8月2日(金) 旅行最終日は 岡山から兵庫へと移動します。


1597年(慶長2年)宇喜多秀家が築城した 岡山城

城の在る丘は 岡山と呼ばれ「岡山」の地名の起こりと言われています。

秀家は 旭川の流れを変え掘った土をこの丘に盛り上げ岡山城本丸の

土台をつくりました。

 


 

 

内下馬橋を渡ると 本丸の正門があった所で 城の威厳や大名の

権威を誇示するために巨石が組み込まれた石垣に圧倒されます。

 

 

関ヶ原合戦後に三代城主・小早川秀秋が築き 池田利隆(異母弟

四代城主・池田忠継の執権役)が改修した自然石を用いた石垣

 


 

 

鉄(くろがね)門跡を上って行くと 表書院のあった所です。

かっては 室数60余と大御殿だったようです。

 

月見櫓

北西角にある隅櫓 1620年代(寛永年間前半)の建築とされていて

唯一現存する建物です。

 

月見をしたりと四季の眺望と小宴を催うするのに用いられた反面

表書院の北西を防御するためのものでもあった。

 


廊下門

1996年(昭和41年)に再建された 本丸の搦め手にある城門です。

不明(あかず)門

表書院の南端から城主居館へ上る石段の入り口に設けられた渡櫓門

普段の出入りには利用されず閉ざされていたことから 「不明門」と。

 

再建された門で 今はここが天守への入り口になっています。

 

六十一雁木城門

外側から  

1996年(昭和41年) 上門部だけが木造で再建されました。

 

 

1945年(昭和20年)の空襲で焼け 柱を支えていた

疎石だけが残りました。

コンクリートの模擬天守の再建時に 移されましたが疎石の

位置関係はほぼ当時の状態に並べられているそうです。

 


 

二代城主・宇喜多家秀の築いた天守閣 三重六層

 

石垣からの高さ 20.45m

外壁の下見板に黒漆が塗られており 烏の濡れ羽色に

似ていたいたので 別名・烏城と呼ばれています。

 

石垣を愛でたいので 後ろ側(東側)へ

 


 

東側にある 高石垣

 

宇喜多秀家が築いた石垣の隅角を 小早川秀秋が石垣を

継ぎ足して改修した跡が見られます。

 

秀家は 安定性の高い大形の石材ををきちっと積み(左側)

秀秋は 丸みのある石材を複雑に積んでいます。

 

見応えのあること!!


天守へ 地上6階 地下1階 先ずは最上階(6階)の展望室へ

 



5階から  

岡山城のの建築方法・お城に関するエピソード・池田氏関連の展示

宇喜多・小早川時代の事項など

2階には 「城主の部屋」が再現されていて その横に大名駕籠が

 

 

乗って記念撮影が出来ます。

 

足軽の陣笠をかぶり 刀を持ってご満悦の外国の方

私も 勿論記念撮影をしてきました。


安土城を模して築かれたと云われ 天守閣の天守台が北に大きく

突き出た不等辺五角形という 全国に全く例のない形をしています。

2度目の訪れですが 以前とは違った感覚で城を見ている・・・

 

関心事は やはり石垣でした。


 

                              赤穂城へ向います。