前日お会いしたK子さんに、イエズス会・ホイヴェル師の著書「人生の秋に」を頂いた。4年前から始まった彼女とのメッセージのやりとりで、私にプレゼントしてくださるとおっしゃっていた随筆集。
そのホイヴェルス師の詩「最上のわざ」は私の大好きな詩。人生の半分以上が過ぎ、いかに生きるべきか、いかに最期の準備すべきか教えてくれている。
ところでホイヴェルス師は、1890年ドイツのウエストファーレン州の生まれ。19歳でイエズス会入会。1923年、33歳で来日。上智大学の学藍、学部長、副学長を歴任し、四谷の麹町教会(イグナチオ教会)の主任司祭の任にも就かれた方。1977年、87歳で帰天。
そして、かれこれ60年近い前に上記K子さんは、そのホイヴェルス師に導かれ洗礼を受けられたと言う。
そして、人の死に接するたびに自分に与えられた使命とはなんなのだろう?と考える。
この1-2年で親類の叔父や叔母が立て続けに他界している。高齢と言ってしまえば、それまでだが、人はどのような形で老いて、そして亡くなっていくのか?人生100年時代と言われるようになったが、平均寿命と言うものがあっても、皆が皆平均寿命まで生きられるわけではなく、平均ゆえに約半数の人は、その年齢まで辿り着くことなく、何らかの理由で命を全うしていく。
同じ60代、70代でも明らかに私の子供の頃描いていたお年寄り像よりも皆若く元気に見えるが、健康状態と死亡状態の間には、いわゆる「要介護状態」が存在する。しかし全ての人が、介護が必要になるわけでもない。その差はなんなのだろうか?やたらそんな事ばかり、考えさせられてしまう今日この頃。
先日93歳になる施設にいる叔母を訪ねてきた。4年前、風邪をひき入院しそのまま自宅に戻れていない。
若い頃は舞踏をやっており、単身で、しかも船でニューヨークに渡った人だった。水彩画を嗜む人であった。
ウトウト状態で、私を見ても誰だかわからない様子だったが、「T子だよ。イタリアから来たよ。一緒にヴェネチア行ったよね?」というと一瞬目を必死に大きく開け私を見た。わかる?と言うと、うんうんと頭を縦に降ってくれた。私も年をとったが多分声でわかってくれたのではないだろうか。
叔母は無宗教であるが、幼子イエスの絵を描いてくれたことがある。
人はなぜ年をとるのか?科学、医学、哲学をもってしても解答は得られない。花は開き、やがて萎んでゆく。「コレへトの言葉」の最後の文は、こう終わっている。
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。
神は、善をも悪をも
一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。
「最上のわざ 」
この世の最上の業は何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架を担う――。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人の為に役立たずとも、親切で柔和であること――。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために――。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事――。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる。それは祈りだ――。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために――。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と――。
「人生の秋」 ヘルマン・ホルベルス著 春秋社
この本をゆっくり噛み締めながら、味わいたいと思う。
K子さん、ありがとうございます。
今日の一句
人生の秋 老いの重荷は 神の賜物

