12月にミラノやレッコを訪問して下さった友人たちを訪ねて鎌倉、由比ヶ浜教会へ。
由比ヶ浜教会の教会守護神は「被昇天の聖母」。1913年パリ外国宣教会によって当地に建てられた。明治6年(1873年)、切支丹禁令の高札が撤廃されてキリスト教布教が黙認されるようになったが、創立当初は、まだ国内にキリスト教会は少なく、鎌倉にはプロテスタントのメソジスト教会(現在の日本基督教団鎌倉教会)があるのみだったそうだ。
教会の建物は関東大震災で一度損壊したそうだが、1928年(昭和3年)に本格的な聖堂と司祭館が新築された。以来幾度かの改修を経たものの現在まで続き、白とさわやかなブルーの外壁、木の構造と石の内壁、イエスの受難を描いた「十字架の道行き」のステンドグラスが特徴。
司式は、22年前、当時ローマに住んでおり、ミラノに黙想会に来てくださった保久神父様であった。
福音箇所は、「疲れた者、重荷を負う者は、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」と招いてくださってるいるマタイ11:25-30の部分であった。(よく葬儀でも読まれるそうだ)
「...これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼児のような者にお示しになりました。...」
(perché hai nascosto queste cose ai sapienti e ai dotti e le hai rivelate ai piccoli. )
「これら」(queste cose)って何?とよく思っていた。
神の国/救い/恵みと言った解釈らしいが、
面白いのは、パパ様のXでは常に”ai piccoli” 「小さき者」と言っていたのは、「幼子」という意味なのだろうが「幼児のような」の「ような」は新共同訳だけなのだそうだ。なぜ?
「聖書と典礼」の注釈欄には、「幼子は、「無知で無力な者」を表す。」とあった。知恵や経験は関係なく、イエスに委ねるってことなのね。
み言葉を子供のように素直に受け取る、そんな恵みに与れるように。疲れた人、重荷を負う人を迎えてくださる主の優しさと謙遜を、私たちも学び、人々に伝えていくことが出来るように...と願うが、大人や下手に知識のある人は、相手を否定しがち。大人(人間)のエゴなんだな....と思ってお説教を聴いていた。
ミサ後、教会のバザーで食事。その後、代々ミラノ会の司祭のお世話をされて来られた方々とお茶をしに出かけた。
帰りがけ「鳩サブレー」で有名な豊島屋本店へ出かけた。
鳩三郎の中に消しゴムが....
鎌倉は2年前の出かけているが、小町通りは20数年振りかも。
教会訪問しながら観光も楽しんでしまった。





