まだまだヴァカンス・シーズンであるが、ミサやスーパーなどに出かけると、居残りの高齢者が多い。健康面もあるが、独り身になって、旅行をしなくなる人も多いようだ。
昨年末、帰天された空手仲間のF爺は復活祭やクリスマスなどの休暇で人がいなくなることを嫌がった。特に長い夏休みに孤独を感じるようだったので、なるべく時間がある限り彼を訪問していた。彼だけでなく、お世話になった施設にいらしたシスターたちを訪問していたが、昨年末から立て続けに帰天。
今週ちょうどF爺の誕生日だっただけに、彼の事を思い出していた。
…と言うわけで今回は、レッコにあるミラノ外国宣教会の施設で、長年日本に宣教された神父様方を訪問してきた。
やはり長年日本に宣教されていた方々だから余計に日本人の訪問で、日本語を話せることを非常に喜んでくださる。特に昨年8月末に戻られた神父様は、よく喋られる!ただ脳梗塞の後遺症で呂律が回らなかったり、パーキンソンでで既にお話ができない神父様方もおられるので、話すペースもバラバラ。耳も聞こえづらいのでゆっくり、話すが、各自聞こえ、答えるペースが違うので会話も難しい。
とはいえ、皆さんご自分の「老い」を真摯に受け止められ謙虚に生きておられる。もちろん一般の高齢者のように年金生活の中でどう生活するか?と言う心配もないし、健康のケアは保証つき。
私の母はまるっきり1人で生活しているから、心配な分、1人だからこそボケずにいるのかもしれないが、友人も多く、よく出かけているからまだ元気だ。ただ「転倒だけは気をつけて」と口を酸っぱくして言っている。
自分の将来を考えたら、やはり不安だ。「老い」はさけられない道。だからこそ、どのように受け止め、老い行くための勇気を見つけるには、何が大切なのか。どのような心を培えばよいのか。神父様方にお会いするたび、その勇気と慰めを頂く感じ。
そんなわけで、今回は3人の神父様にお会いしてきたわけだが、そのうちマリオ神父様は先月89歳になられた。そして昨年戻られたロレンツォ神父様は来月90歳になられる。「今私たちのどちらかが死ねば同級生です!」とおっしゃった。笑えないジョーク。苦笑 しかし、このユーモアが重要。人生にユーモアは必要なエッセンスなのだ。
「幾つになった?」会話中もほとんど目をつぶっておられるアルベルト神父様にロレンツォ神父様が尋ねると、咄嗟に「90!」とイタリア語で答えられた。えっそんなに言ってたっけ?と思ったが、ロレンツォ神父様は小さな声で「もう少し若いね」とおっしゃった。携帯電話に神父様方の生年月日、司祭になられた叙階記念日を記録しているので後から確認したら1940年生まれであった。若くサバを読むと言うか、時代が止まっているわけではないのだ。笑
共通の友人の話や施設内での笑い話...そして平和に関する話から「君たちはアメリカのトランプをどう思うか?」「カトリック信者としてどう考えるか?」日本では触れづらい内容も話した。ウクライナの話、ロシアの話、非常に興味深いものだあった。
ところで、今回お会いした神父様方もそうであったが、この1月に帰天された代母であったシスターマリアも「お元気ですか?」とお聞きすると、皆必ず「お陰さまで」とおっしゃったものだ。
何気に聴き逃してしまうフレーズではあるが、本来「陰」は、物事に隠れて見えないものだ。自分一人では成し得なかったこと、何らかの助けや配慮を得たことに対して、感謝を伝える際に使われる。神様への祈りも同じ。
非常に謙虚な姿を感じられる。
近ければしょっちゅう話を伺いに行きたいくらいなのに...それが神父様方の日本語維持にも繋がる。
普段は、老人ホームを訪問するたびに、老いの葛藤と苦悩を思っていたが、今回は笑いとパワーを頂いた。そして「平和のために祈り続けましょう」と励まさレ、握手をし別れた。
若いころの「時間」、と体が思うように動かなくなってからの「時間」というのは、かなり違うのだろうと思う。とは言え、静かに祈る時間は増えるわけだ。
今の時点、私は年々時間が足りなくなっている気がするが、無で走りすぎていることさえある。
まだ健康であるという自負もあるのだろうが、徐々に抱えているものを離して行かなくてはならないだろう。
やはり「今」この瞬間を大切に生きること。それはいきなりできることではなく、毎日の積み重ね。それはやはりしっかりと自分自身に向き合い、自分を知ることが求められるのだろう。
帰りがけ久々レッコの湖畔を歩いた。何気に哀愁を感じた。
今日の一句
有難き 陰なる力に 生かされる

