今日、空手の師範がFaceboolに興味深い記事を投稿されていた。
あるテレビ番組を例に、空手の指導や門下生について触れられていた。
(真似であろうと)愛がなければ、空手も技術ばかりを追い求めてどこかで限界が来るのでは?ということであった。
また、同じ稽古、同じことを門下生に教えても、早く来て自主練をし、疑問点をぶつけてくる者、逆に時間ぎりぎりに来て、終わればさっさと帰るものさえいる。その「差」はなにか?
最終的には、人それぞれで捉え方、向かい合い方も異なるわけで、そこを尊重(妥協?)するしかないのだろうか。
以前も書いたことがあるが、空手の指導は、定義を教え、またセンスもよく、そこそこについてこられる人を教えるのは楽しいが、そうでない方が一般的だ。(自分も今でもそうでない方だ。) 門下生一人一人の状況に対応するのが重要だと思う。
それが指導者の使命であるのではないか?と思って来たが、いくらグループに分けて指導しても割り当てられた時間内で誰(どのレベル)に合わせるのか?というのは、学校での教育とも同じことが言えるだろう。
何れにしても、書くのは容易だが、非常に難しい。とにかく級や段位に関わらず、ただ続けていればうまくなるのではないし、道場に子供を入れれば躾が身につくわけでは決してないのだが、そう信じている親も少なくない。
蹴りで上段まで足が上がらなければ上がるようになるまで柔軟体操を繰り返し、毎日訓練を続けるのも大切だし、シニアなら足腰の痛みを歳のせいにせず、どこから来ている問題なのか見つめる心も大切だろう。
けれど、どこそこが痛い、出来ないと言われてしまえば、それがその人の限界だろうから、それ以上は求めてはいけないのだろう。涙
けれど、その人の限界、レベルの中でも、出来るものを掘り下げられるものはあるはず。
何事もそこの一歩を踏むか踏まないか?気づけるか気づけないか?の「差」なのだろうな…と悶々して、堂々巡りであったものが、ふとわかった気もするし、残念だなあ…と思う気持ちも強い。
個人的には、幾つになっても、好奇心、探究心は持ち続けたいし、自分が出来ることで楽しんでいたいと思うもの。
空手というのは実にストイックな武道だと思う。耐え忍ぶ精神。だからこそ「道」なのであろう。
それでも耐え忍びながら楽しむ。積極忍耐だ。
やっぱりドMか?!爆
今日の一句
探究心 幾つになっても 持ち続けよう
