次男が18歳の誕生日を迎えた。
あっという間の18年間。あの日のことはよーく覚えている。
3人目にして初めてのイタリアでの夫の立ち合い出産の予定であったが(長女、長男は帰国し、一人で大学病院で出産)、夫は次男が生まれたらウクライナ出張が入っていたのだ。まだか?まだか?と言われ、産後も上の子たち二人を抱えて大変にならないよう両親が手伝いに来ていてくれたが、父も当時はまだシルバー人材で仕事をしていたので、私の産後、母を置いて先に帰国せねばならなかった。いずれにしても、大変なのはわ・た・し。
既に出産が予定日よりも数日遅れていた。妊娠中から次男は「大きなSamuraiだ!」と言われていたから、予定日が遅れれば彼が大きくなって出産が厳しくなる!アパートの階段を上り下りしたり、良く動いたものだった。
2004年12月4日。あれは土曜日だった。夫は両親と子供たちを連れて午前中ピエモンテ州のアウトレットに出かけており、帰宅と同時に長女を補習校に連れて行ったが、その途端に陣痛が始まった。その後病院へ入ったのだが、始めは陣痛室がいっぱい。やっと出産という時に、今度は分娩室がいっぱい。痛みに耐えきれないアラブ系の妊婦が叫びまくり、助産婦さんに「バスター!!(いい加減にしなさい!)」と怒鳴られていた。陣痛ぐらいでガタガタいうな!日本人の妊婦は耐えて耐えて声を出さず、呼吸で痛みを逃してるんだよ!早く場所をあけてくれ!
また、夫は真っ青になり倒れそうで、助産婦さんに大丈夫か?と言われていた。しっかりしてくれー。産むのはわ・た・し。結局廊下でストレッチャーの上で3480gの次男を出産したのだ。
いちいち、あり得ない!あり得ない!と思ったものだった。(翌日夫はウクライナ出張に出かけたが、私の入院中に母がアイロンがけをしていたのはいいが、あちこち電気をつけていたので、電気が飛んでしまい、どうしていいかわからない。地下の電気の元があるところのスイッチを入れなければならないが、それがわからず、当時8歳の長女がアパート中の家をめぐり教えてもらって電気が戻ったという事件も起きた)我が家には常に常に小さい事柄ではあるが、試練が付きまとう…涙。
とはいえ、当時の日記を読み直してみた。さすがに、3人目だから、上の子たちの生活が中心で、親や兄弟の都合で有無を言わさず連れまわされる。夫は不在がちだが、シッターや人に預けることなど一切なく、常にスリングにいれて抱き歩いていたものだ。懇談会やら勉強会に連れて行っても、動き始めるまでは人に迷惑をかけることはほとんどなかった。しかし、映画に7-8回連れて行ったようだが(日記によると)気が付くとハイハイし消えており、床に落ちているポップコーンを食べていたり、紙コップをがりがりかじっていることがあったようだ。
昨夜は友人にお祝いしてもらったようだが、今日は体調が今一つ。しかも天気が悪くスケートボードは出来ず、家で勉強をしていたようだ。夕方になると、「何時に帰ってくるの?」(前日見本市会場で買った)「プレッツェル買ってきて」とメッセージが来た。
そして、昨日は友人から誕生日プレゼントになななんとハムスターをもらって来た。赤目のキャンベルハムスターの雌。
誰が世話するの?ケージはどうするの?えさは?と聞くと、僕がするよ…と言ったが、昨夜からずっと同じ場所に…。さーさー、これからどうなるでしょうか?とにかく名前を付けようよ。
いずれにしても、日本でもイタリアでも正式に成人になった。長女は高校を卒業し、ボローニャで生活した。長男は卒業まで時間がかかり、その後パンデミックもあったが、タイミングをみて日本へ行き生活し始め、早いものでそろそろ2年になる。そして、来年春に次男は高校卒業予定。さあ、どうなるのだろうか。
子育ては渦中にいるといっぱいいっぱいで周りが見えなくなることが多々あるが、あっという間に育ってしまうんだな。アルバムや数年前まで書いていた年末年始の家族の報告を読み直し、子供たちの笑顔にグッとくるものがあった。
それにしても、30代、40代、50代半ばまで子育てだけだったではないか!と思いがちだし、どの子とも思春期はよくぶつかった。しかし、人間が人間としてまともに育つためにはやはり、家族として暮らす時の人間同士の心と心のぶつかり合いが必要だし、家族だからこそ与え合うことができる人間のぬくもり、愛。そして赦しがなくてはならない。(赦すのは甘い、と夫は言うが、家族が赦さなければ誰が赦すのか?誰が認めるのか?ということもあると思う)この経験を通してのみ、人間は成長する。
そう思えることも恵みの時なのだろう。
次男よ、誕生日おめでとう。力強く生きて欲しい。

