次はいよいよバジリカ・ディ・サン・ロレンツォへ。
修復中で工事用シートが外観を損なわないよう配慮されている割に、広告のデジタルサイネージとの違和感を感じたのは私だけだろうか?
コスタンテイウスの像が教会を指差している。
390〜410年ごろ建てられた教会前の広場には16本のコリント式の柱が並んでおり、雨だったので人がいなかったが、普段は何気に座り込んでいる若者が多い。
余談だが、この柱は元々、マッシミアーノ皇帝の指示で造られたテルメもしくは闘技場を囲んでいたものと言われている。どうやって運んで来たのだろうか?
そして、サン・ロレンツォの初期キリスト教の名称は、バジリカ・パラティーナであり、ミラノにあったローマ帝国の宮殿(パラティウム)に近かったことに由来している。当時この大聖堂の大きさが、円形建築の設計としては西ヨーロッパ最大であったのだそうだ。
そもそもバシリカとは建物様式の名称のひとつで、3つの意味があるのだが、古代ローマで古代ギリシャの建築から影響を受けたといわれる公会堂や宮殿、浴場などの建物に使われた建築様式であり、また、キリスト教がローマ帝国内に広まるにつれて、この建築様式が教会堂に利用された。(一番奥はアプス(祭壇)となっていて、その後ロマネスク建築・ゴチック建築にも多々利用されて、その場合は単に大聖堂と呼ばれることが多い。
そしてローマ教皇が発行した教皇小書簡により、一般の教会堂より上位にあることを認められた、あるいは特別の役割があることを認められた教会堂も含まれる。(大抵は大聖堂が多いが、小聖堂の場合もある)
黎明期のキリスト教は美術に対して敵対的で独自の宗教美術は持たず、文献などから宗教行事は比較的大きな個人邸宅を借用していたと考えられている。しかし、布教地域が拡大するにつれて宗教美術も発展し始め、4世紀前半にはローマの神々を祭る異教礼拝堂を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立したというが、サン・ロレンツォの円形建築はビザンチン様式とローマ建築に大きな影響を与えたそうだ。
ランゴバルド族の統治下にあった西暦590年以降この聖堂はカトリック殉教者であったローマのラウレンティウス(聖ロレンツォ)に献呈された、教会の名前自体も変更した。
こちらからは有料(2ユーロ)の聖アクイリーノ聖堂。
ひげのないキリストは珍しいかもしれない。目が大きく、ほほが赤く描かれているのは、この時期、初期キリスト教の特徴。使徒1人1人の顔がそれぞれかなり個性的に描かれている。
聖アクイリーノ聖堂
地下の聖アクイリーノ礼拝堂。 1910-11年に行われた発掘調査で発見されたと言う。洪水に遭いアンフィテアトロの石を持ってきたと言う説明であった。度重なる倒壊や火災の被害にあったサン・ロレンツオの地下が健在とは驚き。(とはいえ天井にヒビが入っておりすぐに逃げ出したくなった。苦笑)














