今日2月26日は、亡き父の誕生日であった。
帰天してそろそろ早3年。生きていたら86歳。
10数年前から、冬に心筋梗塞を起こし何度入院しただろうか。なので、冬が来るたびに何とか誕生日を無事迎え、春になって欲しいと願ったものだ。
今朝、母と電話で話し、「今日はお父さんの誕生日だね」というと、「あらそうだったわ」という。命日が近いので、いつお墓参りに行こうか?と長男とは話していたという。
そして「まだ十分に生きていられる年齢だったわよね?」と母が言った。けれど、ちょうど父が亡くなった日にイタリアはロックダウンしたわけで、あのまま入退院を繰り返していたら、早々に私は帰国は出来なかったかもしれないし、または私が日本へ行きっぱなしであったか?
今でこそ元気になった母であるが、あのままだったら老々介護で母が倒れていなかったか?そして通院で外出の度にコロナにおびえていなかっただろうか?想像しただけでも、大変な事であったと思う。また、父と母の順番が違っていたら…?父は一人で何もできなかったかもしれぬ。
最近では月命日は忘れてしまうことが多いが、やはり父の誕生日や命日は、自然に思い出に浸ってしまう。
愛する人が亡くなった時、生前の物質的な限界が消えて、今までよりも近くにその人を感じることがある。場所や時の限界は時間をかけ癒されていく。それは大きな恵み。以前書いたが、亡くなってもその人の魂は、勇気や希望を与えた人の内には生き続けるのだ。
もはや死はなく、もはや悲しみも、嘆きも、苦しみもない。
先にあったものが過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:4)
カトリックでは、死は決してすべての終わりではなく、次の新しい世界への第一歩にすぎない、と考える。
誰にでもいつか必ず訪れる人生の危機に直面する時、この聖句は、残される人への優しい慰めと励ましに溢れていて、心に響く。
そして、今日は偶然にもミラノは「灰の日曜日」だった。
「あなたは土の塵だから、土の塵に帰るのだ」 (創世記3:19)
祝福を受けた昨年の枝の主日に使った枝の灰で十字架を記し、頭に灰を受けてきた。
人間は誰でもいつかは塵に帰る存在だ。
父の誕生と死を思い、死の前に人はすべて平等なのだ。私たちは頂いた命を大切にし、生きている時間が限られているということを再確認した。

