高齢化社会に思う | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今日は母の76歳の誕生日だった。
 
「おめでとう」とメッセージを送ると、自分がこんな年になるなんて信じられない、とのこと。私もそうだ。自分が50代だなんて全く信じられないし、これから70代、80代になる日が来るなんて想像も出来ない。
 
日本では75歳以上になると(寝たきりなどの場合は65歳)は老人保険制度に加わり、更に後期高齢者医療保険というのに、加入しなくてはならない。どんだけ、高齢者から搾り取るのだろう。
 
ところで、最近よくミラノの郊外の老人ホームにいらっしゃる方を訪ねているのだが、いつも「あなたこういうとこ来るの嫌じゃないの?」「抵抗はないの?」と聞かれる。
 
別に感じませんよ、と言う。親と離れていて、すぐに飛んでいってあげられない分、必要としている人に寄り添えられればいいんじゃないだろうか、と思う。以前は日本人のシスターを訪ねていたが、今ではご自分で聖書の会にも来られるようになりクラスメートとなった。やっぱりいいわよね、母国語でイエズス様の言葉を聞けるのは、とおっしゃる。また思ったことを言葉に出すことも大切だと思う。
 
ところで、最近高齢者世帯の「同時死」が相ついでいるのだと言う。また、要介護者がいる高齢世帯において、介護する側が亡くなり「共倒れ」で死亡したり、貧困による餓死というケースもあると言う。
 
そういう話を聞くとゾッとしてしまう。自分の親は大丈夫だろうか? いや、自分の老後は大丈夫なのだろうか? と。
 
父もそうだが, 上記老人ホームにいらっしゃる方は頭はしっかりしているが、逆に思う様に歩けない。呆けて、自分自身がわからなくのなら、生きていたくないと何度もおっしゃる。微妙だなあ。誰だって呆けたくて呆けるわけではないのだから。
 
とはいえ、高齢になるほど「霊性が大切」であると感じる。最期の瞬間まで生きる意味を見つけようとしたい。何かのきっかけで人間を超える「大いなる存在」に心を傾ける時、謙虚にその方向へ精神を向ける心的傾向が「霊性」ではないだろうか。
 
その霊性を深め、精神的に豊かな人生を送るにはどうすれば良いか... 結局は、限りある人生をどのように生きるか?それはいきなり出来ることではない。
 
となると、なるべく若い頃から心がけておく必要性がある。たとえ、癌や重い病いにかかっても、認知症になっても、余命わずかだと宣告されても、誰もが自分らしく誇り高く最期まで生きられるように。「その時」に備え、病気や死と向き合う覚悟を決めること、正しい知識を身につけることは、自分や自分の大切な人の『いのちの尊厳』を守ることでもあり、すべての人に共通する人権課題とも言えるだろう。
 
 
最上のわざ
     
この世の最上の業は何?

楽しい心で年をとり、

働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうな時に希望し、

 

従順に、平静に、おのれの十字架を担う。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを

見ても、ねたまず、人のために働くよりも

、けんきょに人の世話になり、弱って、も

はや人の為に役立たずとも、親切で柔和で

あること――。老いの重荷は神の賜物。 

古びた心に、これで最後のみがきをかける

まことのふるさとへ行くために――。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ

はずしていくのは、真にえらい仕事――。 

こうして何もできなくなれば、それをけん

そんに承諾するのだ。 

神は最後にいちばん良い仕事を残してくだ

さる。それは祈りだ――。 

手は何もできない。けれども最後まで合掌

できる。 

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求

めるために――。 

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声

を聞くだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」

と――。
                

「人生の秋」 ヘルマン・ホルベルス著

 春秋社