この2日ほどのうちに、仏日の傘寿超えの大ベテランが鬼籍に入られた。
お一人は、フランスの俳優アラン・ドロン。
パリ・オリンピックが終わったばかりのタイミングで逝くとは。
昔、子供の頃、「ハンサム」と言えば間違いなくこのアラン・ドロン氏の名が真っ先に出た。
ことさら日本での人気は高かったのだろう。
自分も彼の映画など観た事ないのに、小学生の時分にはふざけて自分を二枚目と言うお決まり文句は「日本のアラン・ドロンだからさ!」だった。(他の人もよく口にしてたと思う。)
あと、時代的に、フランスというのもあってか、この方はよく煙草を咥えているイメージがあった。
今思えば、おそらくなのだが、当時の日本俳優も咥え煙草が「男をカッコよくみせる」小道具として演出に使ったのはこの人の影響だったのでは?などと改めて感じたりもする。(笑)
彼の代表作も多々あれどテーマ曲のヒットもあり多くの人の印象にあるのは「太陽がいっぱい」だろう。
10代の頃、テレビで観たがその頃は正直よく判らなかったが、大人になって観たら、アラン・ドロンが人を惹きつけるのがよく判ったのを覚えている。
時代を象徴した二枚目俳優アラン・ドロン、去る8月18日フランスはドゥシーの自宅で死去。
死因不明、享年88歳。
そして、日本では音楽界の流れを変えるキーマンの一人でもあったシンガーソングライターの高石ともや氏が亡くなられた。
日本の音楽界がまだ民謡や音頭ものの流れを組んでいた歌謡曲がメインストリームだった時代、職業音楽家たちでなく一般民衆が作り歌う「フォークソング」が黒船のような勢いで台頭した。
小室等や岡林信康らと共に現れたのが高石ともや氏だった。
学生運動、安保闘争など当時の若者~特に大学生が、大人に国にものを申す力をつけた時代。
歌詞にメッセージ、風刺などを込めて、作曲し、アコースティックギター1本で弾き語り、多くの支持を得たのがフォーク・シンガーだった。
井上陽水や吉田拓郎なんてその後にこの人たちの影響で曲を作り出したのだから。
3年前たった一度だけ高石氏のライブを観たっけ。
この時はギリギリ70歳代で、穏やかながらも奔放なステージで、激動の時世を過ごした若者のその遥か先がどんな舞台なのかを見た気がした。
詞は御本人ではなかったが、ユーモアと風刺の混じった「受験生ブルース」は、あの頃の受験戦争に参戦した10代たちに愛された。
他にも、ザ・ナターシャ・セブンというグループで「想い出の赤いヤッケ」もヒットさせた。
また、今や日本も「フェス」として野外での複数ミュージシャンによるライブ・イベントも多々定着したが、「宵々山コンサート」と言う今で言う野外フェスをもう50年以上前に行うそんな先陣の一ミュージシャンだった。
1970年代からは、マラソンランナー、トライアスロン・アスリートしても活躍。
生きたいように生きるを体現した稀有な人でしょう。
アラン・ドロン死去1日前の8月17日地元京都の病院にて膵炎により永眠。
享年82歳。
アラン・ドロン、高石ともや両名に心よりお悔やみ申し上げます。
合掌。