「躾」とは字の如く「身」が「美しい」と書く。
人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞いができるように訓練することで、教育の一種であると言うが、結局は、その人の「立ち振る舞い」であり「身」(人格)の「美しさ」なのではないだろうか。
またこの「躾」は着物などの「仕付け」から転じたものとも言われている。本縫いをする前に、仮縫いとして仕付けるが、その後は、仕付け糸は取る。子育てもある意味、仕付け糸と一緒。大切な所は特に、仕付けをかけてあげなくてはならない。
良くイタリア人は空手など、武道の教室に子供を入れれば躾が身に着くと思っている人が多いようだが、それはあまりにも無責任。そこで、親の教育が見えたりする。とはいえ、同じように育てたつもりでも、長男、次男はあちゃーということもあったから、批判は出来ないのだが、シッター先で、どんなに私が子供たちに,おもちゃの片付けやら食べ歩きなどを注意しても、親が守っていなかったり、また、それを注意したりしなかったり、一貫性がなければ、それは何の意味もなさないだろう。
まあ、日本人のシッターが人気があるのは、ちゃんと躾けてもらえる?!と勘違いしているイタリア人の親も多いのかもしれない。私が子供たちにまだ小さいとはいえ、説明しているのを親は聞いているはずだが、私がいなくなれば、好き放題にさせている。それでいて、子供に無茶苦茶なことをされれば、怒鳴りまくる。そりゃ違うでしょ。
自分の子育て以上に苦労する日々。トホホだわ…
