今もこの復活祭休み、入院中のF爺を数度訪問し、またやはり80代の日本人の未亡人女性とお茶をした。気づくと彼らといると常に聞き役になっている。
また、親や親類の話を見聞きし、自分の体の変化...20年後は確実に自分も「高齢者」の仲間入り。逃げられる道ではなく、色々と考えさせられる。
ところで高校の頃、社会の授業で当時1983年第36回カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いた人間ドラマ、映画「楢山節考」を観た。あまりにもショッキングで脳裏に焼き付いている。
これは、70歳になった老人は、子に背負われて楢山に捨てられなければならない。そんな山奥の寒村の掟に従い、喜んで神に召されようとする信心深い母(坂本スミ子)と、哀しみとともに母を山へ連れていく息子(緒形拳)。2人の姿を通し、自然への畏怖や人間との共生、そして受け入れざるを得ない人間の業や運命といったものを、アクの強い演出で描ききった巨匠・今村昌平監督の名作だ。(原作は深沢七郎氏の小説「楢山節考」「東北の神武たち」をまとめたものだという。)
話は基、私とは血はつながっていないが、従兄弟の父親が100歳を迎えた。かれこれ2年施設に入っている彼の妻である叔母(母の姉・92歳)は、もうとっくに亡くなったと思っているらしい。
今や90歳、100歳も珍しい時代ではなくなったが、「健康寿命」という言葉が盛んに使われるように、重要なのは単に長生きをすることではなく、心身ともに健康な状態で充実した生活を送ること。
それにしても高齢者の知人・友人が増えたのも自分が歳をとってきた証拠であろう。やはり彼らを見ていて思うのは、歳をとり、体が思うようにならなくっても、頭がしっかりしていると葛藤は大きいものだと思う。しかし、その逆に「英知」も与えられるものだと思う。
とはいえ、その葛藤は、やはり自分が体験してみないとわからないことであって、人をどうこう言える身ではない。しかし、言えることは、今から徐々に、いろいろなものを手放していってシンプルに生きていくべきなのだろうな…とは想像できる。
場所、家、本や洋服、お金も最低限であればよく、有り余るものは必要ないかもしれない。(もともとないけれど)時に、高すぎるプライド、感情も邪魔になってしまうかもしれぬ。
謙虚さも卑屈になってしまっては元も子もないが、自分の弱さや至らなさを認められる自分にならなくてはいけないだろう。よりよく生きる。品位ある生き方。それは、高齢者になっていきなりできるものではなく、若い頃からの積み重ね。良くも悪くも人生の先輩方から学ぶものは多く、自分の人生に重ね合わせ日々過ごしたいと思う今日この頃。
