当なところで物事をあきらめる」ことができない。

普通なら、「女三宮」が「光源氏」に縁づけられたところで自分はあきらめて、

他のもっといいくらいの縁を探し、それなりに満足するのだが、

「柏木」は、いつまでも「女三宮」に想いを残している。

「女三宮」の姉の淑女「女二宮」(「落葉の宮」)を娶ってさえ、

満足できずに、うわべばかり取り繕った扱いをしている。

そんな「柏木」が、「蹴鞠」のシーンで偶然、「女三宮」の姿を見てしまう。

このシーンの「女三宮」は、本当に可愛らしい美貌の女性として描かれている。

もちろん、姿を見られるような場所にいてはマズいので、

そのあたりが「軽薄」「思慮の足りない浅はかな女性」として侮蔑されることも多い。

でも「女三宮」が美しくなければ、「柏木」が萌えたハズはない。

そして「柏木」は、「光源氏に愛されず十分に大切にされていないのはかわいそうだ」

という勝手な「理屈」をつけて、必死に手立てを講じ、

「女三宮」と無理に「密通」してしまう。

「女三宮」にとっては、

「光源氏」に愛されていないとはいっても、あまりストレスもなく過ごしていたのに、

「柏木」の行為は、とても迷惑だった。

でも、そんな「女三宮」の姿は、

「柏木」からみても、密通を知ってしまい嫌味を言う立場の「光源氏」からみても、

「おいたわしい」「おかわいそうな」と受け取られる「可憐」な姿なのだ。

そして「女三宮」は不義の子「薫」を産み落とし、かわいがってくれる父の朱雀院に頼んで、毅然として「出家」する。

「薫」は、「光源氏」亡き後の「宇治十帖」の主人公となる、重要な人物だ。

「光源氏」の血筋でもない「薫」を、次の世代の主人公とするくらい、

「薫」は美しく悩みを抱えた魅惑的な若者として描かれる。

そんな重要な「薫」を産んだくらいだから、

「女三宮」がただの「白痴」「人形」であるハズはない。

「女三宮」に共感して読んでいくと、

「軽蔑」されるようなキャラクターとして常に受け取られてきた彼女の

「ステレオタイプ」とは違う姿が見えてきて、すごく感動して泣けてしまった。

私も、年齢より幼く、子供子供していて、「ぼうっとしていて物足りない」と人から思われるようなタイプだった。

だからこそ、いま読むと、「女三宮」に共感してしまうのかもしれない。

「紫の上」も「女三宮」もそうだけれど、少し年齢が進んでも

「お人形遊び(雛あそび)」が好きな子供だったところなんかも、なんだか共感してしまう。

私のキャラは、どちらかといえば「女三宮」タイプだから、

そのことを「自覚」して振る舞った方が、「対人」的にはいい。

「夕霧」のように、真面目すぎて四角定規に融通の利かない、

面白くない性格を目指したりしては、人生に「失敗」しかねない。

そう思って読むと、「女三宮」の物語が、いっそう「特別な想い」をもって感じられる。

何度ハマってもハマりきれない、1000年昔の物語。

「紫式部」ってすごい。

■「大和絵土佐派」の絵師「土佐光吉」の作品など、安土桃山以降の源氏絵の世界から!


※蹴鞠(「若菜・上」巻)


※蹴鞠(「若菜・上」巻)


※衣配り(きぬくばり)(「玉鬘」巻)


※衣配り(きぬくばり)(「玉鬘」巻)


※野分(台風)後の「秋好中宮」里邸(「野分」巻)


※野分(台風)後の「秋好中宮」里邸(「野分」巻)


※「桐壺帝」は若宮(「光源氏」)の将来を案じ、高麗の相人に運勢を見させる(「桐壺」巻)


※「桐壺帝」は若宮(「光源氏」)の将来を案じ、高麗の相人に運勢を見させる(「桐壺」巻)


※「桐壺帝」の行幸の楽舞で、「頭中将」と共に「青海波」を舞う「光源氏」(「紅葉賀」巻)


※「青海波」を舞う「光源氏」と「頭中将」(「紅葉賀」巻)


※「青海波」を舞う「光源氏」と「頭中将」(「紅葉賀」巻)


※幼い「紫の上」を垣間見する「光源氏」(「若紫」巻)


※幼い「紫の上」を垣間見する「光源氏」(「若紫」巻)


※都落ちし須磨にわび住まいをする「光源氏」が、「惟光」ら従者と歌を詠みかわす(「須磨」巻)


※都落ちし須磨にわび住まいをする「光源氏」が、「惟光」ら従者と歌を詠みかわす(「須磨」巻)


※宇治八の宮を訪れた薫が、箏、琵琶を奏でる大姫君と中の君を垣間見る。撥で月を招く中の君(「橋姫」巻)


※宇治八の宮を訪れた薫が、箏、琵琶を奏でる大姫君と中の君を垣間見る(「橋姫」巻)


※車争い(「葵」巻)


※車争い(「葵」巻)


※「光源氏」の養女「梅壺女御(秋好中宮)」と頭中将の娘「弘徽殿女御」が物語絵の優劣を競う(「絵合」巻)


※「光源氏」の養女「梅壺女御(秋好中宮)」と頭中将の娘「弘徽殿女御」が物語絵の優劣を競う(「絵合」巻)


※娘の斎宮(後の「秋好中宮」)とともに伊勢へ下向する「六条御息所」を嵯峨の野宮に訪れ名残りを惜しむ「光源氏」(「賢木」巻)


※「秋好中宮」の六条院の里邸「秋の御殿」より「紫の上」の「春の御殿」へ、童女に持たせた箱のふたに花もみじを取り交ぜて歌が贈られる「心から春待つ園はわがやどのもみぢを風のつてにだに見よ」(「乙女」巻)


※「空蝉」と「軒端荻」の囲碁対局(「空蝉」巻)


※「空蝉」の寝所に忍ぶ「光源氏」。気配を察した「空蝉」は、傍らに寝入る「軒端荻」を残して部屋を逃れ出る(「空蝉」)


※常陸宮の姫君「末摘花」に想いを寄せる「光源氏」。姫君の気配を伺おうと常陸宮邸の透垣に近づく「光源氏」は、同じく姫に想いをかける「頭中将」と出くわす(「末摘花」巻)


※「光源氏」が都落ちした後、貧しさに耐えひたすら帰りを待ち続ける「末摘花」。都に返り咲いた後、「末摘花」をすっかり忘れていた「光源氏」は、荒れ果てた館を偶然通りがかり、ようやくその存在を思い出す(「蓬生」巻)


※「朧月夜」との出会い(「花宴」巻)


※夕顔の花を所望する「光源氏」のため、花を折り取ろうとする従者に、「夕顔」の侍女から花を載せるための扇が渡される。扇に書きつけられた歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」(「夕顔」巻)


※「花散里」を訪れる道すがら、「光源氏」の一度逢ったことのある女の住まう風情ありげな館から、にぎやかな琴の音が聞こえる(「花散里」)


※物思いにふける「光源氏」(「若紫」巻)


※雛遊びに夢中の幼い「紫の上」を訪れる「光源氏」。乳母の「少納言」が、「もう奥様なのですから少しは大人らしくなさいませ」と「紫の上」をたしなめる(「紅葉賀」巻)


※「紫の上」を賀茂の祭につれだそうと「光源氏」が手ずからその髪をそぎ、「千尋」と祝いごとをいう(「葵」巻)


※六条院の春の町「船楽の遊び」(「胡蝶」巻)


※六条院・女楽(「若菜・下」巻)


※住吉に詣でて偶然「光源氏」一行の華麗な行列に遭遇し、身分の差を実感する「明石の上」(「澪標」巻)


※「紫の上」の養女として手放す娘「明石の姫君」を腕に抱く「明石の上」(「薄雲」巻)


※「明石の姫君」の御殿。生母「明石の上」から果物を入れた鬚籠や新年の食物を入れた破子などが贈られる(「初音」巻)


※六条院の新春、「明石の上」の御殿を訪れる「光源氏」(「初音」)


※「蛍兵部卿宮」に見せようと蛍の光で「玉鬘」の姿を照らしだす「光源氏」(「蛍」巻)


※「大宮」の喪に服す「玉鬘」を「夕霧」が訪れ、帝の勅旨を伝えるのにかこつけて想いを伝えようとする(「藤袴」巻)


※「略奪婚」のような形で「髭黒大将」と強引に結婚するはめになった「玉鬘」。「髭黒大将」の長年冷え切った仲の妻は、いそいそと「玉鬘」のもとに出かけようとする夫の後ろから、香炉を火と灰もろともに浴びせかける(「藤袴」巻)


※源氏の四十歳の賀宴で祝いの席につく「光源氏」「玉鬘」「玉鬘の産んだ息子たち」(「若菜上」巻)


※「玉鬘」と故「髭黒大将」の長女「大姫君」と次女「中姫君」が、桜を賭けて囲碁を打つところを、「大姫君」に想いを寄せる「蔵人少将」が垣間見る


※出家した「女三宮」と不義の子「薫」を訪れる「光源氏」。幼い「匂宮」が女房に抱かれやってくる(「幻」巻)


※「夕霧」の夢枕に「柏木」が現われ、笛を自分の子孫(「薫」)に伝えてほしいと歌を詠みかける(「横笛」)


※亡き友人「柏木」の妻「落葉の宮」に惹かれていく「夕霧」。「落葉の宮」の母からの手紙を読んでいると、妻「雲居の雁」が後ろから手紙を奪い取る(「夕霧」巻)


※「朝顔の姫君」への想いを断ち切れない「光源氏」。嫉妬する「紫の上」を慰めるため、雪月夜の二条院で雪転しをさせる(「朝顔」巻)


※「朝顔の姫君」から贈られた薫香を受け取る光源氏(「梅枝」巻)


※夕霧が六条院で催した「賭弓の還饗(のりゆみのかえりあるじ)」に匂宮と薫が招かれる(「匂宮」巻)

■好きな和歌から!

「世の中は 夢かうつつか うつつとも
 夢とも知らず ありてなければ」
 (@よみ人知らず(「古今和歌集」))

「見ずもあらず  見もせぬ人の  恋しくば
 あやなく今日や  眺めくらさん」
(@「柏木」(「伊勢物語」より引き歌)「若菜上」巻)

「片糸を かなたこなたに よりかけて
 あはずば何を 玉の緒にせん」
(@「薫」(「古今集」より引き歌)「総角」巻)

「あふことは 遠山鳥の 目もあはず
 あはずてこよひ 明かしつるかな」
(@「紫式部」(「花鳥餘情所引」より引き歌)「総角」巻)

「深き夜の 哀ればかりは ききわけど
 こと(琴)よりほかに えやはいひける」
(@「落葉の宮」「横笛」巻)

「わが恋は むなしき空に 満ちぬらし
 思ひやれども 行くかたもなし」
(@「薫」「東屋」巻/「匂宮」「浮舟」巻(「古今集」より引き歌))

「白雲の 晴れぬ雲井に まじりなば
 いづれかそれと 君は尋ねん」
(@「浮舟」(「花鳥餘情所引」より引き歌)「浮舟」巻)

「へだてなく 蓮の宿を ちぎりても
 君がこころや すまじ(住まじ)とすらん」
(@「女三宮」「鈴虫」巻)

「おほかたの 我が身一つの うきからに
 なべての世をも 恨みつる哉」
(@「中の君」「寄生」巻/「弁のお許」「早蕨」巻/「浮舟の母」「東屋」巻(「拾遺集」より引き歌))

「わが庵は 都のたつみ 然(しか)ぞすむ
 世をうぢやまと 人はいふなり」
(@「紫式部」(「古今集」より引き歌)「椎本」巻) 

「世の人は 我を何とも 言わば言え
 我なす事は 我のみぞ知る」
(@「坂本龍馬」)

「ある時は ありのすさびに 憎かりき
 なくてぞ人の 恋しかりける」
(@「紫式部」(「源氏物語奥入所引」より引き歌)「桐壺」巻)

「たらちめは かかれとてしも うば玉の
 わが黒髪を 撫でずやありけん」
(@「浮舟」(「後撰集」より引き歌)「手習」巻)

「ここにしも なに匂ふらん 女郎花
 人のものいひ さがにくき世に」
(@「尼君の昔の婿の中将」(「拾遺集」より引き歌)「手習」巻)

■自作の和歌(´-`;)

「誰が夢ぞ 誘ふ通ひ路 吹き閉じよ
 我が身ひとつは 風のまにまに」
(@「somethingspecial4」)

「逢魔が原 夢の通ひ路 閉じやせむ
 恋しき人の 風の移り香」
(@「somethingspecial4」)

「夢が関 恋しき人も 来し路を
 閉じやせむとて けふも過ぎぬる」
(@「somethingspecial4」)

「風そよぐ 秋の夜長の 望月の
 淡き月影 ましませ吾が君」 
(@「somethingspecial4」)

■好きなことわざから!

「船頭多くして船山に上る」

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」

「沈黙は金、雄弁は銀」

「昔取った杵柄」

「三つ子の魂百まで」

「好きこそものの上手なれ」

「人間万事塞翁が馬」

「柳に雪折れなし」

「柔よく剛を制す」

「禍を転じて福と為す」

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」

「癖ある馬に能あり」

「玉磨かざれば光なし」

「四十にして惑わず」

「いずれ菖蒲か杜若」

「百聞は一見にしかず」

「仰いで天に愧じず」

「断じて行えば鬼神も之を避く」

「精神一到何事か成らざらん」

「読書百遍義自ずから見る」


※六条院・女楽(「若菜・下」巻)

「絶対忘れられない本」「孤島に持っていきたい本」てなんだろう。

たとえば「ハリー・ポッター」シリーズや「不思議の国のアリス」かもしれない。

そうでなければ、おそらくこの本だ。



谷崎潤一郎訳「源氏物語」。

小学生の頃、一番ハマった本だった。

「紫の上」と「源氏」の「三日夜の餅」絡みのシーンの意味がわからなくて、祖母を困らせたのがなつかしい。

大人になると、「源氏物語」は「現代の時勢に合わない」と思うようになり、思い出さないようになった。

「現代社会」と「平安時代の貴族社会」の価値観が違いすぎて、「あの世界」にハマれなくなってしまったのだ。

そのまま歳月が過ぎ、「いいおとな」といってよい年齢になった。

そしていま、再び、「あの世界」にハマっている。

「源氏物語」では、平安時代の貴族の生き方や価値観が、それこそ「現代の純文学」なみのリアルさで描かれている。

じっくり読めば、「あの世界」のなかで生きているように「錯覚」してしまうくらい、紫式部の筆力は克明だ。

「現代社会」のなかで自分が生き抜くための、「力」や「気力」が不足しているときに「源氏物語」にハマるのだったら、それはある種の「現実逃避」的行為にもなりうる。

やはり、あまりにも現代の「価値観」や「生き方」と違うすぎる「雅な世界」がそこにある。

そこに飛び込んでしまったとしても、何も吸い上げずに「現代社会」に戻ってくることもありうる。

でも、たとえば「自己研究」を進め、「現代社会」のなかで「自分らしさ」を表現する手段(「踊り」に基づく「対人能力」の幅など)をある程度「身に付けた」うえで、また「あの世界」に触れてみるのであればどうだろう。

「あの世界」では、「直接的にものをいう」「感情的になって思いのたけを述べまくる」「ずけずけぎすぎすと振る舞う」「すぐに考えを”理論”的にまとめてしまい、その”理論”をいろんな人に理解してもらいたがる」「強く自己主張してばかりいる」といったことは、「下賤のもの」の態度として軽蔑されるところだ。

平安時代の貴族たちは、常に「あいまいに」「あるかなきかくらいに」「はかなく」「遠まわしに」「配慮や気配りをしながら」「優しく心にくく」「ものに紛らわせて」「和歌や中国の故事文献などを引用しつつ」自分の気持ちを伝える。

そうした「奥ゆかしさ」を持ち合わせていればいるほど、「高雅な」「教養ある」人物とみなされ、敬意や憧れを集めるのだ。

現代は、「ジェンダー」の揺らぎがより肯定されるようになってきた、「ユニセックス」の時代。

男性であれ女性であれ、「”自分”を主張してよい」「ハッキリとものを言ってよい」社会になっている。

「タカラジェンヌの男役」のように、「男性」ばりのカッコよさでもってハキハキキッパリと行動し、同性からも共感を集め、成功できる女性もいるだろう。

むかしは、そんなカッコいい現代的な「女性」像に憧れ、自分も胸を張って闊歩したいと思ったこともある。

しかし、「自己研究」を積んだところ、自分の「人柄」や「キャラ」は、「タカラジェンヌの男役」とは少し違うようなのだった。

むしろ自分は、古典的な「女らしさ」を身に付けて、かわいらしく愛嬌をもって相手を立てるやり方を学んだほうが、より多くの人に喜ばれる存在になれる、そんな「キャラ」なのだ。

自分の「キャラ」に合わないものを目指したりすると、必ず「失敗」する。

自分に「合った」ものを目指し努力したときこそ、よりよい「自分」になる道が開ける。

そして、そんな考えをもったところで、もう一度「源氏物語」にハマってみる。

すると、当時の高雅な貴族の女性たちの「価値観」が、すごく「品があり」「美しい」生き方に思えてくる。

「ハッキリものを言わない」「可憐で品がある」「四季折々の自然の移り変わりや美しさに敏感な」女性たち。

そんな女性たちと同じような「価値観」を身に付けたほうが、自分の「キャラ」に合った、より「美しい」生き方ができるのかもしれない。

「容姿の美しさや、立ち居振舞いの優雅さ・可憐さには、常に気を付ける」

「広く和歌を知っていることと、さっとすぐに和歌を詠めること、また筆跡が美しいことも大事」

「季節の移り変わりや自然の美には敏感で、深く感じる心がある」

「箏の琴や和琴、琵琶などの楽器を、折に触れて美しく演奏できる」

「美しい香りを、自分のために調合できる」

「センスある贈り物や行事の引き出物などの手配、また染物や衣装の手配などもできるとなおよい」

だけど、

「ぼやっとしか、ものは考えないようにする」

「考えごとを、論理的にまとめようとしたりはしない」

「ぼやっとしか、自分の考えを人に伝えようとはしない」

こうした生き方のできる女性の方が、「源氏物語」の時代には「人望」があり、

女房たちや公達たちからも「奥ゆかしい」と評価されて、憧憬を集める存在だった。

女性が闊歩するようになってきたと言われる現代でも、

「自分の考えを、妙に論理的にまとめたくなる困ったクセがある」

「自分の考えが自分なりの理論としてまとまると、それを人にも伝えたり理解してもらいたくなる」

「自己主張が強くなり、こだわりの強い厭な女だと思われる」

そんな生き方を押し通したとして、うまくいく人もいるかもしれないが、

「自分のキャラ」に合わないと、やがて行き詰るだろう。

そして「私個人のキャラ」については、むしろ、平安時代によしとされたような生き方の方が、断然合っている。

「源氏物語」を読めば読むほど、そうした「奥ゆかしい」「ぼやっとした」生き方のできる女性こそ、実は「品がある」「美しい」「心惹かれる」女性だという「事実」を「体得」できるようになる。

自分のキャラに合った「品のある」「懐かしくて愛らしい」「賢明な」処世術を、現代に向けて「体得」する。

そんな「目的意識」をもって、また「源氏物語」にハマってみる。

「源氏物語」は、「何度でもハマれる」「永久不滅の」古典。

その「価値観」「美意識」には、現代社会を「賢く」生き抜くための、「品ある」生き方へのヒントがきっとある。

そして、子供の頃の自分の「根っこ」がそこにある。

子供の頃の頭を「活性化」させてくれたものが、「源氏物語」をはじめとする「読書」の趣味だった。

大人になって、ろくにいい本を読まなくなると、頭のなかの大部分が「眠り」についてしまい、全般的にあらゆる「能力」が衰えていく。

自分に合った「読書」、とくに「源氏物語」の世界に再び「ハマる」ことで、「ワタシ史上最高パフォーマンス」が取り戻せるかもしれない。

「踊り」などの大人になってからの「努力」や「趣味」と、子供の頃の自分を「活性化」させてくれた「源氏物語」の「価値観」を合わせて。

もう一度「自分らしく」、そして「よりよい自分へ」。

紫式部に誘われて、「あの世界」にまたハマってみよう。

■「大和絵土佐派」の絵師「土佐光吉」の作品など、安土桃山以降の源氏絵の世界から!


※蹴鞠(「若菜・上」巻)


※蹴鞠(「若菜・上」巻)


※衣配り(きぬくばり)(「玉鬘」巻)


※衣配り(きぬくばり)(「玉鬘」巻)


※野分(台風)後の「秋好中宮」里邸(「野分」巻)


※野分(台風)後の「秋好中宮」里邸(「野分」巻)


※「桐壺帝」は若宮(「光源氏」)の将来を案じ、高麗の相人に運勢を見させる(「桐壺」巻)


※「桐壺帝」は若宮(「光源氏」)の将来を案じ、高麗の相人に運勢を見させる(「桐壺」巻)


※「桐壺帝」の行幸の楽舞で、「頭中将」と共に「青海波」を舞う「光源氏」(「紅葉賀」巻)


※「青海波」を舞う「光源氏」と「頭中将」(「紅葉賀」巻)


※「青海波」を舞う「光源氏」と「頭中将」(「紅葉賀」巻)


※幼い「紫の上」を垣間見する「光源氏」(「若紫」巻)


※幼い「紫の上」を垣間見する「光源氏」(「若紫」巻)


※都落ちし須磨にわび住まいをする「光源氏」が、「惟光」ら従者と歌を詠みかわす(「須磨」巻)


※都落ちし須磨にわび住まいをする「光源氏」が、「惟光」ら従者と歌を詠みかわす(「須磨」巻)


※宇治八の宮を訪れた薫が、箏、琵琶を奏でる大姫君と中の君を垣間見る。撥で月を招く中の君(「橋姫」巻)


※宇治八の宮を訪れた薫が、箏、琵琶を奏でる大姫君と中の君を垣間見る(「橋姫」巻)


※車争い(「葵」巻)


※車争い(「葵」巻)


※「光源氏」の養女「梅壺女御(秋好中宮)」と頭中将の娘「弘徽殿女御」が物語絵の優劣を競う(「絵合」巻)


※「光源氏」の養女「梅壺女御(秋好中宮)」と頭中将の娘「弘徽殿女御」が物語絵の優劣を競う(「絵合」巻)


※娘の斎宮(後の「秋好中宮」)とともに伊勢へ下向する「六条御息所」を嵯峨の野宮に訪れ名残りを惜しむ「光源氏」(「賢木」巻)


※「秋好中宮」の六条院の里邸「秋の御殿」より「紫の上」の「春の御殿」へ、童女に持たせた箱のふたに花もみじを取り交ぜて歌が贈られる「心から春待つ園はわがやどのもみぢを風のつてにだに見よ」(「乙女」巻)


※「空蝉」と「軒端荻」の囲碁対局(「空蝉」巻)


※「空蝉」の寝所に忍ぶ「光源氏」。気配を察した「空蝉」は、傍らに寝入る「軒端荻」を残して部屋を逃れ出る(「空蝉」)


※常陸宮の姫君「末摘花」に想いを寄せる「光源氏」。姫君の気配を伺おうと常陸宮邸の透垣に近づく「光源氏」は、同じく姫に想いをかける「頭中将」と出くわす(「末摘花」巻)


※「光源氏」が都落ちした後、貧しさに耐えひたすら帰りを待ち続ける「末摘花」。都に返り咲いた後、「末摘花」をすっかり忘れていた「光源氏」は、荒れ果てた館を偶然通りがかり、ようやくその存在を思い出す(「蓬生」巻)


※「朧月夜」との出会い(「花宴」巻)


※夕顔の花を所望する「光源氏」のため、花を折り取ろうとする従者に、「夕顔」の侍女から花を載せるための扇が渡される。扇に書きつけられた歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」(「夕顔」巻)


※「花散里」を訪れる道すがら、「光源氏」の一度逢ったことのある女の住まう風情ありげな館から、にぎやかな琴の音が聞こえる(「花散里」)


※物思いにふける「光源氏」(「若紫」巻)


※雛遊びに夢中の幼い「紫の上」を訪れる「光源氏」。乳母の「少納言」が、「もう奥様なのですから少しは大人らしくなさいませ」と「紫の上」をたしなめる(「紅葉賀」巻)


※「紫の上」を賀茂の祭につれだそうと「光源氏」が手ずからその髪をそぎ、「千尋」と祝いごとをいう(「葵」巻)


※六条院の春の町「船楽の遊び」(「胡蝶」巻)


※住吉に詣でて偶然「光源氏」一行の華麗な行列に遭遇し、身分の差を実感する「明石の上」(「澪標」巻)


※「紫の上」の養女として手放す娘「明石の姫君」を腕に抱く「明石の上」(「薄雲」巻)


※「明石の姫君」の御殿。生母「明石の上」から果物を入れた鬚籠や新年の食物を入れた破子などが贈られる(「初音」巻)


※六条院の新春、「明石の上」の御殿を訪れる「光源氏」(「初音」)


※「蛍兵部卿宮」に見せようと蛍の光で「玉鬘」の姿を照らしだす「光源氏」(「蛍」巻)


※「大宮」の喪に服す「玉鬘」を「夕霧」が訪れ、帝の勅旨を伝えるのにかこつけて想いを伝えようとする(「藤袴」巻)


※「略奪婚」のような形で「髭黒大将」と強引に結婚するはめになった「玉鬘」。「髭黒大将」の長年冷え切った仲の妻は、いそいそと「玉鬘」のもとに出かけようとする夫の後ろから、香炉を火と灰もろともに浴びせかける(「藤袴」巻)


※源氏の四十歳の賀宴で祝いの席につく「光源氏」「玉鬘」「玉鬘の産んだ息子たち」(「若菜上」巻)


※「玉鬘」と故「髭黒大将」の長女「大姫君」と次女「中姫君」が、桜を賭けて囲碁を打つところを、「大姫君」に想いを寄せる「蔵人少将」が垣間見る


※出家した「女三宮」と不義の子「薫」を訪れる「光源氏」。幼い「匂宮」が女房に抱かれやってくる(「幻」巻)


※「夕霧」の夢枕に「柏木」が現われ、笛を自分の子孫(「薫」)に伝えてほしいと歌を詠みかける(「横笛」)


※亡き友人「柏木」の妻「落葉の宮」に惹かれていく「夕霧」。「落葉の宮」の母からの手紙を読んでいると、妻「雲居の雁」が後ろから手紙を奪い取る(「夕霧」巻)


※「朝顔の姫君」への想いを断ち切れない「光源氏」。嫉妬する「紫の上」を慰めるため、雪月夜の二条院で雪転しをさせる(「朝顔」巻)


※「朝顔の姫君」から贈られた薫香を受け取る光源氏(「梅枝」巻)


※夕霧が六条院で催した「賭弓の還饗(のりゆみのかえりあるじ)」に匂宮と薫が招かれる(「匂宮」巻)

■好きな和歌から!

「世の中は 夢かうつつか うつつとも
 夢とも知らず ありてなければ」
 (@よみ人知らず(「古今和歌集」))

「見ずもあらず  見もせぬ人の  恋しくば
 あやなく今日や  眺めくらさん」
(@「柏木」(「伊勢物語」より引き歌)「若菜上」巻)

「片糸を かなたこなたに よりかけて
 あはずば何を 玉の緒にせん」
(@「薫」(「古今集」より引き歌)「総角」巻)

「あふことは 遠山鳥の 目もあはず
 あはずてこよひ 明かしつるかな」
(@「紫式部」(「花鳥餘情所引」より引き歌)「総角」巻)

「深き夜の 哀ればかりは ききわけど
 こと(琴)よりほかに えやはいひける」
(@「落葉の宮」「横笛」巻)

「わが恋は むなしき空に 満ちぬらし
 思ひやれども 行くかたもなし」
(@「薫」「東屋」巻/「匂宮」「浮舟」巻(「古今集」より引き歌))

「白雲の 晴れぬ雲井に まじりなば
 いづれかそれと 君は尋ねん」
(@「浮舟」(「花鳥餘情所引」より引き歌)「浮舟」巻)

「へだてなく 蓮の宿を ちぎりても
 君がこころや すまじ(住まじ)とすらん」
(@「女三宮」「鈴虫」巻)

「おほかたの 我が身一つの うきからに
 なべての世をも 恨みつる哉」
(@「中の君」「寄生」巻/「弁のお許」「早蕨」巻/「浮舟の母」「東屋」巻(「拾遺集」より引き歌))

「わが庵は 都のたつみ 然(しか)ぞすむ
 世をうぢやまと 人はいふなり」
(@「紫式部」(「古今集」より引き歌)「椎本」巻) 

「世の人は 我を何とも 言わば言え
 我なす事は 我のみぞ知る」
(@「坂本龍馬」)

「ある時は ありのすさびに 憎かりき
 なくてぞ人の 恋しかりける」
(@「紫式部」(「源氏物語奥入所引」より引き歌)「桐壺」巻)

「たらちめは かかれとてしも うば玉の
 わが黒髪を 撫でずやありけん」
(@「浮舟」(「後撰集」より引き歌)「手習」巻)

「ここにしも なに匂ふらん 女郎花
 人のものいひ さがにくき世に」
(@「尼君の昔の婿の中将」(「拾遺集」より引き歌)「手習」巻)

■自作の和歌(´-`;)

「誰が夢ぞ 誘ふ通ひ路 吹き閉じよ
 我が身ひとつは 風のまにまに」
(@「somethingspecial4」)

「逢魔が原 夢の通ひ路 閉じやせむ
 恋しき人の 風の移り香」
(@「somethingspecial4」)

「夢が関 恋しき人も 来し路を
 閉じやせむとて けふも過ぎぬる」
(@「somethingspecial4」)

「風そよぐ 秋の夜長の 望月の
 淡き月影 ましませ吾が君」 
(@「somethingspecial4」)

■好きなことわざから!

「船頭多くして船山に上る」

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」

「沈黙は金、雄弁は銀」

「昔取った杵柄」

「三つ子の魂百まで」

「好きこそものの上手なれ」

「人間万事塞翁が馬」

「柳に雪折れなし」

「柔よく剛を制す」

「禍を転じて福と為す」

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」

「癖ある馬に能あり」

「玉磨かざれば光なし」

「四十にして惑わず」

「いずれ菖蒲か杜若」

「百聞は一見にしかず」

「仰いで天に愧じず」

「断じて行えば鬼神も之を避く」

「精神一到何事か成らざらん」

「読書百遍義自ずから見る」


※薔薇「ノスタルジー」

「一点もの」とか「手作り」とか、そういう言葉をきくとワクワクする。

たとえば日本の古いものの場合、「大量生産」が一般的でなかった時代に職人や庶民の「手仕事」で作られたものが多い。

そうしたものの多くは、「戦火」を潜り抜けたり「時代」の移り変わりに埋もれたりするなかで、失われてきた。

でもごく一部のものは、今日まで大切に伝えられてきたものが、持ち主を失って「不要品」となり、骨董店やネットオークションなどで、再び利用してくれる人が現われるのを待っている。

そうしたものには、「失われた時代の残り香」や「人々の暮らしの息遣い」、「丁寧な仕事をしていた職人の技と経験と魂」が込められている。

そうしたものを再び利用して、お人形さんに古布の衣装を着せてあげたりすると、ごく新品のお人形であっても「時代の名残り」を身に付けた「ゆかしい存在」となる。

古い市松人形も、状態のよい古布を利用して着物を仕立て直してあげれば見違えるほど立派に蘇る。

古布でパッチワークをしたり、吊るし飾りやカバンなどを作ってもかわいい。

むかしから「骨董市めぐり」が趣味だったけれど、「古布」を専門とする店の周辺はいつも賑わっていた。

当時の私は木でできた古い仏像ばかりに目が行っていたため、「古布」の店にむらがる人々の気持ちはわからなかった。

今であれば、それらの古布をただ「着る」人もいるだろうけど、「リメイク」して新しいものを作り出すということに「至福の喜び」を感じる人がいるのだろうということもわかってきた。

古い一点ものの布をただ眺めているだけで気持ちが「グラウンディング」し、「落ち着き」と「安らぎ」を感じる。

そうした古いものでお人形に服を作ってあげたり、パッチワークをしたり小物を作ったりすると、「古いものを新しい形によみがえらせる」という「あらたな価値の創造」による喜びも得られる。

そして、まったく新品の大量生産品だけで作ったものよりも、「味わい」「深み」が増して歴史を感じられる作品ができあがるのだ。

そうしたものといっしょに暮してみれば、「安らぎ」「リラックス感」「なつかしさ」「自分らしい時間」を忘れずにいられるだろう。

現代は「大量生産(マスプロダクション)」の時代。

暮らしは便利になり、欲しいものがより手に入りやすくなった。

その「自由」を手に入れることの「難しさ」と「奇跡」は、人類の歴史の「果てない努力」と「進歩」の軌跡の果てにある。

そんな時代を生きられることを喜ぶとともに、

昔ながらの「職人の手仕事」「一点もののぬくもりやなつかしさ」「日本伝統の文様や技術の美しさ」を今の世に伝えてくれる、古い一点ものアンティークの残り香を、骨董市やネットに求めたり、

ふらりと立ち寄った場所で見かけた古裂の衣装をまとった市松人形を連れ帰ってきてそっと愛でたりするひとときを、「自分らしい時間」として大切にしたい。

(「人形の小島」の「市松人形」と「飛騨さしこ」の巾着)