聖霊降臨祭 2025 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
復活祭後の50日目である聖霊降臨祭を迎えた。
 
福音書の使徒言行録では、「聖霊が降りてきた時、炎のような舌が現れた」と記されており、イエス・キリストの昇天後、使徒たちが聖霊に満たされ、さまざまな言語で神の言葉を語り始めたことを祝う。
 
聖霊降臨祭は、別名“Festa delle Gente”、様々な言語を話すと言うことで、民族または人民祭とも呼ばれる。ミラノは、人種の坩堝でミラノ教区では毎年この日は、大司教が移民の多い地区の教会でミラノ市内の外国移民・移動者共同体との共同ミサをあげられる。
 
11年前、前ミラノ大司教が来られ、聖霊降臨祭のミサをあげられ、すごい人であった記憶はあったが、今年は更にすごい人で、参加共同体も増え、座る席が足りず立っている人も多かった。ちなみに11年前の食事会は、1000食ケータリングを準備したが、今年は1000食では足りなかったはずだ。(今回は各共同体による手作りの食事であった!)
 
今回は、オーガナイズを始め、聖歌隊の方も教区の方ですべて準備をしているということで、出る幕なし!爆
 
しかし、普段のミサの時間よりも45分早く始まり、(行列に関しては1時間以上も早く!)ギリギリに到着。普段座っている席はもちろん、座る席もなく、それでも教会の聖歌隊のメンバーたちがいたので、その横に立っていると、目の前にチマチョゴリを着た女性が来た。
 
韓国人共同体か…と思っていたら、中に見たことがあるような人がいた。勿論知り合いではなかったので、誰か似た知り合いが以前いたよな…と考えていたら、正にその人が後からやって来たではないか!
 
えっ???でも似ているだけ?と思っていたら、その彼女が急に振り向き、お互いに指をさし、目を真ん丸にして、驚いた!
 
長男の補習校時代の小学校から高等部までのクラスメートのお母さんだった。韓国人であったが、きっとキリスト教信者なのかもしれない…とは思っていたが、ミラノには韓国人のプロテスタントの信者さんも多いので、特にどちらだろう?とは考えたこともなかった。
 
ミサ中だったので、あまりおしゃべりは出来なかったが、ふと振り向くと離れたところに、彼女のご主人が立っておられた。手を振ると、彼も振り返してきたが、きっと車の送迎役かな?と勝手に思っていた。笑
 
ところが、後になって聖体拝領が6列になって長蛇の列に並ぶための列で立ち止まっていると、別のルートで並んでいた彼と列が合流し、どうぞ!といって列に入れて頂いた。思わず「信者さんだったんですか?」と声をかけてしまったくらいであった。日本でのカトリック信者数は人口の1%にも満たないわけで、日本人の人口などたかが知れているミラノではカトリック信者は本当に少ない。ちなみに彼はコロナ禍の後、洗礼を受けられたのだそうだ。
 
彼らとは、数年ぶりに再会したが、ご主人とは9年前の帰国中なんと京都駅のホームで声をかけられたことがある!あれは驚いた!(とはいえ、私にはそういうことがしょっちゅう起こるのだが…)
 
話は基、ミサは、スリランカ語、ルーマニア語、エリトリアのティグリニャ語、ポルトガル語、中国語、フランス語、ウクライナ語、タガログ語で朗読や祈りが捧げられ、聖歌もスペイン語、レバノンの何語だかわからず、や韓国語で捧げられた。他にも、ポーランドの共同体やエジプトのコプトの共同体が参加していた。
 
大司教によるお説教では、
「異国での日々の生活は、たとえ能力や技術、可能性があっても、それを求められず、肉体労働だけを求められていると感じる時、その苦労やある種の屈辱、悲しさの中で、真の異邦人教会を築くためにはどのような賜物をもたらすことができるのか?と考えてしまうだろう」と話された。
 
しかし、「その答えは全て主からしか得られない。」と言う事。

「この世で生きていくためには、勝組でなければならない、自慢できるような結果を出さなければならない、重要であるためには、力を持たなければならない、効率的であるためには、実行、実行、実行…というような考えがある。
 
けれどイエスが私たちに与えてくださる精神を、世は理解できない。まさに、『愛されている』という確信があるからこそ、私たちは今度は『愛する能力』を持つことができるのだ。   
 
自分が完全に能率的である時も、無力に生きている時も、重要な役割を担っている時も、どのような役割も果たせない時も、奉仕をする時も、奉仕されることを受け入れなければならない時も、愛する。多くの言語を話すことができる時と、話すことさえできなくなった時の愛、素晴らしい働きができる時も、何もできない時も愛すること…。」

私たちは今日、この聖なる年に、希望のジュビレオ(聖年)を祝っている。希望とは、私たちは皆、神の息子であり娘であるという唯一無二の尊厳を持っているという神の約束への信頼である。神は私たちの喜びであり、平和であると約束して下さっている。私たちは、街を驚きで満たすような前兆的な出来事が起こるなどと想像することなく、聖年の聖霊降臨祭を生きなければならない。聖霊降臨の大いなる奇跡、大いなる賜物は、神の霊を受け入れ、愛に身を投じるのは、私たち一人ひとりだ。

 
「聖霊を知らない世は、行動すること、活動すること、生産すること、結果を出すこと、奉仕することが重要だと信じている。イエスの御霊を受け入れる者は、本当に必要なのは愛し、愛されることだと理解する。御霊は愛の御霊として、いつも私たちと共にいてくださる。御霊は愛することを可能にしてくださる。完全な能率を発揮している時に愛することも、無力に生きている時に愛することも。重要な役割を担っている時に愛することも、どの役割も果たせない時に愛することも。奉仕する時に愛すること、奉仕されることを受け入れなければならない時に愛すること。多くの言語を話す時に愛し、話すことができない時に愛すること。あちこち走り回らなければならない時に愛し、立ち止まらなければならない時に愛すること。素晴らしい行いができる時に愛し、何もできない時に愛す……。」

「私たちが生きている恵みの年は、希望を新たにするチャンスである。希望は、何が手に入るか、どんな結果が得られるか、どんな目標を達成できるかという計算の上に築かれるものではない。期待を裏切らない希望とは、イエスの復活において憐れみ深い御父が私たちに明らかにしてくださる約束への応答である。私たちは約束を信頼し、それゆえに期待と忍耐のうちに生きるのだ。時間は喜びの敵ではなく、私たちがどの瞬間にも愛し、望み、祈ることができるようにするための好ましい機会なのだ」と大司教はお説教を締めくられた。
  

その後のスリランカ共同体による奉納。民族衣装と民族舞踊は素晴らしかった。

 

 

ミサ後は外に出て食事タイム。
 

 

韓国共同体によるプルコギ

 

スリランカ共同体によるビリヤニ

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ルーマニア共同体によるパンとヨーグルトソースとひよこ豆のフムス。

 

モロッコ人(彼女は地域のイスラム教徒)によるモロッコティ。

 

中南米のオーツ麦を使った飲み物を頂いた。冷たく甘い牛乳にシナモンが効いたような味であった。

 

躍り始めるルーマニア共同体の男性たち。

 
私は午後から別の予定があったので、途中で抜けてしまったが、その後いくつかの共同体によるダンスが披露されたようであった。(画像はフィリピン人共同体)

 

 

教区の移民・移動者の責任者である司祭に挨拶をし、ホームページに日本人共同体は掲載されていないが活動してますよ、というと、担当司祭から電話をするよう言付けられた。笑 ちっちゃなちっちゃな日本人グループでも、共に祝う喜びを持つ日が待ち遠しい。

 

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)

 

私たちは常に回心しなければ実現しないことを熟知しながらも、分裂や無理解に陥りがちだ。そう言う時は必ず心から赦しを求めよう。そして、私たちの日々のかかわり合いが、さらなる美しさと喜びをもってイエスと御父の結びつきを映し出すものとなるように祈りましょう。