今日は母の76歳の誕生日だった。
「おめでとう」とメッセージを送ると、自分がこんな年になるなんて信じられない、とのこと。私もそうだ。自分が50代だなんて全く信じられないし、これから70代、80代になる日が来るなんて想像も出来ない。
日本では75歳以上になると(寝たきりなどの場合は65歳)は老人保険制度に加わり、更に後期高齢者医療保険というのに、加入しなくてはならない。どんだけ、高齢者から搾り取るのだろう。
ところで、最近よくミラノの郊外の老人ホームにいらっしゃる方を訪ねているのだが、いつも「あなたこういうとこ来るの嫌じゃないの?」「抵抗はないの?」と聞かれる。
別に感じませんよ、と言う。親と離れていて、すぐに飛んでいってあげられない分、必要としている人に寄り添えられればいいんじゃないだろうか、と思う。以前は日本人のシスターを訪ねていたが、今ではご自分で聖書の会にも来られるようになりクラスメートとなった。やっぱりいいわよね、母国語でイエズス様の言葉を聞けるのは、とおっしゃる。また思ったことを言葉に出すことも大切だと思う。
ところで、最近高齢者世帯の「同時死」が相ついでいるのだと言う。また、要介護者がいる高齢世帯において、介護する側が亡くなり「共倒れ」で死亡したり、貧困による餓死というケースもあると言う。
そういう話を聞くとゾッとしてしまう。自分の親は大丈夫だろうか? いや、自分の老後は大丈夫なのだろうか? と。
父もそうだが, 上記老人ホームにいらっしゃる方は頭はしっかりしているが、逆に思う様に歩けない。呆けて、自分自身がわからなくのなら、生きていたくないと何度もおっしゃる。微妙だなあ。誰だって呆けたくて呆けるわけではないのだから。
とはいえ、高齢になるほど「霊性が大切」であると感じる。最期の瞬間まで生きる意味を見つけようとしたい。何かのきっかけで人間を超える「大いなる存在」に心を傾ける時、謙虚にその方向へ精神を向ける心的傾向が「霊性」ではないだろうか。
その霊性を深め、精神的に豊かな人生を送るにはどうすれば良いか... 結局は、限りある人生をどのように生きるか?それはいきなり出来ることではない。
となると、なるべく若い頃から心がけておく必要性がある。たとえ、癌や重い病いにかかっても、認知症になっても、余命わずかだと宣告されても、誰もが自分らしく誇り高く最期まで生きられるように。「その時」に備え、病気や死と向き合う覚悟を決めること、正しい知識を身につけることは、自分や自分の大切な人の『いのちの尊厳』を守ることでもあり、すべての人に共通する人権課題とも言えるだろう。
最上のわざ
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