四旬節 2024 〜 ベッリーニ展 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

今朝ほど地元の教会の四旬節の行事で司教区の博物館へ出かけてきた。カテキズモの親子を含めて70人のグループであった。

 

始めにこの企画を聞いた時は、あー、土曜日の午前中は空手の日だわ...とがっくりしたが、なぜかこの日は稽古が休みだと知った時の喜びは、何ものにも代え難いものであった。笑 (ついてる私!)

 

 

幼子イエスを訪問したと言われる三賢士の遺骨があるミラノの聖エウストルジオ教会脇にある司教区博物館で行われているベッリーニの特別展示会だ。

 

 

ベッリーニは、イタリアルネサンス期の画家であり、画家一族で知られるベッリーニ家の中で最も重要な画家であると言われている。その彼の作品のひとつで、ヴァティカン絵画館にある「十字架降下」がミラノの博物館に期間限定で貸し出されているのであった。(2024年5月11日まで)

 

ところで、この博物館がある、聖エウストルジオ教会脇には2つ回廊があるのだが、もともとはドミニコ修道会のものであったという。そこが博物館になったのだが、前ミラノ大司教であったスコラ大司教が、ミラノを代表するカルロ・マリア・マルティー二大司教(1980-2004年)の意志を継ぎ、そして彼を称え、85歳で帰天されたが、90歳の誕生日(2017年2月15日)に記念として『司教区博物館カルロ・マリア・マルティーニ』と命名された。

 

 
ところで、今回展示されている「十字架降下」は、本来ペーザロのサン・フランチェスコ教会にあったもので本体(「聖母戴冠の祭壇画」)が6メートル。上の部分が2メートル(十字架降下)ほどあったが、その上の部分がなぜか、ヴァチカンに渡ったという。ペーザロ市側はヴァチカン側にこの部分の返還要求を何度もしているというがどうも政治的背景が強く、実現していないのだそうだ。

 

 ↑こちらが本来の形

 

またこちらは会場でCGと額縁を模したものを3枚遠近法で設置したもの。↓

 

 

話は戻るが、 「十字架降下」とはゴルゴダの丘で十字架に貼り付けられ、息を引き取ったイエスの遺体を降ろす場面である。イエスを取り巻いているのは、イエスの手を握るマッダレーナ(マグダラのマリア)。時計回りにニコデモ、そしてアリマタヤのヨセフ。

 

 

....ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。(ヨハネ19:38)

 

ヨセフはパリサイ人でユダヤ人議会議員であったが、正しい人であった。ヨセフがキリストを十字架から下ろすと、ベッリーニの絵画にはいないが、聖母マリアは我が子を抱く。遺体には没薬と香料が塗られ、布に包まれて埋葬される。その3日後に、キリストは復活を果たすのだった。

 

絵画の登場人物は皆、目を半分閉じ、地上の死を希望の道として受け入れなければならないと認識し、キリストの体を立体的に見る光によって、更に神の無償の愛による犠牲と神秘に圧倒されてしまう。

 

 

 

 

特別会場には現代アートにおける4名のアーチストによる「十字架降下」にインスピレーションを受け、苦しみを表現する作品が展示されていた。(一つは手に問題のある子供の指の動きの映像。1時間半にわたり同じ動きが収められていると聞きショックを受けた。)

 

 数千本の釘が打たれ、赤い糸で十字架降下を表現しているという。幼少時、脳の病気で髪を切ったアーチストの髪の毛がそのまま三つ編みにされ鏡にさげられていた。

 

 残虐な小説の表紙ばかりを集めてフロッタージュして貼り付けて表現した十字架降下。

 

 戦場から逃げる場面だろうか?台車の白い布地が遺体と紺のベールの女性が聖母マリアを表現しているのだけはわかる。

 

後に現地解散となったが、私は再び展示会場に戻り、誰もいない「十字架降下」の前に佇み、他の会場も回ったが気づくと入場してから2時間半もいた。苦笑

 

マルティーニ大司教

 

 

 

聖アンブロジウス

 

十字架を礼拝しているサン・カルロ。

 

名画からインスピレーションを受けた障害者をモデルにした写実絵画展も併設されていた。

 

ユダの接吻 
色が綺麗で吸い込まれるように観に行ったが、このイスカリオテのユダの裏切りによってイエスは受難する。しかし、悪魔の誘惑に負けたユダの弱さは誰もが持っている弱さだ。

私たちは、弱さ故に時に主を裏切り悲しませてしまう事があるだろう。ユダを思う度、私たちキリスト者は主のみ前に立ち、主のみ心にかなった生活をしているのか?と問い、そうでなければ悔い改め、祈り、主の赦しを求める生活をしなければならないと反省させられる。


それにしても、宗教画は希望よりも苦しみや壮絶なものをどっと表現するされているものが多く、一気に見てしまうと感情が保てなくなってしまう。
 
帰りは1人でドウモ近辺まで歩き、そこからトラムで帰宅した。
 
今日の一句 
美術館 観たあとぐったり 酔いまくり 苦笑