バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学 | サンディの今日もワイン

サンディの今日もワイン

サンディがワインと本についてあれこれ言います。

2020年2月3日(節分)サンディは永眠しました。18年間ありがとう。
ひきつづき、ワインと本についてあれこれ言います。

読書時間:3.5h
一読:あり
再読:あり(一度では掴めない)
R指定:なし
著者:朱喜哲(チュ・ヒチョル)
刊行:2026年5月
価格:930円+税
出版:NHK出版

本本本本本本本
 

リチャード・ローティを引用して、会話について考える

 

バラバラな私たちを理解する

 

1私たちは「ことばづかい」でつくられる
2黙らせることをめざさない

バラバラな世界を直視する
3ことばによる「非‒人間化」に抗う
4「われわれ」は拡張できる
バラバラなまま共に生きる
5分極化した時代をどう生きるか

6〈正しさ〉を乗りこなす

......

 

正しい建前と正しくないかもしれない本音は併存していい。
リチャード・ローティがバザールとクラブという例で説明している。
バザールはパブリックな場で、クラブは他所では言えないようなことをいう場である。

対蹠人は、

私たちが痛いというところを、C繊維が刺激されているという、
私たちが赤いということろを、ニューロン束G-14が震わせられるという。
 

?何を言いたいのかわからんが

 

男子3人が楽しそうに女子に点数を付けている場面を想像してみよう。
1人がアセクシャルと打ち明けたら、え゛ーと言われて変な目で見られてしまうだろう。
対蹠人なら、”そういうもの”と受けとめられるのに。

リチャード・ローティは会話を終わらせないのが哲学という(終極の語彙を使わない)
え゛ーと言わないでもなく、アセクシャルに配慮して話題にしないのでもなく、会話を通じて自分を拡張し、”そういうもの”を増やしていくこと、これがローティの主張である。

会話がない属性の人々は、”あいつら”になっていく。
”われわれ”と”あいつら”で分断しても、そういうものと受け止めているなら、問題ないのでは?
 

正義を振りかざす「極端な人」の正体

 

ネット上でヘイトをしている人は多くないことも分かっている、問題ないのでは?
 

虐殺の言語ゲーム(ルワンダ大虐殺についての論文)

 

40年かけて差別的な含意を持ったボキャブラリーが広まりジェノサイドを誘発した、とリン・ティレルは分析している。

 

(p97) 
日本で事件が起きると、犯人は外国人ではないかという発言が見受けられます。それはヘイトスピーチと批判されると、犯人を推測しただけと返します。 発言者は特定の属性を持つ人に攻撃の矛先を向けているのではなく、事実を推論しただけだと言いたいのでしょう。
 こうした発言が社会規範やさまざまな蔑称と組み合わさると、非常に危険なものになりうるのです。

 

ヘイトスピーチを禁止する意味が50を過ぎてようやく分かった
差別的な含意を持った言葉は時間をかけて浸透するから、許してはいけないのだ。

正しい建前と正しくないかもしれない本音は併存していいのなら、クラブで発言するのは いいのでは?
そのあたりは理解が及ばなかった。

......

 

リチャード・ローティは小説を勧める。

被害者は渦中においては自身の苦痛や苦境を語ることなどできないし、周囲も要求するべきではない。
小説家のおかげで、気づかれていない領域において残酷な行為が起きていることに気づく。

スーザン・ソンタグが小説を勧めるのも 同じかもしれない。

良心の領界